目の前にある大きな船がまるで見えない不思議な話を紹介しよう。

1節心理学

脳で意識しないものは目にうつらない?

1520年、世界一周をめざすマゼランとその一行が、南米最南端のフエゴ島

に到着したときのことだ。マゼランたちは、島の湾内に大型帆船4隻を停泊さ

せて上陸した。島民たちはもちろん驚いた。しかし彼らには、マゼランたちが

どのようにしてフエゴ島にやってきたのかまったくわからなかったという。なぜ

なら、彼らの目には湾内に停泊している4隻の大型帆船がまったく映らなかっ

たからである。島民たちの目は、大型船団に視界をさえぎられることなく、い

つものように湾の向こうの水平線を見ていたのである。フエゴ島の住民たち

はカヌーしか知らなかった。彼らの意識には大型帆船は存在しない。存在し

ないものは見えなかったのである。この事実は、その後の何度目かのフエゴ

島再訪のとき、島民たちがマゼラン一行に話したことからわかったという。ま

た、生まれつき白内障で、一度も外界を見たことのない人が、角膜移植によ

って目が見えるようになった。この人にとって世界はどのようなものだったか、

という研究がある。結果はじつに悲惨なものだった。その人が体験したのは、

何の形も意味ももたずに、ただ流れ込んでくるだけの光の洪水だった。それ

は耐えられない体験だった。混乱したのは視覚だけでなく、触角や聴覚など

ほかの感覚までもが影響を受けたのだ。その人は狂乱状態に陥った。そこか

ら逃れるためには目を閉じるしかない。結局、そのは二度と目を空けようとは

しなかったという。

リンゴの光がリンゴに見えるのはなぜか

リンゴをふくめてすべての物質はエネルギーの波動からなっている。ではな

ぜ、リンゴはリンゴに見えるのか。それはこういうことだ。リンゴから反射され

る光の波動がわれわれの脳に伝達される。この波動はそれまでの成長過程

で蓄積されてきた体験の枠組みのなかで翻訳される。リンゴならば、リンゴの

イメージが翻訳された波動に共鳴するのだ。すると、そのイメージが眼前の世

界に投影され、その結果、われわれは具体的なリンゴの形や色を見ることに

なる。このようなプロセスはほかの感覚にもあてはまる。匂いや味や音も、そ

れ自体が独立して存在するのではない。すべてはエネルギーの波動であり、

それぞれの感覚器官につながっている神経はこの波動をキャッチするだけの

ことだ。そして、脳に蓄積されてきた枠組みのなかで翻訳され、具体化されて

いくのである。そう考えればフエゴ島の住民の例も納得できる。彼らの脳内の

枠組みには、大型帆船のイメージがまったくなかった。光の波動が脳に伝達

されていたにもかかわらず、彼らの脳はそれを翻訳することができなかった。

つまり共鳴するイメージがなかったのだから、目の前の世界に帆船は投影さ

れなかった。見れども見えなかった。

我々の身体もまた波動である

世界は見えるとおりのものではなく、我々がそのように見たいと思ったとおり

にしか見えない。すべての存在は関係性のなかにあるからである。量子力学

は、すべての実在は同時に波であると結論した。我々自身もまた、その身体

を構成している器官をどんどん細かくしていけば、すなわち器官→分子 →原

子→原子核…とミクロの世界に入っていけば、究極では素粒子の波動にいた

ってしまう。つまりわれわれの実態も、世界のあらゆる存在と同じように究極

の実態など何もないのだ。あるのは波動だけである。量子力学は、宇宙のす

べての素粒子が結びついていることをはっきりと示している。つまり宇宙のす

べては相互関係でつながっている。そして、素粒子とはエネルギーの波動に

ほかならなかった。すべての存在は波動体の収束である。そしてわれわれの

感覚は、その波動の一部を脳に伝達し、長い間につちかってきた経験の枠組

みのなかでイメージに翻訳するのだ。

百匹目のサルが伝えた意識の不思議

幸島の飼育係は、あるとき、それまで与えていた植物の芽果実といった自然

の食物をやめて、新しくサツマイモを餌として与えることにした。サルたちはは

じめ、食べるのを嫌がった。餌のサツマイモが泥や砂で汚れていたからだ。と

ころがある日、突然、一匹のサルがサツマイモを拾って海水で洗い、汚れを

落として食べることを思いついた。そして、この18ケ月になる若いメスザルは

母親にサツマイモを洗って食べることを教えた。この食習慣は当然、ほかの

サルにもゆっくりと伝わり、しだいに群れのなかに広がっていった。やがて6

年がたった。このころになると、若いサルはこの新しい食習慣を全員、身につ

けていたが、5歳以上の古株のサルのほとんどはまだ、以前のままに汚れた

サツマイモをそのまま食べていた。異変が起こったのはそのときである。ワト

ソンは話をわかりやすくするために、新しい食習慣を身につけたサルが九十

九匹いたことにしている。そして、6年目のある日、その九十九匹に新しく一

匹の仲間が加わったのだ。すると、この百匹目のサルが加わったことによっ

て、まるで臨界量を突破したかのように、その日の夕食時にはほとんど全員

のサルがサツマイモを洗って食べるようになった。異変はこれだけではない。

この日を境に、海をはるかに隔てた別の島のサルの群れにも、本州の高崎

山のサルの群れにも、イモを洗ってたべる新しい食習慣が一気に広まってし

まったというのである。この事実が意味することはきわめて明快だ。まさに、

シェルドレイクの理論で主張されていることが、自然界で実際に起こったの

だ。すなわち、サルの脳は時空間を超えた形態形成場と共鳴したのである。

そしてふたたびフィードバックされ、百匹目のサルによって、場の作用が臨界

量を突破したのである。

何々中毒の不思議

次の文章は、ある患者の禁断症状を示した記載です。「患者の苦悩はつの

り、自制を失っている。彼は、興奮とウツ状態の発作を交互に繰り返してい

る。顔つきは、やつれてみえる。彼に少し(これ)を与えると、一時的な救いに

はなるが、彼はさらにみじめな状態にってしまう。」これは何の禁断症状だと

思われますか。文中にある「これ」とは何でしょう。この一見、麻薬の禁断症

状を示すかの文章は、20世紀初頭の英国の有名な薬理学者、クリフォード・

アルブットによるコーヒーの禁断症状を示したものなのです。実は19世紀頃

は、中毒とか依存症とかは別に麻薬やアルコールに限ったことでなくて、薬、

喫煙、賭け事、過度の性行為など、あることに極度に熱中してしまうことの総

称だったのです。それは「中毒や依存症は体の生理に何か異常をもたらすの

だろうか」という研究が、何回繰り返しても結論が出なかったからです。です

から、年にグリフィス・エドワヘド博士によって書かれた「麻薬と人間」という本

の中には「19世紀や20世紀初めには、麻薬中毒はやや体に悪い行為の繰

り返しだと思われていた」と述べてあります。つまり昔は、「何々中毒」といわ

れる習慣性の行為は、それほど重大な精神的、身体的障害をもたらすとは考

えられていなかったのです。その理由として、動物にモルヒネを繰り返し与え

たり、アルコールをひんぱんに飲ませても、決して依存症になったりしませ

ん。唯 依存症動物を孤独にしておく場合です。それも、動物を普通の方法で

飼育すればすぐに、モルヒネやアルコールを取らなくなるのです。さらにヨー

ロッパでは昔、コカインなどは薬局で自由に買え、これを常時服用する人が

いたのに中毒症状を示す人はほとんどいなかった。ということもあります。もう

一つ面白いのは、1903年まで、コカ・コーラの重要な成分にコカインが入っ

ていたということです。もちろん現在では用いられていませんが、それでもコ

カ・コーラの愛用者に中毒症状が出た人はいませんでした。このように実験

的にも歴史的にも、中毒とか依存症とかを定義するのは大変難しかったので

す。それにもかかわらず、最近、麻薬中毒やアルコール依存症は大変大きな

社会問題になっていますし、常用者や患者も増えています。

 

