第13節 気功法

第1項

気功法の謎

「気功法」の歴史は古く、おそらく4000年以上になるという。また、その流派

は主なものだけでも2000は越えるといわれており、トレーニングの方法論

や哲学は多岐にわたっている。太極拳や禅やヨーガなども、すべて「気功法」

の一種とみなすこともできる。キリストが大勢の悩める病人や、身体に障害の

ある人を癒した、というのはあまりにも有名な伝説だ。治療中の様子を伝える

絵画がたくさん残されているが、「気功法」と同じように手をかざしているもの

が多い。空海は、中国で密教を学んで帰ってきた後、日本古来の行法とミック

スし、独特のトレーニング法を発展させた。彼も、キリストと同じように大勢の

病人を治療したと伝えられている。その方法は、「真言密教」の加持祈祷とし

て今日まで伝承されているが、「医療気功」とは多くの共通点がある。手当は

気功法?「手当て」という言葉は、そこから生まれた、という。これは東洋だけ

でなく、世界中いたるところで同じだ。英語でもHand Power Healing(手の

力による治療)という言葉がある。もし、まったく効果がないのなら、こんなに

広まらなかっただろうと推定される。逆に、もし手かざし治療が常に効果が顕

著なら、近代医学はこれほど発達しなかったかもしれない。手をかざししただ

けで病気が治るなら、だれも病院に行ったり、薬を飲んだりはしないだろう。

おそらくは、奇跡的な治療効果を上げた例もあっただろうし、まったく効果の

上がらないケースもまれではなかったろう。とくに法律や資格認定制度があっ

たわけではないので、イカサマ「気功師」の類はめずらしくもなかっただろう。

一定の資格をとれば、誰がやっても一応の治療効果が上がる「近代医学」に

比べれば、やはりあやふやなのだ。「でも、宗教の目的は手かざし治療では

ないでしょう」私は、すべての宗教は「気功法」だとする、彼の定義に噛みつ

いた。「それはそうですけどネ。気功法を分類すると、病気の治療や健康法を

目的とするもの、武道を目的とするもの、それから宗教的側面の強いもの、な

どになりますが……」いずれをとっても、ある種の宗教色は否定できないとい

う。それは前述のように「この世とは別に、目にみえないもう一つの宇宙が存

在する」とする「東洋哲学」そのものが大変に宗教的だからであろう。「気功」

のトレーニングは、決して病気の治療や武道が最終目的ではなく、「目に見え

ないもう一つの宇宙」と自分自身との交流を深め、「一体感」を増していくこと

を教えている。身体から発する「気」を強めるのは、そのための手段にすぎな

いのだ。精神面でも、「気功」では「無欲」「こだわりのなさ」が正しい「気」を養

うのにもっとも大切だとしている。また、「欲」や「憎しみ」などを消し去って、澄

み切った心になることを要求している。本質的に宗教が教えることと何ら変わ

りはない。「ほとんどの宗教では「気」なんてことはいっていません。でも、宗

教の儀式をよく見ると、驚くほど気功法のトレーニング法と共通点がありま

す」

第2項

祈りと気

たとえば、仏教でもキリスト教でも祈りのときには両手を合わせる(合掌)。こ

れは明らかに、気功法のトレーニングと一致している。掌の中央には「労宮」

と呼ばれる強力なツボがある。気功法でいうツボは、身体と下界との「気」の

出入口と教えられており、この「労宮」は、気功師が患者の治療をするとき

に、「外気」を発射するツボとして使われる。左右の「労宮」を合わせる、という

ことは、自分自身の身体に「気」をめぐらすための手法だといわれている。

「胸に手を当ててく考えてごらん」という表現がある。外国映画でも手を当てて

うやうやしく会釈する、というシーンがよくある。両方の乳首の間には「檀中」

と呼ばれるツボがある。ここは「心気の宿る王城」といわれ、精神的なストレス

の影響が表れやすいツボだという。「胸がつかえる」「胸がふさぐ」「胸さわぎ

がする」「胸がきゅんとなる」「胸がふくらむ」「胸が痛む」「胸が躍る」などとい

うのは、すべてこの場所のことです。この「檀中」に左右の手を重ねる、つまり

両方の「労宮」を重ねるということは、「気功法」の中で自分自身に行なう「手

当て」のもっとも基本の一つだ。ちょっとしたトレーニングを積んだ人なら掌と

胸がだんだん温かくなって、氷が溶けるように胸のつかえがとれるのを実感

できる。宗教でいう「祈り」という行為は、限りなく瞑想に近い。「気功法」では

ただひたすらに瞑想するトレーニング法を「静功」と呼んでいる。「座禅」はそ

の典型だ。毎日欠かさず「祈る」人は、知らず知らずのうちに「気功」の能力

が高まり、手をかざしただけで病気の治療ができるようになったとしても、不

思議ではない。「気功」の中には、声を出すトレーニング法もある。すると、毎

日お経を上げるお坊さんや祝詞を上げる神主さんは、実はすばらしいトレー

ニングをやっているのかもしれない。宗教の歴史的役割ともかく、日本でも西

欧でも、近代医学が発達する以前には、病気の原因は「悪霊」と考えられて

おり、聖職者が治療を行なっていたケースが多い。天台宗や真言宗など密教

系の仏教では、これを加持祈祷と呼んでいる。「気功」でいう「気」を、加持力

とか法力とか呼んでいる。おそらくは、僧は必死に祈り、手をかざし、病人を

治療したものと思われる。そして、上述の理由により、一般の人びとよりは少

なくとも聖職者のほうが「気功」の力は上だったとも考えられ、精神的な効果

