第9節 色彩学

第1項

エスキモーには「白」が数十種もあるという

エスキモーは、私たち日本民族が「白い」とひと言でいってしまい、英語でも

「ホワイト」と一括してしまう雪の色を、数十の言葉であらわしているという。つ

まり、「白い」という語彙(ごい)が、生活環境の影響を受ける。たとえば、年と

ったエスキモーが、仲間の集団の住むバンドから相当離れたところで、たまた

ま大きなアザラシをしとめたとする。彼一人では運べない。バンドに帰って仲

間に告げる。もし、日本人だったら、白一色の雪原氷原のなかの一点を「白」

だけでは説明できないだろう。たとえ、そこまでいく雪と氷の道の「白」に形容

句をつけてみても説明には限界がある。ところがエスキモーはごく簡単に、そ

の地点にいたる道を教える。仲間は、まるでミツバチが蜜のある花の位置を

ダンスの仕方で仲間に知らせるように、すぐ通じ合って、そのとおりアザラシ

に到着することができるという。アザラシの脂は、エスキモーの生活の大事な

暖と光源である。このように、民族は、その生活環境への対応から色彩の語

彙をつくるから、民族ないし分化圏によって色彩語彙体系を異にしている。そ

れは環境への対応の必要性によるもので、物質文明の発達土とは関係な

い。本文で述べている虹の色は、日本では七色ー赤・橙・黄色・緑・青・藍・紫

とするが、英語分化圏では、上記日本の七色から藍をのぞいた六色であり、

メキシコ原住民であるマヤ族は黒・白・赤・黄・青の五色に分ける。そして偶

然、マヤ族の五色は、日本の昔の色彩語彙と同じなのである。日本の仮名文

学の先駆である「土佐日記」は、作者紀貫之(きのつらゆき)の55日間の主と

して船旅の日記である。和泉灘(大阪府)を通るとき、黒崎の青々とした松原

を望み、その磯の波が雪のように白く砕け、貝の色は蘇芳(すおう)(紫がかっ

た赤)に染まっているのをみて、作者は「五色に一色足らぬ」といっている。黄

色がないというのである。「竹取り物語」でも、かぐや姫が、求婚してきた5人

の貴公子の一人、大伴大納言にした要求は「竜の首に五色の光る玉あり。そ

れを取りて賜え」であった。元来、五色の考えは中国からきたものであり、五

色の雲などというが、には、真に学問をきわめると、目には、青・黄・赤・白・

黒の五つの美しい色彩にとらわれなくなるということが書かれている。中国や

日本やマヤの分化では、昔は縁がない。緑は、青色彩語彙から分化していな

いのである。青は空の色であり、日本の四方をめぐる海の色である。そして、

温暖なこの島に豊かに茂る木々の緑は、たしかに空の青とは異なっている。

何、この二つの美しい色彩は、べつべつに分けて使いたくなる。そういう必要

が生じる。そうして、語彙は自然に分化していったのである。色のちがいは、

光線という線にたとえられるエネルギーの移動する際の「波長」と、あざやか

さを示す「彩度」と、光の強弱、つまり明るさを示す「明度」の三要素のちがっ

た組合せであらわされるが、単色光の波長に相当する色相のちがいが、まず

端的に色のちがいを示している。ただ単純に「色」という場合、専門家ではな

い一般の人々は色相を思うのがふつうであり、色を言葉でいい分けるときは

色相に名前をつけてよぶ。それを「色名」とか「色彩名」という。赤・橙・黄・緑・

藍・紫などは、もっともふつうに使われる単色の語彙である。白は、黒ととも

に、元来は色名ではなくて明るさだが、ふつうの人は色名とする。

第2項

人はどれだけ色をみわけられるか

日本電気株式会社の白田耕作情報処理部長の説明によれば、電子装置で

色を表示する場合には、三原色の赤・緑・青を組合せるのだが、そのそれぞ

れ、つまり、赤なら赤だけについて、人間は、2の8乗(256)とおりもある明

るさ(輝度)の変化を感知して、色をみわけるという。緑についても、青につい

てもおなじなので、それらの組合せは、つまり、2の24乗、1677万7200色