なぜであろうか。ただの小麦粉を腹痛の薬として医者が渡せば患者の腹痛も

ピタリと治るのである。つまり思い込みの原理である。思い込みが強ければ

強いほどその効果は大きいのである。それならば思い込めばその通りになる

かといえば、そうは簡単ではない。自己意識でそうイメージし、また無意識が

共鳴して設定が塗り替えられた時に初めてそうなる。その共鳴するきっかけ

が感動という快感なのである。人間には感情というシステムがあるので、快

感・不快によって心と体に大きく作用するのである。人間以外の動物には高

度な感情は無い。しかも人間だけが作用するシステムがある。それはセック

スである。動物は交尾する期間がDNAの情報通りに生き方が設定されてい

るからであるが、人間だけはいつでもセックスは出来るのである。それは人間

ほど体力的に劣っている生きものはいないのではないかと思う。一匹の野犬

にも勝つことができないほど弱い生きものであり、その為に生き延びる為に

は子孫を残せるように設定が変化したのだと思う。いつでもセックスが可能と

いうことは、絶えず興奮していることになる。だから人間はその逆にいつもい

つも興奮しないように、くつろぎ安らぐ為の工夫をする必要、システム通りに

動くことも逆らう以上に心身の受ける影響は大きくなる。人間の本能の中で

も、睡眠欲・食欲・性欲などはコントロールするのが非常に難しい部類に入る

であろう。しかし、食欲をコントロールすることによってそれは可能である。私

は20日間の断食の経験があるが、非常に苦しんだことを覚えている。しか

し、苦しんだのは最初の一週間くらいでその後は空腹感は平行線をたどりそ

の後は逆に爽快感があり、思考がはっきりして気分が良くファイトが湧いてき

たことを経験している。水断食ではなくて今は半断食等が良いかと思う。全て

の欲望が可能になってしまうと、人間は駄目になってしまう。過去の歴史を見

ても、国が滅びるのは、その特権にあまんじて、美食と女と酒に溺れて心身

共に駄目人間になってしまい、他国に攻められて滅亡しているのである。太

っていて痩せたいと思ってもなかなか痩せることが出来ないとこぼしている人

がいるが、それは「私は駄目人間であると」宣言しているようなものだ。親が

本能をコントロール出来ると子供もそれを見習うので、別にそのことについて

教育する必要もないのである。それと子供の成績が悪くても叱るのはよい

が、怒ってはいけない。たとえ成績が悪くても前学期よりも上がっていると

か、成績が悪くても自分の部屋の掃除がよいとか何でもよいのである。誉め

て子供自身が自分もやれば出来るということを思い込ませることが一つの教

育法である。親だからといって子供を縛ってはいけない。子供に選択の余裕

を与えてあげることが大切であると思う。親が子供に入れ替わることは出来

ないからである。親は子供を縛っているつもりでも、そのことで親は自分自身

を縛ることになるのである。その証拠に子供の成績が上がらないことを親が

悩んでしまう。親が悩めば子供はすべて感覚で受け取っているので親の状態

はすぐ分かり、ますます子供自身が悩みを膨らますのである。「子供の失敗

は親が全て責任を持つから好きなようにやりなさい」と突放してあげるほうが

良いように私は思えるのである。子供が選択することを親が代わりに選択し

てはいけないのである。

そうしないと、本人がそうなった理由を努力なしに手に入れるこ

ととなり、本当の意味でその人を救うことにはならないからである。自分は自

分なりにその問題を解決した時は、感動するのである。その感動がリズム(波

動)を変化させるのであり、自分で自分自身のシステムのスイッチを押すこと

が大事なのである。それは全てに応用が出来るからである。人真似ではその

場は良くなってもまた新たな問題が生じた時には応用ができないからであ

る。自分努力した程度に良くなることが本当に正しいのではないかと思う。自

分自身にとっての正しさとは何かを求めるのが肝心であり、人真似では面白

くないし感動もないのである。自分で解決すると感動を生み、その感動が快

感を生み、その快感が創造力を生み出すのである。一日が気分良く過ごせて

快適になるかを自分なりに探ってみることである。不快になった原因を追求

するばかりでは偏っているからで、それは自分でそうなるように設定している

からで、設定を自分で変えてみるこである。そうすると今までと違った現実が

現われるはずである。人間は自分で設定した通りのイメージ(意識と無意識)

