第8節 言語学

第1項

アルタイ諸言語の構造

アルタイ諸言語とは、チェルク語族「広義のトルコ語」、蒙古語族「モンゴル語

族ともいう」、トゥングース語族のことである。チェルク語族に属する諸言語の

話し手は総計3500万人を越える。それらの諸言語を列挙すると、トルコ共

和国のトルコ語、南コーカサスのアゼルバイジャン語、ボォルガ河中流のタタ

ール語、チュワシュ語、ウラル河上流のバシキル語、中央アジアの広大なス

テップ地帯に分布するカザッフ語、カラカルパク語、それより南のイランおよび

アフガニスタンに隣接する地帯に話されるトゥルクメン語、その北隣のウズベ

ク語、天山山脈寄りの地帯のキルギズ語、新彊地方のウイグル語、アルタイ

地方およびその隣接地域の諸言語、シベリア東北部のヤクート語などがそれ

である。蒙古語族に属する諸言語の話し手の総数は350万人ぐらいでであ

ろうといわれる。蒙古人民共和国の蒙古語がもっとも有力で、ハルハ語とも

北蒙古語とも呼ばれ、その北のバイカル湖地方にはフリヤート語があり、コブ

ド地方のオイラト語、ホロンバイル地方のバルガ諸方言、南蒙古の諸方言の

ほかに、満州のダグル語甘粛地方のモングォル語その他の諸方言、先年京

都大学の探検隊によって再発見されたアフガニスタンのモゴール語などが、

その語族に属する。トゥングース語族に属するのは、満州の愛琿付近や新彊

地方天山北路に数万の話し手が残存する満州語、アムール河・スンガリ河・

ウスリ河のゴリド語、沿海州のウデヘ語、その北のオロチ語、カラフトのオロ

ッコ語、アムール河下流のオルチャ語、アムグン河のエルカンベイェ語、オホ

ーツク海沿岸北部やヤクート共和国のエヴェン語、北満州のソロン語、イェニ

セイ河からトゥングースカ河流域・レナ河上流を経てオホーツク海岸に達する

広大な地域に散在するエヴェンキ語、オロチョン語などである。その分布地

域の広さに較べて話し手の数は極度に少なく、満州語以外のトゥングース諸

言語の話し手は、30万人に達しないだろうといわれる。以上のチェルク語

族、蒙古語族、トゥングース語族がアルタイ諸言語と総称されるゆえんは、音

韻構造や文法構造などの言語構造が著しく類似した点にある。単語の類似

も認められるけれども、借用関係に起因する疑いの少ないものはあまり多く

ない。代名詞は類似しているけれども、数詞はたがいに著しく異なる。これら

三語族間の親族関係は、全く疑う余地のないほどの確実さで証明されている

とはいえない。三語族は、親族関係を有するとしても、その関係はかなり遠い

ものであろう。言語構造の点では、朝鮮語もこれらの諸言語に類似し、さらに

日本語も多くの類似点を持っている。日本語が、朝鮮語やアルタイ語言語と

同系であると称せられるもっとも大きな根拠はここにあるが、もちろん、証明

ずみの定説ではない。また、フィンランド語、エストニア語、ハンガリー語など

は、サモイェード語とともに、ウラル語族を形成する。この語族に属する諸言

語は、言語構造のそれとかなり類似しているので、両者を「ウラル/アルタイ

語族」と総称したことがあったが、親族関係の証明はできていない。以下に、

アルタイ諸言語が共有する言語構造上の類似点の主なものについて略述

し、日本語の構造と比較しよう。

@ 語頭に子音群が立たない。英語の単語には、sp、st、sk、sm、sn、sl、や 

spr、str、sg、ss、bd、bsのような子音音で始まるものがあるが、アルタイ語言

語にはなく、日本語にもない。ただし、500年ほど前の朝鮮語には、sb、sd、

sg、ss、bd、bsのような子音群が語頭に現れることがあった。トルコ語では、

最近英語などからの借用語にspiker, statik, ski,のような単語が現れつつあ

