第10節考古学

第1項

世界最古のヒスイ加工

日本における玉文化の特色の一つに、ヒスイの加工、すなわちヒスイの玉作

りの実施をあげることができる。鉱物としてのヒスイは漢字で「翡翠」と書く。

翡翠(かわせみ)という名の鳥がいるが、雄を翡、雌を翠という。その緑色に透

き通った羽と類似するので、同じ文字が当てられたらしい。軟玉と硬玉を総称

して翡翠と呼ぶこともあるが、考古学では硬玉限定している。硬玉というだけ

あって、硬度は6・5〜7で硬く、ハンマーで叩いても容易に割れない。また、

比重が3・3〜3・5で、他の岩石より重い。見かけが似ている蛇紋岩などと区

別するとき、手に持って重く感じ、頬に当てれば冷たく感じるといったことで経

験的に見分けることができる。なお、中国で「玉」と称しているものは、ネフラ

イト(軟玉)が主である。翡翠は輝石の繊維状結晶が集合したもので、ネフラ

イトは角閃石(かくせんせき)の繊維状結晶の集合がもととなっているので、両

者は自ずと鉱物的に異なる。このような硬玉を縄文人は加工し、穿孔し、装

身具に利用している。最近、新潟大学名誉教授の芽原一也氏の研究によっ

て、太平洋東岸のメソ・アメリカ(中米)では、紀元前2500年以降のマヤ文

化や紀元前1500年以降のオルメカ文化などにおいてヒスイが大量に使用

され、独自のヒスイ文化を形成していたことが明らかにされている。世界の二

大ヒスイ文化圏といえば、日本とメソ・アメリカを指すという。特に、日本では

縄文中期(紀元前3000〜同前2000年)に盛行していて、メソ・アメリカより

も早くにその加工が実施されている。つまり、日本の縄文ヒスイ文化は世界

最古の硬玉加工の文化であったということができる。現在では、縄文時代の

ヒスイの加工は周知のところとなっている。しかし、昭和の初め頃までは日本

での原産地は知られていなくて、ヒスイ製の造物はミャンマー(旧・ビルマ)産

や中国産の翡翠原石(注―中国のヒスイは清代以降ミャンマーから輸入され

たものである)であるとされていた。

第2項

ヒスイ原産地の発見

日本で最初にヒスイ原産地が発見されたのは、1938年8月のことである。

場所は新潟県糸魚川市を流れる姫川の支流小滝川であった。発見のきっか

けとなったのは、糸魚川市出身の相馬御風(そうまぎょふう)氏の発想による。

御風は、叙情歌人や自然主義評論家として活躍し、早稲田大学の校歌「都の

西北 早稲田の森に......」の作詞や良寛さんの研究で知られている学者であ

る。御風は、「古事記」に見える「高志(越)の女王沼河(ぬなかわ)姫がヒスイ

の頚飾りをしていたとすれば、そのヒスイは、この地方の産かもしれない」と

考えた。この言葉によって姫川の散策が意図的に行なわれ、原産地が発見

された。そのときに原塊から割り取られた硬玉破片の一部が、偶然、東北大

学の河野義禮(こうのぎれい)氏の知るところとなり、1939年11月発行の

「岩石鉱物鉱床学」(第22巻第5号)に「本邦における翡翠の新産出および

その科学性質」として発表された。これがヒスイの学界第1号の報告となっ

た。ところが岩石の専門誌に発表されたため考古学者は、まだその発見を知

らずにいた。河野の報告に気づいた旅順博物館館長の考古学者島田貞彦が

1941年5月発行の「考古学雑誌」(第31巻第5号)で紹介して初めて考古

学界が知るところとなった。1954年、56年、58年二は、日本考古学協会会

長の藤田亮策氏を中心として、ヒスイを出土する糸魚川の長者ケ原遺跡が調

査され、縄文中期の硬玉製大珠の加工の実施が確認された。この前後から、

考古学では「ビルマ産ヒスイ説」等は聞かれなくなった。小滝川ヒスイ峡は

1955年3月に、青海川ヒスイ峡は1956年に、国の重要文化財(天然記念

物)の指定を受けた。硬玉の原産地は現在@新潟県糸魚川市の小滝川と青

海町の青海川を一括する糸魚川産地、A鳥取県若桜町角谷の若桜産地、B

兵庫県養父郡大屋町加保の大屋産地C岡山県大佐町の大佐産地、D長崎

県長崎市の長崎産地が知られている。ほかに、ヒスイに類似する石で通称

「......ヒスイ」と称されているものにE北海道日高町千栄の日高産地、F長崎

県大瀬戸町の雪ノ浦産地が知られている。また、未確認だが海底に想定され