が投影された現実を見ることができるからである。ここで自然の熟語を紹介し

よう。自然とは「他者の力を借りないで、それ自身に内在する働きによって、

そうなること、もしくはそうであること」である。本体のコンピュータはこのように

働いてくれているので本体にまかせることである。自己意識を使わなくても、

無意識が自動的に働き、解決してくれるからである。ただ我々はその情報を

受け取ればよいだけであるので、エネルギーの節約となり、疲れることもない

のである。不快という異常感情は悩みや病気を生み出すだけであり、停滞を

示し後退を意味するので前向きに前進することは出来ないのである。自然は

ゆらぎながら絶えず変化しているので、我々人間も自然の一部であるので、

絶えず変化することが正しいのではないかと思う。停滞し、じっと待っている

状態は自然は許してくれないからで、本体はそれを伝えるために悩みや病気

を作って教えてくれているのである。システムは人間の情念は受け付けない

ので、いくら悩み苦しんで叫ぼうとも解決してくれないことを知っていてほしい

のである。自分は何もしなくてもお金さえあれば解決してくれる所もあるが、

そういう所はその枠から出られないようになっている。なぜなら、他力である

以上それ以外に救われる道はないからで、その所の考え方に左右されて、自

分の思うような生き方は出来なくなってしまうからである。それでも良いと判

断する人は行けば良いしそれは本人の自由選択であっていいと思う。意識と

無意識のゆらぎについて少し述べたが自然界ではどうであろうか。参考にな

ると思うので紹介をしよう。

ゆらぎ

自然界に行なわれている分配の仕方には不思議なことが多い。日本の人口

分布を調べてみると、大都市から地方都市へ、また地方都市から大都市へ

人が往来しているが、都市の人口の間にはある調和が保たれている。昭和

53年9月30日現在の統計によると、特別区のみの東京都の人口は828万

9000人で最も多い。そのつぎが横浜市で271万7000人、つづいて大阪

市262万人、名古屋市200万8000人などとなっている。人口の多い順に

これらの都市を並べ、横軸に、人口に比例した長さの棒をたて、棒グラフをつ

くると、不思議なことに双曲線ができる。つまり順位と人口との積をとると、ど

の都市もほぼ一定の値を示すのである。この関係をはっきり見るためには

「両対数方眼紙」を用いるとよい。この方眼紙の上で人口を示す点が一直線

上にならび、しかもその傾きが右下がりで45度になれば、双曲線上にあると

判断してよい。人口が20万〜30万人の都市は町村合併など、人為的な作

為がつよくはたらいているせいか、直線から少しずれている。わが国で最も

大きい湖は琵琶湖で、その面積は673平方キロメートル、それに続いて霞ケ

浦の167平方キロメートル、サロマ湖の151平方キロメートルとなる。日本

列島の創成期に自然に作られた凹地の分布であるがこれらもぼ双曲線法則

に従う。自然現象の分布がこのように双曲線分布に従うことを初めに言い出

したのは、Zipfという人で(1949年)この法則をジップの法則という。日常使

っている言葉の中には、非常にしばしば用いる単語と、そうでないものがあ

る。だいたいにおいて、ちょいちょい使う単語食み次回単語である。アメリカ

のシャノンという人は、英単語の出現頻度をしらべた。最も頻繁に出てくるの

はthe、それにつづいてof、and……となる。これらの単語を出現頻度に従っ

て並べた順位と出現確立とを両対数方眼紙に目盛ると、これも実に見事に右

下がりの45度の直線上に並んでいる。ポアッソン分布も参考になるが今回

は省略する。興味ある方は勉強されるとよい。自然界に存在するもろもろの

ゆらぎ現象をスペクトルで分類すると、大体のところ、つぎの3種類になる。

 