るが、やや古い借用語では、istasyon, iskelet, lskoc,のように、語頭に st, sk 

などが立つことを防ぐためにその前に i が加わった。蒙古語でも、最近のロ

シア字を用いた書きコトバではロシア語からの借用語はロシア語 のつづり

に近いつづりが用いられるが、古い借用語では、biraman, parngcus, のよう

に、母音を挿入して語頭においても一般的に認められる現象である。たとえ

ば、kurabu, burashi語頭にrが立たない。従ってrで始まる単語は借用語であ

る。これは、朝鮮語や日本語にも共通の特徴である。日本語の辞書のラ行音

の所を見ると、ライゲツ(来月)、リクチ(陸地)などのような漢語やランチ、リ

ヤカアなどのような借用語か、ラシイなどのような付属語、あるいはラ(コドモ

ラのラ)のような接尾語である。このために、アルタイ諸言語では、外国語のr

で始まる単語を借用するときに、語頭に母音の加わる傾向がある。たとえ

ば、「ロシア人」あるいは「ロシア」を意味する単語は、タタール語ures, カザッ

フ語orys, トゥヴァ語orus, 蒙古語oros, 満州語orosである。日本語でも江戸

時代にはロシアのことを「おろしあ」といっていた。トゥングース語族に属する

言葉では、rをnあるいはlに変えている方言がある。エヴェン語nyuuchi,エヴ

ェンキ語lucha,朝鮮語nossya《ロシア》という。

A 母音調和がある。母音調和とは、その言語の母音が「男性」「女性」「中

性」の3種、などに別れ、「男性母音」と「女性母音」とが一つの(外来語を除

く)の中に原則として共存しない現象である。男性母音ばかり現れる単語の

例は、adam《人》 altin《金》orta《真中》 omuz《肩》 irmak《河》 ilik《ぬるい》 

uzak《遠い》 uyku《眠り》。女性母音ばかり現れる単語の例は、evel《以前に》 

,elli《50》 ,ince《細い》 ,ike《2》。接尾語や語尾なども、語根や語幹の母音に

従って母音が色々変わる。以上概観したように、アルタイ語は、英語やシナ

語と比べると、驚くほど日本語に言語構造がにている。しかしくわしく見て行く

と、なかなか違った点もある。日本語は、いわゆる開音節語で、「はねる音」

や「つまる音」を除いて音節がいつも母音で終わる。この点でも子音あるいは

子音群(-ld, -lt,- rt等々)で終わる閉音節の少なくないアルタイ語言語と異

なる。また、類似している単語も多くない。もし、日本語がアルタイ語言語と同

系であるとしても、その親族関係はかなり遠いものであろう。

第2項

日本語系統論の現状とその環境

日本語の系統の究明ということが学営為の対象とされるようになってから、す

でに100年有余の歳月が経過している。その間に掲示された説は、その歳

月のながさに応じてまことに多岐にわたり、世界中のさまざまな言語が日本

語の同系言語としてあげられた。

@北方アジアの諸言語に系統をたどろうとこころみるもの

a日本語をアルタイ諸語、またはウラル・アルタイ諸語の一つに数える説

b 朝鮮語とむすびつける説

A南方アジアの諸言語に系統を求めようとこころみるもの

a 日本語をマライ・ポリネシア語(またはオーストロ・アジア族)に属するとする


b チベット・ビルマ語に結びつける説

B日本語を印欧語へもっていくもの

Cその他

のように分類・整理している(Cには、アイヌ語系説など、種々の説がふくま

れる)が、論者らの熱心な主張にもかかわらず、これまでその証明に成功し

えたものは皆無である。

第3項

数詞の構成法

国語の基数一から十までの中、二・六・八・十の四数詞は一・三・四・五の四

数詞の母音をそれぞれ変化して作ったものであるとすれば、その計算の方法

は所謂加倍法則即ちredupplicate system であったことが察せられる。我々