ているものにG富山県朝日町の宮崎産地がある。このうち、考古学の遺物と

して加工されているのは@の糸魚川産地のものに限られる。京都大学原子

炉実験所の非破壊による蛍光X線分析法によれば、北海道から九州までの

全国で出土しているヒスイ製遺物は時代を問わずすべて糸魚川産としてよい

という。明星山の裾を削るようにして流れる小滝川には、大きなもので直径3

メートルにもなる翡翠の岩塊が、清流に洗われて緑白色の艶やかな肌を見

せている。1985年7月に筆者は、韓国慶州博物館学芸員の雀鐘圭(チエジ

ジヨンキュ)氏(現在、国立公州博物館長)と夫人の禹枝南(ウジナン)氏を小

滝川に案内する機会があった。崔ご夫妻が韓国と日本のヒスイ文化の比較

に関心をもたれてのことで、急きょ訪ねることとなった。あいにく当日は小雨

で、姫川本流は泥流が渦巻いていたが、それを押しのけるように小滝川から

青緑色の清流が注ぎ込んでいた。その色を見て、「翡翠の色が溶けて流れて

いるのですね。この感激は忘れません」とご夫妻の言葉。ヒスイ狭の硬い岩

脈には流れ出る土塊がなくなっているのであろうか。それは神秘の色であっ

た。何度かヒスイ狭を訪ねている私にとっても忘れられない光景であった。韓

国のヒスイ製勾玉は日本製であるとする説があり、その諸問題を意識しての

見学であった。

第3項

初の硬玉加工遺跡の調査

縄文中期の代表的な装身遺物に硬玉製大珠がある。特に、長さが5センチ

以上の大きな玉を大珠と呼んでいる。体部に一孔が開けられているのが一

般的で、全国で250例ほどが知られている。縄文中期後半に使用のピーク

があるらしい。富山県氷見市の朝日貝塚で出土した鰹節形の硬玉製大珠は

全長15.9センチで、いままで発見されている硬玉製品の中では最大であ

る。また、福島県会津若松市の大町出土と伝えられる鰹節形の硬玉製大珠

は全長1.9センチで、これまたみごとな大きさである。ともに重要文化財の指

定を受けている。金属器のない縄文時代にこれだけの大きな硬玉が加工さ

れ、遠隔地に運ばれているのである。三次にわたる発掘調査では、縄文中期

中葉の「長者ケ原式」に属する六基の炉跡と住居跡の検出があった。硬玉関

係では、磨き痕のある硬玉原石、硬玉製敲石が多く出土した。加工具として

は攻玉砥石(筋砥石)などの検出があった。製作法や加工の順序など細部に

不明な点は残るが、「この地において、縄文中期の人たちが硬玉の加工を行

っていたのは疑えない」(『長者ケ原』糸魚川市教育委員会1964年)とされ

た。長者ケ原遺跡出土の硬玉には、表面が灰白色を呈して、いわゆる「ヒス

イの皮」あるいは「皮かぶりヒスイ」と呼ばれるものが多い。長い年月、土中に

あり風化によって生じたともされるが、和洋女子大学教授の寺村光晴氏は、

加工しやすくするために火中に入れられたものが含まれているとする。ヒスイ

は、火を受けると打ち割りやすくなるという。長者ケ原遺跡のB4号炉は、直

径1.5メートル、最大幅0.95メートルのおおきなもので、中心部には灰や

焼土が10センチも堆積している。これなども、ヒスイ加工に際して焼くという

作業上の要求によって残ったのではないだろうかとしている(『翡翠』養神書

院 1968年)。長者ケ原遺跡の発掘では工房跡の検出はならなかったが、

硬玉製飾り玉類の制作が日本で最初に確認された遺跡として1971年に国

の史跡指定を受けた。

第4項


原産地から離れた加工遺跡

一般に、硬玉加工の遺跡は硬玉の原産地に近い新潟県西部や富山県東部

に集中して営まれ、目前の海岸や河口でヒスイの採取ができる。一方、それ

からいくらか離れた地域で、原石が運ばれて加工されている遺跡がいくらか

ある。富山県上新川郡大山町の大川寺遺跡では、中期の硬玉製大珠の原石

や未完成品が出土している。これなどは、原石が持ち込まれて加工されたこ

とがうかがえる。ほかに富山県や長野県などの遺跡では、硬玉製大珠等の

未成品の出土がときおり見られる。原石を伴っていない場合は、未成品のま

まで交易された可能性がある。縄文中期段階の遺跡では、加工遺跡は姫川

とその周辺の地域にとどまっている。しかし、後期〜晩期になると飛び石的に