白色ゆらぎ  1/fゆらぎ  1/fゆらぎ

このうち、白色ゆらぎと1/fゆらぎはブラウン運動の理論などによってその

発生のメ カニズムはよく理解できるが、1/fゆらぎというものはなかなかの

曲者で、非常に普遍的に存在する割りには、なぜそうなるのかよくわからな

い。それぞれ別々な理由によるものか、またはなんらかの共通な根を持って

いるかが、これからの研究テーマとしてはなはだ興味のもたれるところであ

る。指揮者泣かせの「ボレロ」として当日昭和55年5月25日の朝日新聞の

テレビ番組紹介欄につぎのように書かれている。「指揮者泣かせの難曲、ラ

ベルの(ボレロ)を取り上げる。この曲は、たった二小節のリズムパターンが

全編一六分を支配しており、このワンパターンのリズムを初めから終わりまで

小太鼓がたたく。この同じリズムの繰り返しを機械でやられると、多くの演奏

家は5分もたたずに気がおかしくなるという。ワンパターンといっても人間の

感情によって微妙な違いがあるのだ。難曲(ボレロ)を通して人間の見えざる

感性を実証的に探っていく」となっていた。私が興味を感じたのは、機械演奏

でリズムをとると、演奏家が5分もたたずに気がおかしくなるという朝日新聞

解説氏のコメントである。ワンパターンではあるが、その繰り返しの中にあら

われるリズムの微妙なゆらぎが、音楽演奏に生きた何物かを与えるという事

実に、私は格別の興味をそそられるのである。このリズムの微妙なうごきは

人間のものであって、機械のものではない。

指揮者は単に機械的に棒を振っているわけではないのである。その証拠に

機械で作った音で電話などの案内されても何の感動もないのである。近ごろ

のお店に買物に行っても、「毎度有難う御座います、またのお越しをお待ちし

ています」とまるでテープレコードのような語りで言われても何の感動があろ

うか。それよりもニコッと笑い頭を少し下げるだけでお店のいわんとするところ

は分かるのである。欧米式の店員教育をそのまま日本の商業に持ち込んだ

のであろうが、逆効果もいい所である。こういう言葉使いが良いと思っている

若い人たちは少ないと私は思いたい。機械に使われては駄目である。生活が

便利で快適なのは良くわかるが、肝心なのは便利な機械を使いつつ人間本

来の自然性を失わないように鍛練することが必要である。ある団体のように、

文明が民衆の苦しみを生み出す原因であるから、武力でもって古代に戻ろう

とするのは行き過ぎであろう。これまで調べて来たことから考えると、生体の

中に1/fリズムをもったゆらぎがあるような気がしてくる。脳波の波形は周波

数に応じてδ波(デルタ波1〜3ヘルツ)、θ波(シータ波4〜7ヘルツ)、α波

(アルフア波8〜13ヘルツ)、およびβ波(ベータ波13ヘルツ以上)に分けら

れているが、脳波の波形は精神活動によって著しく変化する。このうちα波

は比較的大きい振幅をもち、安静閉眼時に著しくなるといわれている。脳波

の測定を後頭部(P3−という位置)で行い、帯域フィルターを用いて8ヘ 

ルツから13ヘルツの変動成分を電気的に分離して取り出した。被験者は14

名の学生で、目を閉じてベットに横になった状態で測定した。安静にしている

とき、および各人の好みに合った音楽を小さな音で聴かせている時のα波の

周波数変動のパワー・スペクトルは0.03ヘルツより大きい周波数ではスペ

クトルは1/f型になっている。これに対して、2キロヘルツと3キロヘルツの

方形波でスピーカーを鳴らし、しかもその音量を被験者が耐えきれるかぎり

大きくすると、被験者は心の安静さを失っていらいらしてくる。すると、α波の

変動スペクトルが変化するのである。0.5ヘルツ以上の変動周波数につい

ては、スペクトルは一/f型になってはいるものの、それよりもゆっくりと変動

する成分については、スペクトルはほとんど白色になっており、相関が失わ

れている。つまり、安静時においてはかなり長い時間にわたって1/f的な相

関が持続するのであるがいらいらしてくると、長時間の精神的な持続が保て

なくなるのである。

自然界はゆらいでいるのである。だから人間もゆらいでいるのが正常なので

ある。執着したり、集中したり、こだわっている状態の時に、1/fベースの音

楽を聞くとくつろげて安らいでくるのはいかに自分が偏った意識をもつている

かの証明にもなるのである。ゆらぎは常にランダムな部分と因果的な部分と

から成り立っている。ここでも不確定なことと、確定されることとに分けられて