の祖先が大昔此の方法を採用して物を計算するには、如何なる道具を使用

し又之を如何に運転したか、国語の数詞の構成法とその意義とを解釈するに

方っては、まず第一に此を考察するのを必要の条件とする。今日世界に現存

する野蛮人は物事を数えるのに手足の指を使用しているのは、周知の事実

である。文化民族の間に於いても、日常簡単の計算に手の指を以てするの

は、太古の遺風を伝えたものである。Malay語で五という数詞が手のことであ

り、又Eakimo人が同数をいう tedtlimatが矢張り手の義であるというのは、手

の指が計算する唯一の道具であり、又あった事実を明白に物語るのである。

手の指や足の指を除いては、世界の数詞の根本義は到底解き得ない。国語

の数詞も此の心溝を以て解釈の歩武を進めてゆかねばならぬ。今日我々が

指を使って物を数えるときには、打ち開いた片手を、拇指から次第に屈めて

小指に至る。そうして六からは、結ばれた其の手を、小指から次第に起こして

拇指に及んで止むのである。だから此の方法によると、片手で計算は弁ずる

のである。斯様な数え方は何時の頃から我が国に行われたか、文献の上か

ら之を徴する途はないが、加倍法を採用した我々の祖先は、全く之と異なっ

た指の使い方を行ったものに相違ない。いま其の方法を考察するのは、国語

の数詞の意義を解釈するに甚だ必要な事である。一から十までの数をよむ

のに片手を使用することは、独り日本人ばかりでなく、西洋人の間でも亦同

様であるが、我が国では開いた手の指を拇指から屈めて之を数えるのに反し

て、西洋では結んだ手の指を小指から起こしてゆく。さて然からば加倍法に

依って物を計算した上代の日本人は片手の指を使用するときに手を開いた

か、但しは之を結んでいたか、又数えるときに拇指から始めたか、但しは小

指から始めたか決めてかからなければならぬ。若しも上代の日本人も今日の

如く開いた手の指を拇指から屈めたと仮定すると、一と二とに当たる拇指の

食指とは互いに折り畳まれて対立の姿勢をとらない。又西洋人の如く小指か

ら起こしたと想像すると、小指と無名指とは並立するが、国語で一をいうpito

も二をいうputa そこで一をいうも後に説く如く、ともに太(puto)の義であると

いう解釈に矛盾する。かように考えて見ると、我々の祖先が物を数えようとす

るときには、先ず手の指を結んでかかったものに相違ない。そうして最初に拇

指を起こして之をputa と呼んだ。かようにすると、拇指と食指とは互いに相離

れ手対立の姿勢を取る。対立するという関係から言えば、拇指も食指も同等

の資格を有するが、分量の点から見れば、二は一の倍であるから、之を区別

する必要がある。そこで一をいうpitqの母音を変えて、二を puta と呼んだの

である。さて食指のつぎに中指を起こして之を miといい、次に無名指を起こ

して之をyoといい、最後に小指を起こして之をituと言った。此の三数には前

の二数のごとき対立の形は五指の間に現れないので、かく特殊の名を与え

たのである。さて斯様に五指を起し尽くした後に、六を数える順序になる訳で

あるが、此の時手の指を如何様に並べたかが問題である。若しも片手をのみ

使用したと仮定すると、一旦起こし尽くした手からは何にしても対立、並列の

形は現れない。しかし片手の代わりに両手を使用し、その各々から三本ずつ

の指を起こすと仮定すれば、そこに三指の二並が成立する。そこで此の二並

の一組三指をmiというに対して、二並全体の指をmuと呼んだのである。また

八と十との二数も全く之と同様の方法で数えられるが故に、四をyoというに

対してその倍数八をyaといい、五をituというに対してその倍数十をtowosと言

ったものである。 

第4項

誰が発明した二音言葉の地名