だけある。事実、それだけの色をパソコンの画面の上にだせるプログラムを

白田氏らが開発した。しかし、人間はそのそれぞれ全部に、とてもじゃないが

色彩名をつけることはできない。もし名づけるならば、1677万の色彩を表示

する単語が必要になる。現在、実際の生活で、そんな必要はまったくない。こ

まかい区別が必要な時は、人は、他の色と組合せた色の名をつくったり、形

容詞や副詞をつけたり、そういう色をしている物の名を冠したりしていいあら

わす。「青白い」「真っ赤」「血のように赤い」「雪のように白い」「鮮やかな緑」

「うぐいす色」「鼠色」「すみれ色」「さくら色」「真っ黒」などという。人種、時代

により「赤」はちがうじつは「赤」といっても、各人の認識している、いいかえれ

ば、各人の脳が応答している色が同じとはかぎらない。われわれは、おおま

かに「赤」ていう色名で、なんとなく一致したように話しているにすぎない。そ

れを厳密に測定することはやっかいである。英語人と話していても、私のいっ

ている赤と、彼らのいっているレッドとが、まったく一致しているとはかぎらな

いのである。虹の色でも、日本人は昔から、赤・橙・黄・緑・青・藍・紫と七色に

分けるが、英国人は、レッド・オレンジ・イエロー・グリーン・ブルー・パープル

の六色に分けていう。これは時代についてもいえる。日本の古い時代の言葉

(古語)には、「赤」はないようである。「明るい」ということがアカであり、「暗

い」ということがクロなのであった。いずれも色相ではなく、明度のちがいであ

り、アオは「漠」、シロは「顕し(しるし)」で彩度のちがい、この四つで色分けは

こと足りたのである。古くは、色で方角を示す思想があった。日本の大相撲の

土俵の四方に下がっている房(昭和27年秋場所以後。それ以前は四本柱)

の色は四つの方角に四神を配したもので、東が青い青竜、西が白い白虎、南

が赤い朱雀、北は黒い玄武となっている。中国の四神思想の影響をみるもの

だが、南を朱雀(赤い鳥)とする。きわめて刺激的な色とされる赤は熱い火の

色であり、暑気を感じ、南に配されたのはさもあらんと思うが、ブータンの曼

陀羅(円壇)や、アメリカ・インディアンの狩猟儀礼の敷物の砂絵などをみる

と、西が赤とされているようだ。このふたつの文化に相互の影響はないが、い

ずれも闇から白む東を白とし、夕日の沈む西を赤とした素朴な民族の感覚を

みることができる。色彩学が発展して、色に関するいろいろの原理があきらか

になると、それを利用して、人間の情緒や行動をコントロールすることもでき

る。これは第二次大戦中、アメリカにおける戦争神経症の治療にはじまったと

されている。最近の日本でも、安全・福祉の向上、能率の向上、集中力、解放

感、安定感などの創出のために研究され、病院の色、教室の色、公共施設

の色、工場や店舗や諸器具の色になでおよんで応用されているが、赤はそ

のなかでもっとも積極的な役割をはたしている。色彩治療の分野では、ゆうう

つ症に赤色の部屋を利用する。

 

第3項

緑は若くみずみずしい色

緑色は三原色(赤・緑・青)のひとつ、れっきとした独立の基色である。なにか

青に従属した色のように思われがちで、現に青い絵具に黄色を混ぜて緑色を

だしたりする。また、歴史的に、昔は中国や日本では、青(ブルー)と緑(グリ

ーン)という色名を混用し、一様に青といっていたことにもよるのだろう。青蒼

(せいそう)(空の色)、青瞑(せいめい)(空の色)、青天、青令(紺色の蝶)、青

竜とか、青筋、青ざめるなどは「ブルー」であるが、陰陽五行説で東(春)に配

されている青は、春の芽吹く姿、大地の緑が息吹く景を象徴している。したが

って、青陽は春の景観のことをいい、青翆(山の色)、青島(緑の樹林におお

われた島)、青林、青青(草の色)、青梅、青松、青蓮、青桐、青棠(せいとう)