考えられている。昭和55年8月3日付の朝日新聞に「白人も黒人も先祖はア

ジア人」と題してつぎのような記事が出ていた。「ミトコンドリア」は細胞内にあ

るエネルギー供給工場。独自の小さな遺伝子を持っている。ブラウン博士

は、13人の白人、4人の中国人、4人の黒人の計21人の細胞からミトコンド

リア遺伝子を取出し、18種類の酵素でズタズタに切って、遺伝子構成の型を

比較した。その結果、それぞれの断片の構成要素は人種ごとによく似た型を

示した。そこで、「人種間の差は長年の間に突然変異によってできてきたも

の」として、遺伝子が共通だったとみられる時期を計算したところ、18万年ー

36万年前に共通のミトコンドリア遺伝子をもっていたとすれば、つじつまが合

うことが分かった。人間の祖先がだれであるかは実はあまりはっきりしていな

い。人類は約400万年前に出現した猿人から原人、旧人、新人と進んでき

た。旧人はネアンデルタール人と総称され、数万年前まで生きていた。ただネ

アンデルタール人の化石はヨーロッパや西アジアからはかなり出ているもの

の、その形態はいまの人間とはかなり異なっているため、現代人の直接の祖

先であるかどうかに疑問が持たれている。このナゾに対し、数年前にアメリカ

の学者がヒヒのウイルス遺伝子をものさしとして使った研究から、いまの人間

の遺伝子はアフリカのサルよりもアジアのサルに近いことを見つけ、いまの

人間の起源がアジアである可能性を指摘した。このように、人類自身も突然

変異をゆらぎとして自然選択によって進化して来たのであるから、これからも

自然選択と無縁というわけにはゆかない。また、突然変異によって遺伝子に

ゆらぎが生じる大きさ、確立がわかっているから、現在存在する人種間の差

が生じた年数が推定できるのである。それぞれの社会には典型としての性格

があるにしても、その中にいる人たちはさまざまであって、典型とは全くかけ

離れた個性を持った人もいる。このような人を「ゆらぎ人間」と呼ぼう。これに

対して典型の近くにいる人は「標準人間」である。ゆらぎ人間の考え方は、よ

しあしは別として、標準人間の考え方とは違う。こういう場合にはこういう服装

をすべきであると標準人間が考えるのとは違った服装で現われたりするし、

普通の人が口にしないようなこと、考えてもみないことを口にしたり考えたり

するから、標準人間のひんしゅくを買ったりすることが多い。没常識というか

非凡というか、良い意味でも悪い意味でも標準人間とは異種の存在である。

このような「ゆらぎ人間」の存在を許すかは、その社会の判断に掛かってい

る。ゆらぎ人間の存在を幅広く許容する社会では個性の分布する範囲が広

いから、犯罪の発生率も、その凶悪振りも極端かも知れないが、また才能豊

かな個性もおおらかに芽をふいて、傑出した人物が育つ素地があるので、や

りがいのある社会であるに違いない。善悪両方向へのゆらぎのなかから、ど

の部分を「適者」として強調するかによって、その社会の進化する方向がきま

るわけで、どういう方向に選択原理を機能させるかがその社会の持つ特異性

をきめることになる。その前提条件としては、個性のゆらぎをまず許容するこ

とが必要である。社会の自然選択の原理は、その社会の持つ価値観である。

第二次世界大戦後の日本人の物の考え方の移り変りを見ると、自然選択原

理の変更によって典型がいかにすばやく移動するかがわかるのである。ゆら

ぎというものは、ランダムに発生していたほうが安全で、ゆらぎの発生そのも

のをコントロールするのは危険をはらむことになる。ゆらぎの発生そのものを

精神面からコントロールするのは方向づけられた教育である。また生物的に

コントロールするのは遺伝子の人工的な組み替えとか、医学の部分的な発

達である。ひるがえって、あまり個性のゆらぎを許容しない社会はどんな風で

あるかを考えてみよう。他人とひどく違っていることを避けようとして、人々は

なるべく個性を典型に疑集させようとする。服装も色彩もユニフォーム化し、

人間関係には過度に気をつかうようになる。つまり、他人ごとに非常に興味

をもつようになる一方では、極端な個性を持つ人が少ないので、過度の競争

心で心身を消耗することもなく、また凶悪な犯罪も少なく心安らかで快適な社

会であるかも知れない。典型に個性が疑集すれば、個性のベクトルはだいた

い同じ方向を向くので、物事を成就するときの作業能率は個性的社会よりも

よくなり得るわけである。個性的社会は質的な飛躍を、平均化社会は、量的

な飛躍をその特徴とする。

 