どうして日本語の中には二音言葉が多いのであろうか。それには歴とした わ

けがあるのだ。「古事記」の序文からそのまま引用すれば、「上古の時、言意

並びに朴にして、文をしき句を構ふること、字におきてすなはち難し。巳に 訓

により述べたるは、詞心に逮ばず、全く音をもちて連ねたるは、事の趣更に長

し。ここをもちて今、或は一句の中に、音訓を交へ用ゐ、或は一事の内に、全

く訓をもちて録しぬ」とある。このことによって、上古の異言語(先住民語)が

いかに聞き取りにくくてわけの分からないむずかしい言葉であったかが想像

されるのである。それで極端な例では一語で書き取るしかなかったようだ。例

えば「根の堅州国」の「ネ」などがその一つであろう。縄文語を印欧語とみな

す時、ネはネクロポリス(墓場)のネであることはすぐわかる。necropolis(英)、

ネクローポリ(ロシア語)「墓場」。又、「風土記」には「好字を宛てよ」とも記され

ているので、出来るだけ良い意味をもつ漢字を宛てているのである。富士山

のフジにしても「不二」とか「福慈」その他幾通りもの好字が宛ててあることは

周知の通りである。好い字を一生懸命宛てている。琵琶湖にしても当時最高

の楽器だったと思われる「琵琶」の字を宛てた。このようなわけで、地名の多く

は奈良朝の人々には意味の分からない長たらしい先住民族の言葉の語頭の

部分とかアクセントの部分だったわけである。このことは地形名ばかりでな

く、日常使用する道具名にも見られる。例えば、ウス、キネ、クラなど。

第5項

母音で終わる言葉の不思議

法政大学教授・風間喜代三著「言語学の誕生」の中に「日本語のように大半

の音節が母音で終わる開音節性の言語……」とあるが、たしかに、外国語の

単語の多くを見ると、book,school,houseのように子音で終わっている言葉が

多い中で、日本語ではuami(海),nami(波),iso(磯),sima(島),kuni(国)のように

母音で終わるものがほとんどである。これらの言葉は太古の長い言葉の頭

の部分だけを切り取ったものだからである。分かり易く説明するならば宮城県

の潟沼のカタは英語にもある印欧語「悲劇的結末」とか「天変地異」を意味す

るカタストロフィー(英語で、ロシア語で)あるいは「自然界の大変動」を意味

する英語ならcataclysmロシア語でもカタストローファの頭分を残したもので

ある。語形の対応・音韻の対応縄文時代、古墳時代歴史時代と、明らかに民

族、人種かが替わり、それぞれが独特の文化をもっていたのだから、言語も

それぞれの時代によって異なっていたのが当然であるにもかかわらず、始め

から日本語というものがあったと思うほうがおかしい。今の日本語は大ざっぱ

にいえば、上に挙げた三つの時代の言葉の混じり合ったものなのである。そ

して最終的には、日本文化の起源は奈良、平安の時代にさかのぼるという言

葉通り、朝鮮からの渡来文化(帰化人文化)が基調になっている。当然のこと

ながら言葉も朝鮮語が入ってきているし、朝鮮語とすっかり語順の同じ言葉

へと変わってしまったのである。

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第6項

「奈良」は朝鮮語で「国家」の意

そして、朝鮮文化が日本へ上陸定着して出来上がったのが「奈良」であった。

「奈良」は朝鮮語の「国家を意味するナラに適当な漢字を宛てただけのもの。

「萬葉集」で「寧楽」も、うるさい言語学者にとっても納得がいくはず。「語形の

対応」も「音韻の対応」もこれほど完璧に合致する言葉はない。「奈良」が朝

鮮語である歴史的裏付け以上のようなことを書くと、たった一語の共通性をと

り上げて両語の共通性を云々するのは性急だ、これは偶然の一致というもの