拡散し、一種のコロニーを思わせる遺跡が営まれることがある。姫川河口か

ら約54キロ上流に位置する長野県大町市湖畔にある一律(いつつ)遺跡で

は、後期〜晩期の硬玉製丸玉の製作が行われている。そこでは海岸漂石や

打ち割り面を有する原石などが数多く出土している。縄文時代の生活領域

は、ホームベースを中心にして半径10キロ(歩行時間にして2時間)が目安

であるとされる(赤沢威『採集狩猟民の考古学』海鳴社 1983年)。その研

究成果からすれば、はるかに外れている。一津遺跡の人々は、原石を産する

姫川河口周辺へ直接行って硬玉を採取してきたのだろうか。あるいは交易に

よって原石が運ばれてきたのだろうか。興味あるところである。いずれにし

ろ、姫川河口周辺の硬玉技術が伝播しなければ、内陸での加工は成立しな

いはずである。一津遺跡は、河口周辺から移動してきた集団が残した可能性

が浮かび上がる。また、富山県滑川市・中新川郡上市町の本江広野新(ほん

こうひろのしん)遺跡(後期〜晩期)、糸魚川市の細池遺跡(晩期)などでも硬

玉製丸玉の製作が行われている。前者は、産地の一つである宮崎海岸から

30余キロ、後者は糸魚川文化圏に含まれているものの、姫川河口から直線

距離で10キロの山地帯にある。極端なところでは、山形県羽黒町の玉川遺

跡(縄文後期〜晩期)がある。そこでは、硬玉製丸玉の未成品が多数出土し

ていて、ここで加工されたことが確実である。そのヒスイは科学的な分析で、

糸魚川産であることが判明している。原産地からはるばると270キロも運ば

れているのである。硬玉加工は、根気がいり、高い技術が必要なので、それ

を有する人々の移動が前提となる。たぶん、それは日本海をルートとした交

流によって海路伝播したものであろう。青森県木造町の亀ケ岡遺跡では、縄

文晩期の硬玉製丸玉の未成品が二点ほど出土している。これも糸魚川産と

されている。当地に加工遺跡が存在するという考えもあるが、福田友之氏

は、「(青森)県内の出土総数の99%は完成品であり未成品は例外的と言っ

てよい、したがって、現段階ではこれらの未成品も前述べの地域(糸魚川原

産地)から交易品としてもたらされたと考えるべきであろう」としている。玉川

遺跡では、原石の存在が明らかでない。丸玉の未成品を中心として発見され

ており、加工のための筋砥石の出土もある。福田氏の発想を借用すれば、玉

川遺跡の丸玉未成品もまた、糸魚川産地から一括して交易でもたらされたの

かもしれない。遠路の運搬を容易にするため不要な部分を削除し、整形過程

の終了した未成品を運び込み、作業も比較的容易な仕上研磨と穿孔の工程

を実施して完成品とする。玉川遺跡は、硬玉の中間加工所としての性格をも

つとともに、東北諸地域への硬玉製品流通の中継センターの役割を担ってい

たのではないだろうか。

目次へ

第5項

朝鮮半島の勾玉

朝鮮半島の飾り玉は、新石器時代に相当する櫛目文(くしめもん)土器時代

(紀元前5000〜同700年または同1000年前頃)に出現する。イノシシや

シカなどの動物の牙の基部に孔を開けて垂飾品としたものが威鏡北道の西

浦項遺跡で数点出土している。いわゆる牙勾玉と称されるもので、アジアの

旧石器時代後期(中国・山項洞遺跡など)や日本の縄文時代草創期・早期な

どに認められる。牙勾玉が、のちの石製勾玉の起源をなすかについては議

論のあるところだが、形状がよく似ているので、まったく無関係ともいい切れ

ない。とにかく人類装飾品の始まりとして、まず牙勾玉が現れるのは定石の

ようだ。一方、石製の玉製品はやや遅れて鰹目文土器時代の終わり頃の遺

跡で検出されている。平安北道の美松里遺跡では、白色の碧玉系統の石で

作られた湾曲した垂れ飾りが出土している。長さ1.6センチの小型品で、頭

部に垂下するための孔が開けられている。これは現状では、半島最古の勾

玉としてよい。日本でいうところの先史勾玉に相当する。ただ、全体に鰹目文

土器時代の飾り玉は流行しなかったようで、類例は少ない。ついで、無文土

器時代(紀元前1000年頃〜紀元前後頃)になるとかなり勾玉がもちいられ

る。日本の年代で言えば、縄文時代晩期から弥生時代中期頃に相当する。

形の種類も多く、牙形勾玉、獣形勾玉、不定形勾玉、半環状勾玉、半月状勾