(合歓の木)、青苔、青芽(せいぼう)、青虫、青大将、青春などの青は緑であ

ろう。未熟なさまを青くさいなどというが、英語でもグラーシー・スメリングとい

い、やはり草っぽい(緑)と表現するのである。青と緑の混用は、単に名称だ

けではない。感覚的にも混用されることがある。たとえば、北京の故宮のなか

にある高さ6メートル、長さ31メートルの大きな陶製の九竜壁(清の乾隆帝

38年・1773年制作)の波涛(変型青海波)は緑色に彩色されている。青(水

色)は緑色で表現されているのである。むろん、竜の構図だから現実の写生

ではないけれどもその昔、中国で、したがってその文化を入れた日本で、青と

緑を色名として混用していたということは、生理的な色彩識別能力がなかった

というのではなく、その文化が、色名の区別をあえて必要とせず、色彩語彙

の文化がおこなわれていなかったのである。日本文化の大昔に「みどり」とい

う言葉はあったが、それは色彩語彙ではなくて、若くてみずみずしい状態を示

す言葉であり、生後3歳ぐらいまでの子供を「みどりご」などといった。「万葉

集」でも「みどり」は下記の意味に使われている。たとえば巻3の、時はしもい

つもあらむと情哀くい去く吾妹か若子(みどりご)水を置きてなどであるが、東

北大学名誉教授でアララギ歌人の扇畑忠雄氏は、巻十の、春はもえ夏は緑

にくれなゐの綵 色(まだら)に見ゆる秋の山かもと、やはり巻十の、浅緑染(し)