だ、と攻撃されるだろう。ところが、奈良平安時代の大和朝廷と日本全国の地

方長官の人種構成をとくと調べてみれば彼らの多くがまぎれもない朝鮮人あ

るいは二世たちで占められていた事実を認識せざるを得ないと思う。当時の

地方長官の主だった人々はみな「百済王何々」だったのである。征夷大将軍

であった坂上田村麻呂も日本名であるが朝鮮人二世。特に第五十代垣武天

皇に至っては母親・妃共に朝鮮系の人である。もともとの日本の先住民(エゾ

と下げすまれていた人々)が抵抗していたのは当然のことである。彼らは差

別され圧迫されついには滅亡へと追いやられてしまったのであるが、エゾ征

伐の時の田村麻呂らに軍士を校閲し武器を調べさせたのも百済王俊哲であ

った。又その時、東北で最もエゾに接近して構えられた最前線基地は「多賀

城」(今の多賀城市)と言った。この「多賀」も朝鮮語で「接近する」という意味

でタガ城と名づけられたのである。

第7項


言語年代の決めて

例えば、広島県の珍しい地名「世羅」であるが、セラとはロシア語でセーラの

「硫黄」のことである。このセラがいつから語られ始めたかは、この地方でい

つから「硫黄」が人々に認識され始めたかを調べるとよい。この世羅台地の

甲立礫層は、検出される花粉分析の結果、鮮新世から更新世初頭の堆積と

考えられているという。つまり大体200万年前ぐらい前ということになる。そし

てこの礫層の上に点々と玄武岩ドームが噴出している。ということは、これら

の噴火の際、激しい硫黄の噴出もあったに違いない。そこで旧石器人たちが

「硫黄の地」と名づけたのが後世の漢字で「世羅」と書き記されるようになった

のであろう。言語は原人の時代からと人類学者が言っているからセラは200

万年昔からの地名としてもおかしくないのである。

第8項


縄文列島への不法侵略は二度あった

日本列島では古来、大きく分けると、二度にわたる大規模な侵略があった。

一回目は、中央アジアからのトルコ語族の侵入である。二回目は、私たちの

若い頃学校で習った「帰化人」の渡来。つまり朝鮮語族の仏教を伴っての移

民移住に始まる日本列島への侵入、そしてやがての定住、支配であった。日

本語はこれら三民族三言語の混交語であったのである。日本語の単語に対

応する異言語の単語はあるのかそれには、歴史時代に入って日本語の受け

た試練を知らなければならない。ではその試練とは・?それは、「古事記」の

序文をよく読めば分かることなのだ。ではそこに何と書いてあるのか。そこが

大切な問題なのであるが、まずは、「古事記」の筆者太安萬侶という人は日

本の原住民ではないことを頭に入れておかなくてはならない。太安萬侶さん

は朝鮮からの渡来人の二世である。だから「上古(先住民時代)の言葉はむ

ずかしいから、彼らの使っている長たらしい言葉は二語とか一語で書きます

よ」と宣言したのである。そこで、漢字音で書き表されるようになった縄文語は

ほとんど胴体や尻尾のない言葉であったり、アクセントの部分だけ(覚え易い

所だけ)が残った言葉になってしまったのである。しかし、ヤマト言葉の全部

が全部、胴体や頭部を失った言葉ではない。ももともと短い単語はそのまま

残るという幸運に恵まれたのである。そのよい例が古語のワダである。琵琶

湖は「志賀の大和田」と言われたがこの「大和田(大曲)」は「大きい水のひろ

がり」を言う。秋田県と青森県にまたがる「十和田湖」のワダも同じであろう。

又、日本神話の中の「海神」は「ワダつみの神」と言われた。「水」とか「海」を

ワダと言うのは、「音韻の対応」の必要なくスラブ語のヴァダとよく似ている。

「水」をワダと言っている日本の古語と一連のスラブ語から同じく印欧語の英

語のウォーターへの移行を言語比較表(ワダ)でよく見て頂きたい。

 

               ●言語比較表「ワダ」

日本語(倭奴国)