玉、半決状勾玉といった分類が行われている。牙形勾玉、獣形勾玉、不定形

勾玉、半環状勾玉、はいかにも先史勾玉といった感じがする。しかし、半决状

勾玉にあっては、のちの三国時代の定型化された勾玉に直結するような形を

示す。忠清南道の松菊里遺跡を始めとする韓国の無文土器時代の半决状勾

玉や管玉などは日本の弥生文化の当該品が定形化するのに影響を与えたと

言われている。特に、韓国の考古学界で注目を集めているものに半月状勾

玉がある。文字どうり半月形をした垂飾品で、一端に一孔を有するものと、両

端近くにそれぞれ一孔を有するものとがある。近年の韓国の研究では、これ

らが勾玉の起源に深く関わっているとする。平安南道の龍興里遺跡で半月形

勾玉が、中国の寮寧(りょうねい)式銅剣に類似する古式の細形銅剣、青銅刀

子(とうす)、石斧(せきふ)とともに出土した。寮寧式青銅器文化葉、紀元前八

世紀から同二世紀まで続くといわれている。その文化に属する中国潘陽市の

鄭家窪子第6512号墓で半月形勾玉がみられる。管玉で構成された長さ1メ

ートル近い頸飾りの主飾りとして垂下されている。それは龍興里遺跡とまった

く同種といってよい。近年の韓国では、中国寮寧式の青銅器と一緒に半月形

の垂飾品が朝鮮半島に流入して、だんだんと勾玉の形ができたとする説が有

力である。たしかに半月の弦の部分をえぐって、かつ両端にある孔を一つに

すれば勾玉形となる。合理的で魅力的な考えであるが、少しだけわからない

点がある。まず、半月形の垂飾品が起源とするならば、半决状勾玉出土遺跡

より先行してそれが存在しなければならない。紀元前5世紀とされる龍興里

遺跡は他の遺跡からみれば古そうだが、それでは一孔だけの半月形勾玉の

ソウル市の鷹峰洞やテグ市の燕厳山遺跡なども古いのであろうか。少なくと

も弦(腹)部がえぐれた半决状勾玉出土遺跡より古くなければならない。この

点が土器や遺跡の状態の検討から確認されているのであろうか。そして、半

月形勾玉自身の弦部をえぐって成品としたものか、あるいは勾玉でいうところ

の腹部を作出しようとする未成品があればより確実となるのであるが。私は

半島情勢に疎いいのでこれらの点がわからない。そこで、韓国考古学の主説

にこだわらず、とりあえずつぎのように理解している。鰹目文土器時代の先史

勾玉が発展しバリエーションを生じたのが無文土器時代の牙形勾玉、獣形勾

玉、不定形勾玉、半環状勾玉であった。これらには青銅器が伴ったとする報

告は希なようだ。半島の風土で生まれ発達した勾玉類である。これに対して

半月状勾玉は、龍興里遺跡はむろんのこと、京畿道の紫浦里遺跡でも古式

細形銅剣と伴出しているという。寮寧式青銅器文化の流れの中で存在してい

る垂飾品である。他の勾玉との関係でいえば、起源となったとするよりも無文

土器時代の中の垂飾品のバリエーションの一つであるとしたい。半月状勾玉

は、あくまでも勾玉ではなく垂飾品とするのがよいと思っている。無文土器時

代のもう一つ大きな特色は、勾玉の多くが「天河石」と呼ばれる緑と白色の明

るい斑文様をもつ石で作られることである。別名アマゾナイトとかアマゾン・ス

トーンといい、微斜長石(びしゃちょうせき)の一種とされる。日本で、この石材

による飾り玉の例を知らない。半島特有の玉材といってよいだろう。これによ

って、独自の玉文化の形成があったことを知ることができる。つぎに来るの

が、原三国時代(紀元前後から起源300年頃)で、日本の年代では弥生時

代の後半に相当する。慶尚南道山市の城山貝塚からは、長さが2.8センチ

の水晶製勾玉が出土している。これは私が、日本製の可能性があるとしてい

るものである。また、金海市の府院洞遺跡からは土製勾玉が6個も出土し、

ほかにも慶尚南道鎮海市の熊川貝塚で一個出土している。この時代におい

ても、依然として動物の牙勾玉が使われていて熊川貝塚や城山貝塚などで

発掘されている。原三国時代の遺跡はまだ多く発掘されていないが、現状で

は、ヒスイ製勾玉の検出は一点も認められていない。それが出現するのは、

この後に続く三国時代に入ってからのことである。勾玉に関していえば、原三

国時代と三国時代とでは大きな落差がある。

目次へ

inserted by FC2 system