だから、ゆらぎ人間でもあり、標準人間でもあるというのが、バランスであり、

偏りは自然淘汰されるのである。戦前・戦中・戦後と出生率のデーターでもシ

ステムは働いている。戦争中は男性が死亡して、断然女性の人口が増える

が、戦後何年かすると男女の比率は一定してくる。つまり男子の出生率が高

まり男女差が平均化するのである。全女性の妊娠について細胞同志がまる

で相談をしているようにも思えるがどうであろうか。本体(コンピュータ)は地

球いや宇宙規模でシステムとして働いているのかもしれない。男子の精子の

数が減ってきたり、出生率が下がったり、動植物の異変が起こったり、自然災

害が増えてきたりしている現在の情況はシステムが何らかの警告を意味して

いるのだろうか。我々のの意識の偏りが現在の異変の投影を投げかけてい

るのであろうか。その意味においても我々自身の意識の変革を急がねばなら

ないのではないかと思うのである。筑波大学の学長・江崎玲於奈博士が学生

たちに話したことを紹介しよう。「科学者は、もちろん鋭い知性のもとに研究を

進めますが、時には直感と霊感を頼りに、暗中模索、試行錯誤を繰り返しま

す。そして、たまにやっと幸運に恵まれ、私なども経験がありますが、闇の中

で光彩を放つような解答を見いだして歓喜するのです」ここで江崎博士は、科

学をつくりだしている。このようなプロセスこそが科学の神髄であると言ってい

る。

日本人の脳と外国人の脳

東京医科歯科大学の角田忠信教授は1972年、「日本人の脳と外国人の脳

は音に対する反応が違う」という説を発表して、大きな反響を巻きおこした。

人間の脳を上から見ると左右二つの半球に分かれている。これら右半球と左

半球は、微妙に違う機能を果たしている。特に言語の機能を司る中枢、言語

野ははっきりと左半球にあり、このことはどのような言語を話す人も変わらな

い。だから人間は音声が運んでくる言語情報、あるいは目から取り込む言語

情報を左脳で分析し理解していると言ってよい。試しにわたしたちが耳に入っ

てくる音を認識する道筋を追ってみよう。一口に音といっても、言葉、音楽、自

然音、騒音など種類も多いし、音量や音質、言葉のように情報を含むかどう

かなどまさに千差万別である。しかし見方を変えると、どのような音もその本

質は空気の振動であり、人間の聴力はそのうち周波数20ヘルツから2万ヘ

ルツの振動をとらえる。音は耳から入り、鼓膜を震わせる。鼓膜は低周波数

の音にはゆっくりと、高周波数の音には早く振動する。鼓膜に接して小さな3

つの骨がつながっているが、その形から、槌(つい)骨、砧(きぬた)骨、鐙(あぶ

み)骨という。鼓膜が振動で前庭窓に伝える。鼓膜と前庭窓の大きさの比は

約20対1。そこで鼓膜の振動は20倍にも増幅されて、前庭窓に伝わる。人

間がかすかな「針の落ちる音」まで聞けるのは、この増幅の仕組みが大いに

役立っているからである。前庭窓の振動は内耳を満たしているリンパ液の圧

力を変化させ、その変化を細胞に生えている「聴毛」がキャッチする。聴毛の

ゆらぎは神経の刺激に変換されて、中脳を経て、大脳の聴覚野に伝えられ

る。「聞く」とは何かを考えて見ると、ただ音の刺激を受けとめるだけでは不充

分で、脳がその音を分析し理解する段階までが含まれる。耳が刺激を感じ、

その刺激を脳に伝え、脳が音の性質を解析して、初めて「聞く」プロセスが完

了する。耳は音をとらえる器官であるが、音を解析する器官ではない。解析

するのは脳である。その意味で、人間は音を耳でなく脳で聞く。同じ音を聞い

ても人によって違う解釈が生じるのは、耳の働きは同じでも、脳の働きが違っ

ているからである。言葉の音には情報がある。しかしそう言えるのは知ってい

る言葉に限られる。なじみの薄い外国の言葉だったら単なる音の連続に過ぎ

ず、そこから情報を得ることはできない。また母国語だったら裏の意味まで理

解できても、外国語の細かいニュアンスまで理解できる人は稀である。その