わだ

わた

海・湖

朝  鮮      語

pada

パダ

ロ シ ア    語

voda

ヴァーダ

ブルガリア   語

voda

ヴァダ

ゴ ー ト     語

vato

ヴァトー

古 ド イ ツ     語

wazar

ヴァザァール

ド イ ツ         語

Wasser

ヴァッサー

オ ラ ン ダ    語

Water

ヴァタール

リトアニア      語

Wandu

ヴンドゥー

スウェーデン   語

Vatten

ヴァーテン

英 語

wate r

ウオーター


 
第9項


白人ウイルスの登場

安藤真氏(文化人類学者)はまず、「人国記」という古い書物の「陸奥の国」

の項の次のような記事に注目されたのである。「この国の人は 日の本の故

にや色白くして 眼の色青きこと多し」この「人国記」という本は、日本各地の

風俗・習慣・人情・気質などを描写し、評論を加えたものという。又、15世紀

後半から16世紀前半の成立と考えられるという。安藤氏は「眼の青きこと多

し」には少なくとも数世紀以上の背景があると考えられるようだと述べてい

る。次に、安藤氏は、東北大学助教授であられた山浦玄嗣博士の著書の中

から、興味深い報告に着目している。山浦博士の論文の概略は次のようであ

る。「宮城県黒川郡大和町の病院で海のような青い目をした患者と多く出会

った山浦博士が調べられた結果によると、ある若者は、自分は生粋の土地人

であり先祖や血縁者に西洋人はおらず、自分の親戚には私と同じように青い

目の人が多いと語った。驚いた山浦氏は、宮城県の黒川郡や古川市などで

土地の人々の目の色を調べ424人の観察記録を得た。その結果、瞳の一部

でも青い人は65人、全体の15・2%に及んでいることがわかった」ということ

で、安藤氏は、「これを世界の民族における青い目の出現率と比較すると、

山浦氏の15.2%の碧眼度というデータは、ロシア人男子の淡色出現率の

22%に準ずる高いもので、この調査地区特有のものだったことになる。ま

た、青い瞳は遺伝学的に茶や黒の瞳に対して劣性であり、それが発現するた

めには、発現例に数倍する潜在保有者を推定しなければならない。東北地

方には、山浦氏の調査結果をはるかに上回る数の「青い瞳」の遺伝子をもつ

人たちが存在すると考えられないであろうか」と、述べている。又安藤氏は、

「ポリオーマ・ウィルス」の研究結果をとり上げている。この研究によると、「白

人種にしかないポリオーマ・ウィルスを保持する日本人が20%近く存在す

る」ということである。「ヒト・ポリオー・ウィルス(JCV)は大きくA型とB型の二

つのタイプに分かれる。A型は、英国・スペイン・イタリア・スウェーデンといっ

たヨーロッパ諸国では検出頻度がきわめて高い。それに対し、B型は、日本・

中国・韓国・モンゴル・マレーシア・インドネシア・スリランカ・エチオピア・ザン

ビア・ケニアに圧倒的に多い。ところが、北日本の一部弘前、秋田、仙台など

で採取したサンプルにはA型が1〜2割ほど含まれていた」ということで、安

藤氏は終わりに、「いずれにせよ「青い瞳」の背後には、これまでの日本の歴

史を書き替えるほどの膨大な情報が秘められているように思われる」と、結

んでいる。古代中国(宋)の記録から次に、安藤氏のとり上げた三つの説以

外に古代日本人が印欧語族であった可能性を示す説をまとめてみよう。ま

ず、古代中国の記録の中から同時代の日本人の姿を探ってみると、400年

代に「宋」という国があったのだが、その時代に書かれた「宋書・倭国伝」に、

「倭武王」からの上表文として次のような内容のものが残されている。「私の

何代前かの先祖は、日本中歩きまわって、東部にいる毛人五十五国を討伐

し……」という内容の文で始まり日本全国制覇した功績を披瀝しているので

あるが、この「毛人」とは日本列島で氷河期に適応した毛深い人たちであった

ろうと思われる。氷河時代には人間も他の動物のように毛深く、又、天敵から

身を守るためにも保護色として白熊のように色白であったと思われる。400

年代といえば古墳時代ということになるが、縄文人の生き残りは片っ端から

討伐の標的にされたに違いない。「宋書」の「倭の武王の上表文」には、ただ

「毛人」としか記されていないが、彼らこそ「白い肌・青い目」の人々であった

に違いない。

第10項


祭にみるスラブ民族の余韻

ダダ押し(奈良県長谷)ヴェッチヤ(広島県尾道市)