めかけたりと見るまでに春の楊(やなぎ)はもえにけるかもなどは、たったふた

つの特別の使い方で、当時、ようやく「みどり」が色彩名として独立しかけてい

たのだろうといわれる。ちなみに、メキシコのマヤ族でも青と緑の色名を区別

しない。

第4項

もっとも平和でおだやかな色

古代の日本の色名には、アカ・クロ・シロ・アオの四色しかなく、アカは明る

い、クロは暗い、 シロは顕(しろ)く、そしてアオは漠(あお)であるとする説があ

る。明・暗は明度であり、顕・漠は鮮度であるから、いずれも色相を意識する

ことが少ない。しかし、文化が進にしたがって、アオは青という色相をあらわ

す言葉になる。しかし、日本の文化において青といわれた色は、今日直訳さ

れるブルーだけではなくて、緑から藍あたりまでもふくんで総称していたと思

われる。それは今日でもなお混用されている。日本で青信号といって疑わな

い交通信号の色は、緑色であるように。青は「はじめに述べたように、人間の

生命の根源的な色である。赤く燃える太陽と、空気と水の青と、大地をおおう

緑とは、生物の生命を支配する三原色だ。明かが医師ならば青と緑は看護

婦のようなものだ。この三つの色がバランスを保って混色している状態が白

であり、三色が消滅してしまえばクロである。この青い色というのは、人間に

とって、まずは澄み渡った空の色であり、またそれを映す水の色である。この

空の青さと、それを反映する海や湖沼や水流の青さは、人間がこの地球上に

出現して以来、もっとも一般的な環境色、おのずと人間の情緒を規定し、育

成してきた。人間にとって、自分の生命の条件である青色を拒否するというこ

とはあり得ない。したがって多くの神話や伝説は、この海の青さにたいして神

秘さや畏敬の念をいだいて語り伝える。それを裏返して恐怖とする場合も同

様である。メソポタミヤやバビロニアやヘブライの文化でも、天と地の創造は

海から成る。日本の古事記も同様であり、エジプトの神々を生み出した本源

の主神(混沌)アトゥム・ラーは海から生れる。ギリシャ神話では、天地はカオ

ス(混沌)から生れるが、そのカオスから生れた大地ガイアは、青空であるウ

ラノスと青海原であるポンストを生む。海のポンストはガイアとのあいだにたく

さんの獣や魚や、やさしい性質で知識を凝集している海の老人ネレウスをつ

くる。その娘たちに、帆を走らせる娘、海の輝きである娘、波を送る娘たちが

いる。静かな青いネレウスの優しさに相対するのが、荒天や嵐をつくり、海か

ら青を奪うポセイドンである。こういう対立した神の描き方は、世界の多くの民

族の伝承にある。人は青色という色彩にたいしては、もっとも人間的になり平

和でおだやかになる。透明さ、静けさ、涼しさ、若さ、まじめさ、安全さ、そして

ときに孤独さ(寂しさ)すら感じる。青は明かのように積極的でなく、色彩歳心

理学的にも、実際の位置よりも向こうにさがってみえる後退色で、実際より小

さくみえる収縮色でもある。中国の思想(陰陽五行説)では、青は方角として

東に配され、季節としては春をあてる。皇太子のことを東宮(とうぐう)とよぶ

が、春宮(とうぐう)ともいい、青宮(せいきゅう)ともいう。青は若さをいうところ

から、青宮は若宮(皇太子) であり、東宮となる。若いから、青年とか青春と

かいう。若さを未熟とすれば、青くさい、青侍(あおざむらい)などと使われる。

青に高い理想や憧憬を求める気持ちが人間にある。青雲(せいうん)の志など

というのはそれである。浅葱(あさぎ)色というのは、その字のとおり、浅い葱

(ねぎ)の色で、「浅黄色」と書いてもよいのだが、そう書くとちょっと迷う。本

来、葱という字は俗字で、昔から「ねぎ」のことだが、一般には薄い青色のこと

をいっていた。 青(葱青)都は、大地から萌えいでたすべての草木の芽の色

をいい、ねぎだけにかぎったものではなかった。しかし、やがて葱は「ねぎ」の

ことをいうようになるのだが、ねぎは、芭蕉が「葱白く」と詠むに、関東の人は

根深葱の白さを思い、関西の人は葉葱の緑色を思うようだ。しかしまた、日本

の中世文学で浅葱というのは、グリーンではなく、ブルーを淡くした色だ。緑

色、つまりグリーンは青色に黄色をまぜてできるが、あさぎとは、薄くともあく

までもブルーなのである。ねぎの色でもなく、まして浅い黄色ではけっしてな

いのである。「枕草子」にいう「浅葱のかたびら」(第33段)は、まさに薄い青

(水色)である。同じ時代の「源氏物語」でも同様である。源氏物語では、はっ

きりと浅葱色の地位が物語られる。浅葱は、天皇の宮殿(御所)に昇殿を許さ

れるギリギリの位の人、つまり6位の人の袍(ほう)の色である。昇殿を許され

る人、つまり殿上人(てんじょうびと)は、4位、5位の人でもその一部の人にし

か許されず、まして6位では、たいへん名誉な蔵人(くろうと)の職にある人だ

けである。「源氏物語」の「乙女」によると、光源氏は、葵の上とのあいだにで

きた子の夕霧が元服をしたとき、いきなり高位につけるより、多少まわり道で

もこれからしっかり大学で学問を身につけるほうが、自分が死んでも実力で

立っていけるからよいと考えた。そして4位に予定されていたのをあえて6位

にとどめ、父親の気概を示したことが語られている。「(誰々)子たちなど、目

下と思い侮っていた者共でさへ、それぞれ加階して一人前に出世したのに、

自分だけが浅葱の衣を着せられるのをたいそう辛がってをられますのが、可

哀さうに思はれ」というくだりがある。「浅葱」という言葉を、江戸のころ、遊里

の女が田舎武士とか、ヤボな男をいう意味に使ったふしもある。これは、浅葱

裏(あさぎうら)のことで、木綿の着物の裏地に浅葱木綿を使ったヤボという意

味である。浅葱はしかし、色そのものは爽快な空の色であり、さげすむ色で

はない。歌舞伎では、2番目狂言(世話物)の三色(黒、緑、えび茶)の幕を引

くと、つぎに浅葱色の幕があり、浅葱幕(あさぎまく)という。この幕を切って落

とすと美しい舞台があらわれ、観客がどよめく。引き幕を引かないで舞台をか

えるときもあり、そのときは浅葱幕の切り落としだけである。この場合の浅葱

という色は、なにも先入観をあたえない、中立、静、無の色を意味するように

思える。浅葱幕でなく、黒幕を切って落とすのは、歌舞伎の約束で夜明けを

意味する。

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