違いは、耳に違いがあるからではなく、脳の働きに違いがあるためである。し

たがって、言語野は左半球にあるが、もし聞く人にとってその音が「言葉」とい

う情報を持つ音でなかったら、その人の左半球が働くとは限らない。ここが重

要である。さて、角田教授の説によると、音を認識する時に働く半球に日本人

と外国人では次のような左右の差がある。

日本人

左半球で聞く音……言語、母音、子音、ハミング、泣く、笑うなどの感情声、

虫や動物の泣き声

右半球で聞く音……音楽、楽器音、機械音。

外国人

左半球で聞く音……言語、子音。

右半球で聞く音……音楽、楽器音、機械音、母音、ハミング、泣く、笑うなど

の感情声、虫や動物の泣声。言語野は日本人も外国人も左半球にあること

に変わりはない。したがって言語を分析し理解するのはどちらも左半球であ

る。だが、言語の要素となる母音と子音に分けて実験すると、いささか違う結

果が出る。日本人は両方とも左半球で聞くのに対し、外国人は子音は左半

球、母音は右半球というぐあいに別々に聞く。同じ半球で聞く種類の音もある

が、ほとんどの音で正反対といえるような結果が出ている。なぜこのような違

いが起きてくるのだろうか。日本語と他の言葉との大きな違いは、日本語に

は母音、つまりa、i、u、e、oが極端に多い点にある。その証拠に日本語では

母音だけでも文章を綴れる。読み方しだいで意味のある立派な文章になる。

頭の体操のような観もあるがいくつか例を挙げてみよう。次の文はどう読ん

だらいだろうか。

1「ooooo」   2 「iii」   3 「uuu」   4 「aiooi、oiouu」   5 「aoiaoi」

 一見、何を意味するかすぐには分からないかもしれないが、しばらく時間を

かければ解読できるだろう。答えは、

1   「王を負おう」王の代わりに皇、翁、でもよい。また「王を追おう」ともな

り、これなら王の代わりに皇、奥、鴬、などもありうる。

2   「いい胃」「いい医」「いい猪」「いい衣」「いい井」「いい葦」

3   「う、飢う、」うは鵜であり、鳥でもよい。

4   「愛を追い、老いを憂う」

5   「青い葵」「葵青い」どちらでも。

ちょっとした暇つぶしに、母音だけの文章をつくることもできる。「ie、iie、ie、ii

au、ooi、」というのは、大井さんと相生さんが「言え」「いいえ」と言い争ってい

る様子である。また、50音を引き伸ばして発音すると、全部「a、i、u、e、o」

のどれかになってしまう。このことからも明らかなように、日本語の「音」は、

母音、あるいは子音と母音の組合せでできている。英語の「tennis(テニス)

」は、日本語では「te・ni・su」となり、決して「s」では終わらない。つまり、日

本語は母音なしには成立しない言語で、それだけ母音は日本語の中で重要

な役割を担っている。こうした日本語の特徴が母音を言語野のある左半球で

聞くという、日本人型の脳をつくったというのである。

 

世界の言語の中で母音で終わる言葉は特別であると考えてさしつかえないと

思うのである。母音で終わることで自然音と非常にマッチするのである。動物

の泣き声を言葉で表しても日本語ほど自然に近い言葉はないのである。寝て

いるいびき音を日本語は「ぐうぐう」だが、英語では(Z・Z・Z)である。だから

日本語は自然語とも言えるのではないかと思う。言葉によって日本人は自然

と同化しているのである。風の音、水の流れる音、虫の声等の自然音でも日

本人は風情を感じ、外国人は雑音として捉えているので、俳句などの文化は

外国語では発生しにくいのかもしれない。それに母音の「a・i・u・e・o」には強

弱がある。感嘆の言語音では「あー(a)」であるし、下半身に力が入る武道な

どの気合いなどの「エイッ(ei)」はもちろん「イ(i)」に力をこめることが大切

で、「エ(e)」に力を入れると下腹には力が入らないのである。考えたり、思い

出したり、じっと耐えたりする時は「ウー(u)」であり、さらに「エー(e)」は(u)