ダダ押しとかヴャッチャて言っても今の日本語からは何も想像することは出来

ない。しかし、ダダ押しもヴェッチャも古来から日本に伝わるお祭りの名前で

ある。「ダダ押し」とは奈良県長谷に伝わるお祭りである。天武天皇の時代の

開基と伝えられる長谷寺の近くに鬼が棲んでいて、暮六つの法螺貝の音を

聞くと里に出てきて人々を悩ませたという。そこで修二会(しゅにえ)の法力で

鬼を調伏したという伝説を今に伝えるのだという。そしてこれは恐ろしい形相

の赤鬼が群衆と炎の中で揉み合う祭りで今は開運厄除けを祈るのだと説明

している。つまり「まほろば」と呼び愛した古代大和平野に先祖代々すみつい

ていた縄文人の末裔たちは土地も自由も奪われ、そこには渡来民族たちによ

って次々と大寺が建てられていった。復讐心に燃えた彼らは夜間攻撃もした

であろうし、焼き討ちに出たかもしれない。しかし、結局は大和朝廷の圧力に

屈するほかなく何でも「ハイ、ハイ「と従う以外なかったのではなかろうか。「ダ

ダ押し」のダダとはシア語の、ダダで「ハイ、ハイ」という意味である。又私がこ

どもの頃住んだことのある尾道というトコロには、毎年11月の始めにヴェッ

チャというお祭りがあった。細長い港町に沿って走る山陽線の崖の上に宝土

寺の庭は、この日、ヴェッチャの鬼見たさの群衆でごったかえす。鬼にかまれ

たこどもは風邪を引かないとかで、こどもたちも鬼のまわりにわんさと集まる

のである。尾道の街は、背後(北側)に千光寺山という山が控えている寺の

町でもある。私が子供の頃の記憶で余りさだかではないが、住宅街はすべて

その山のを切り開いて出来た大きな寺々の間に補足まがりくねった坂道を挟

んで発達している。この千光寺山に昔鬼が住んでいたのだときいていた。山

の中腹に千光寺というお寺がある。この寺もあるいは他の寺々もひょっとした

ら鬼を追っ払って作った鬼(先住民)の棲み家の跡なのかもしれない。このあ

たりからは瀬戸内海の島々が一望のもとに眺められるし、海から毎日新鮮な

魚介類があきるほどとれる。縄文人たちの格好の棲み家であったとしてもお

かしくない場所柄だ。千光寺から5分もかからないが、頂上には広い花崗岩

の露頭があった。私は子供ながらこの岩の広場へ来ると不思議な思いにか

られた。それは秘録て平らな岩の上に一直線に点々と続く細長い穴であっ

た。その一つ一つの穴に、春にはさくらの花が吹きだまり、夏の朝早く登ると

セミのぬけ殻をいくつも拾うことができた。秋口になって台風の後などに行く

と、どの穴にも昨夜の雨がたまり、美しい初秋の空を映していた。このお祭り

のヴェッチャとは、ロシア語のヴェチェで、古代、中世のスラブ人が国家、社

会の諸問題を討議した、その民会、又、その会場を言ったものである。ところ

で、最近は考古学的発掘が盛んで、とくに青森の三内丸山遺跡からは巨大

な柱穴がみつかって話題を呼んでいる。私はこの柱穴こそヴェッチャの建物

の跡ではないかと思っている。この巨大建造物を想定させる巨木柱の穴は三

内丸山だけでなく、つぎの7ケ所にあるという。石川県の真脇遺跡、チカモリ

遺跡、米泉遺跡、富山県の桜町遺跡、境A遺跡、新潟県の寺地遺跡、群馬県

の矢瀬遺跡など。又これらの遺跡はみな深い積雪地帯にある。このことか

ら、これらの遺跡に生きた人々(縄文人)は寒冷地に適応した人々であったこ

とは確かだ。ここで言っておくが、縄文人は南方からやってきたモンゴロイドだ