より数段高い知能的リズムを持っている。「おー(o)」は安定の意味合いが強

い母音でもある。母音の組合せによってさまざまなリズムが生れるのである。

普段なにげなく呼んでいる姓名も母音の組合せなので、その人の生命ネル

ギーの力にも関係しているのかもしれないのである。その上に漢字という文

字がある。漢字は象形文字までたどっていくと、その文字のもつ意味が自然

の情景として示されている。たとえば、「村」という字は「木ヘンに寸」である

が、「木」は立ち木の意味で「寸」は旅人がちょっと腰を下ろして休むという情

景である。ゆえに、大きな木の下で人が休み、暮らしやすい環境なので定住

して人が集まり一つの区域が「村」なのである。また、旅人ということで流浪の

意味もあり、木の緑の色の意味もあり、人々が集まるので人と人とのコミニュ

ケーションという意味もあるのである。しかし、このリズム通りになると言うの

ではなく、そのリズムの影響を受けると解釈したほうが良いと思う。つまりそ

の人がどう受け取るかの選択によるのである。このように漢字には自然の情

景・状態のリズム(波動)がインプットされているのであるから、土地、川、山、

湖、などの名前はそれなりの意味があるので、行政のもとで簡単に名前の変

更をするのは出来ることなら辞めてもらいたいものである。尚、姓名判断など

で名前を変えるだけでその人の人格が変わるという簡単なことでその人の人

格が決められているのではないと言うことである。その人以外の全てが外部

装置として天文学的数量のリズム(波動)によって、また、その人の選択によ

ってその人が決めていることを深く考えることも必要ではないかと思うのであ

る。二重性でもあり、多重性でもあると考えるとその疑問は解けるのではない

かと思う。つまり、絶対的、100パーセントというのは無いということである。

ヒィフティヒィフティが現実であることであり、中途半端で良いのだということな

のだ。ちょっと良いことをして、ちょっと悪いことをしてゆらゆらとゆらいでいて

正常だと思えば暮らしやすいのではないかと思うがどうであろうか。

ヒトにはまた、自分の信じたいこと、望んでいることを確認したい欲求がありま

す。これは常識として皆知っているようで、実は皆その影響を過小評価してい

ます。人々大半は、自分が平均以上に知能が高く、平均以上に公平であり、

平均以下の偏見しかもたないと思っているそうです。またアメリカでのある調

査によると、高校生の70パーセントが、自分の指導力は同級生たちに比べ

て平均以上だと考え、平均以下と自己評価した人は、わずかに2パーセント

に過ぎませんでした。また「他人とうまくやってゆく能力」については、なんと

全員が平均以上と考え、60パーセント以上の生徒が「自分は上位25パーセ

ント以内」と考えいることがわかりました。このバイアスが知性や教育レベル

とは関係ない証拠に、大学教授の95パーセントが、自分は同僚の教授たち

よりも優れていると信じていたというデーターもあります。これとは逆に、「自

分は周囲の皆と同じだ」と信じたがるものだということを示す証拠もあります。

たとえば総意誤認効果」というのがそれです。これは、周囲の大多数の人

は、自分と同じ好みを持ち、自分と同じ判断をするはずだと思い込んでしまう

ことです。自分の行動を周囲の大多数が支持してくれる。皆も自分の立場に

なれば同じ行動をとるはず、と人は信じたいようです。この総意誤認効果もま

た、「人は自分の信じたいことを確認したがっている」ことの別の証拠といえる

であろう。意識、無意識の境界は連続的で、しかも、その境界はいつもゆらい

でおり、振れ幅の大きいそのゆらぎによって、意識と無意識はつながり、互い

に補うように機能しているように思われます。この「ゆらぎ」の領域に的をしぼ

って、次の問いを発してみたいのです。つまり、どのようなときに意識は生じ

るか。またどのようなときには意識は生じないか。こんなことをあえて問いた

いのは、人が通常考えているほどには、意識は常に生じているわけではない

し、持続しているわけでもないと思うからです。むしろ、意識は特別な条件の

もとでだけ、生じて(あるいは高まって)いて、私たちはそれに気づかないだけ

なのではないだろうか。というのも、無意識の状態は、当然のことながら「気

づかれ」ず、その長さを実感されることもないからです。本やゲームに熱中し

て気がついたら何時間も経っていたとか、慣れた道を運転していて途中経過

がいっさい意識にはなく、気がついたらもう家の前まできていたなどという経

験の方が、むしろふつうなのではないでだろうか。この点に、意識の本質に迫

る一つの鍵があると思われる。

第2節量子物理学

量子物理学の出発点はそこに石があるとすればその石は本当に実在してい

るのかということから出発している。その本体を突き止めると原子という微粒

子となり、その原子を観測しようとすると難問にぶちあたったのである。その

一つは、物体の運動がニュートンの運動法則にしたがわないということ。ニュ

ートン力学では連続的とされている粒子の運動はミクロの世界では不連続性

であり、何の苦もなく飛躍することである。二つ目は科学者の科学観と関係

がある。よく知られた実験で「二重スリット」の実験で粒子でもあり、波動でも

あるという二重性が認められる。まるで粒子が意識がある振る舞いをし、観

測者の意識と実験装置によって変化するということ。三つ目は、量子力学に

よれば宇宙には一つの秩序があり、われわれの心、われわれの思想に関係

あり、われわれがどう考えるかによって物理的影響を与えるということ。位置

と運動量をどのように正確に測定しようとも不確定さが伴い原子のような対

象の将来を予測したり決定したりすることはこの不確定性のために不可能に

なる。これをハイゼンベルクの不確定原理と呼ぶ。またボーアの相補性原理

は波動と粒子の二重性と、この二重性に関連する抽像(たとえば波動の収縮

とか、粒子の飛躍など)は、実在の発現についての二つの対照的な精神構造

の不一致の結果であるという。この相補性については逆説的立方体の例をと

って説明をしよう。

 

 逆説立方体
 
この平面図に描かれた図を三次元の立方体と選択した時一番手前の壁は@

かAであり、同時に@とAは見ることはできない。しかし二次元の図として見

ると12本の線と8つの・点からつくる一つの抽象的なパターンであることにな

る。立方体と見たとき前@と後Aを選択することになる。しかしこの点と線を

単に抽象的なパターンとみるならばこの図の上方と下方の四角をいわば同

時に、前方もしくは後方とみることができる。この逆説的立方体は、量子物理

の世界の比喩にすぎないが、われわれの観測という行為に二重性が存在す

ることを端的に示す例でもある。量子物理によって物理学者は、世界が逆説

的立方体のように相補的に理解できるという事実を発見した。これを相補性

原理という。物理学者は、物理的宇宙が逆説的立方体のように見えるという

ことを発見した。物理的宇宙の観測の仕方には、二通りある。つまり、ある場

合には粒子、また別の場合には波動から成るとみる、二つの方法である。こ

れら二つの見方は互いに相補的である。つまり、宇宙は同時に粒子と波動の

ようには見えない。

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