という説はおかしいのである。

 
第11項


国主とは

「古事記」の「応神天皇記」に「吉野の国主(くず)」という得体の知れない人々

のことが書いてある。国主は「応神天皇の御子大雀(後の仁徳天皇)が身に

つけられた御刀は、切っ先が氷のように冴えている」と歌ったという。しかし、

彼らが何者で何のためにこんな歌を歌って祝ったのか説明はない。これは国

主らが皇子に捧げた刀を褒め讃えた歌なのであるが、ここに、切っ先の冴え

を特に讃えているということは、国主共が作った刀の出来ばえを自ら誉め讃

えたものである。では、このクズとは何か。ロシア語にクズネーツという言葉

があり、「鍛冶屋、鉄工労働者」のことである。このクズネーツの語頭が残っ

たものと思われる。太刀とはロシア語のタチーチ、刃物などを研ぐ連(むらじ)

とは「ロシア語のムリャジスト(鋳物師、今のロシア語では型作り師)」、日立

の国は「ロシア語ピターチの(食べさせる、養う)」、浪速・難波(ナニワ)とは

「ロシア語のナミヴァーチ(運んできたものを堆積させる)」、霞(かすみ)とは

「スラブ語(宇宙の)の意の前半」、星は「ロシア語のフォスフォール(燐光体、

蛍光体)」、蛍とは「ロシア語のフォタタローギヤ(光学)」、峰(みね)とは「ロシ

ア語でミネラール(鉱物)英語でもと同じであり、富士の高嶺(たかね)、筑波嶺

(つくばね)、駒ケ嶺(こまがね)のようにネー語だけになったものもある。海とは

「ロシア語でウミバーチ(海が海岸の岩を洗うなどの《洗う》の意)」、波とは

「ロシア語でナミヴァーチ(流れが土砂とか枯れ木などを運んでくること)、磯

とは 「ロシア語でイッソフヌーチ (干上がる)」、 砂とは 「ロシア語でスナミ

ヴァーニエ(摩滅、侵食)」、島とは「ロシア語のシマト(一片とか《から》)」、雨

とは「ロシア語でアミヴァーチ(水、雨などで濡らす)」、浦とは「ロシア語でヴラ

ヂェヂ(支配する、君臨する)」、このようなことから、日本の「浦」とつくトコロ

はロシア語のウラージのウラが残ったもので、古代の「水国時代」に権力者

が漁業とか交易のための支配権をもっていた重要な場所ではなかったかと

思う。いくらとは「ロシア語でイクラー(魚、両棲類、軟体動物その他の卵)」、

いのちとは「ロシア語で似た言葉ユーノスチ(若さ)」、からだとは「ロシア語で

カローダ(短く太い丸太)」、箱根とは「ロシア語でアグネ(火を意味する接頭

語)」、登呂とは「ロシア語でトロピーチェスキー(トロピカルのトロ)」、昂(すば

る)とは「ロシア語でズボール(集合)」、素晴らしいとは「ロシア語でスパローヒ

(オーロラのこと《オーロラを見て、おおスパローヒと言ったに違いない》)」、雲

仙岳は「ロシア語のウニジェンヌィー(しいたげられたに由来する)」、諏訪湖

は「ロシア語でスバァリーツアー(落ちる、ころげ落ちる、災難などがふりかか

る、襲う)」、安曇(あど)川は「ロシア語でアド(地獄)」、尾瀬は「ロシア語でオ

ーゼラ(湖)」、鯛は「ロシア語でタイナヤルィバ (神秘な魚)」、鰊(にしん)は

「ロシア語でニーシチエンスカヤルィバ (乞食魚)」、鯖(さば)は「ロシア語でサ

バーチャルィバ (犬魚)河豚(ふぐ)は「ロシア語で フクースナヤルィバ(美味

な魚)。

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