も合わせて、かなりの治療効果があっ可能性が高い。今でも、未開の地に行

けば、呪術師が、冠婚葬祭から出産や病気の治療、さらには政治にいたるま

で取り仕切っていることが多い。昔は、すべての宗教がそういう役割を担って

いたとも考えられる。すると、そのころの聖職者は、イマよりも、もっと「気功」

の能力が高いことが要求されており、日夜トレーニングに励んでいたとも想像

できる。今日の宗教的な儀式が、「気功」のトレーニング法と似通っているの

は、決して偶然ではないだろう。

3項第

自発動

神道では、古来「振魂(ふるたま)」と呼ばれる現象がある。これは合掌した手

から動きが始まり、全身が痙攣状態になり、自分の意志とは無関係に身体が

勝手に動くことをいう。なんらかの「霊」乗り移るため、ともいわれており、「霊

動」という言葉も使われる。多くの新興宗教でも、巫女や教組が全身を痙攣さ

せ、霊が乗り移ったと称することがある。「気功」のトレーニングを行なってい

ると、この現象はひんぱんに経験する。自分の意志と無関係に身体が動くこ

とから、「自発動」とか、「自発功」とか、「自発動功」とか呼ばれている。多くの

流派で、この現象をシレーニングの中に積極的に取り入れている(流派によ

っては、「自発動」を避けるように指導しているのもある)。なぜこういう現象が

起きるのか、という説明は、流派によって異なるが、おおむね身体の部分部

分のリラクス度のアンバランスから生じるとしている。「気功法」のトレーニン

グは、身体と精神を徹底的にリラックスさせる。そうすると、身体の中の「気」

のめぐりが良くなり、身体の外へ「気」を発射できるようになり、宇宙を満たし

ている「気」と交流できるようになる、と教えている。「気功法」では、身体をリ

ラックスすることを「放松(ほうしょう)」と呼ぶ。これは、単なる弛緩を意味する

のではない。立っていても、座っていても、ビシッと姿勢は正しく、それでいて

どこにも余分な力が入っていず、体全体がゆるんで調和がとれた状態をさ

す。これは、通常の日常生活でのリラックスとは、まったく違う境地であり、あ

りとあらゆる手段を用いて徹底的に身体をゆるめる必要がある。その途中段

階において、ゆるんだ部分と、まだゆるまない部分のアンバランスが運動を

引き起こす、と説明している。そして、この運動により、まだゆるんでいない部

分が、ゆるんでいく。だから「放松」にとって、この「自発動」は大切なのだとい

う。

第4項

病気の原因

「気功法」では、病気の原因を、ストレスによる部分的な緊張の固定的な蓄積

と説明している。つまり、精神的なストレスで内臓や筋肉がかたくなり、「気」

の流れが悪くなることにより病気が引き起こされると考えている。「気功」のト

レーニングをしていると、この病気の原因となる部分的緊張によっても「自発

動」を引き起こす。そしてこの「自発動」は、その部分の緊張をゆるめる方向

に作用するため、病気の治療に役立つと説明している。すべての病気の原因

を、それで説明するのはいささか無理かもしれないが、「気功法」というのは、

「近代科学の方法論」に基づいていないのにもかかわらず、存外に科学的な

ところがある。この「自発動」を取り入れた、民間療法や健康法は、数限りなく

存在する。有名なものでは、明治の末に田中守平氏によって考案された「霊

子術」「太霊道」野口晴哉氏が考案した「野口整体(活元運動)」、その他「霊

動法」「生気自療法」「自然良能誘起法」など、枚挙にいとまがない。これらの

ほとんどは、中国で発達した「気功法」の手法を取り入れた、というよりは、ま

ったく独自に同様な現象を発見し、方法論を発展させていったと考えられる。

ということは、人類の歴史の中で、世界中で星の数ほどの人たちが、それぞ

れにこの現象を発見し、トレーニング法を開発していったと想像できる。その

ほとんどが、創始者から何世代も伝承されずに消えていったのに対し、中国

の「気功法」は4000年の永きにわたって伝承され、はぐくまれてきた。

 

第5項

気功法は危険な修行法

「トレーニングの危険性というと?」「いわゆる荒行が危険なことは当然です

が、実は瞑想法、呼吸法、座禅などの、ごくふつうの修行法も、やり方を間違

えると大変に危険なのです」昔から、廃人になったり、精神病になった例は数

多く報告されている。だから、この種の東洋的修行法は、必ずしっかりした指

導法で、確かな指導者について、十分に注意をして実行しなければならな

い。精神面における指導や、戒律がしっかりしている伝統的な宗教なら、比

較的安全だろう。長い年月の淘汰に耐えて、指導法が工夫されてきた「気功

法」や「ヨーガ」の流れをくむ方法なら、おすすめできる。新興宗教の中には、

危険なものもかなりあるだろう。こういう危険性に言及しないで修行法だけを

解説した「気功法」や「ヨーガ」、「超能力」の本は、要注意だ。興味本位の低

俗な本を見て、独習するなどというのはもっての外だ。江戸時代の白隠慧鶴

(1685〜1768)といえば、臨済宗を復興し、白隠禅と呼ばれる座禅の大き

な流れを確立した人としてよく知られている。白隠は熱心に座禅の修行をした

が、トレーニング法が悪かったらしく、ひどい「禅病」に見舞われた。1757年

に発行された彼の著書「夜船閑話(やせんかんな)」に、そのあたりの詳しい記

述がある。「心火逆上し、肺金は焦枯し、両足は氷のよう、耳鳴りがひどく、肝

胆は脆弱になり、いつも恐れ、疲れはて、幻覚にさいなまれ、脇の下はいつ

も生汗、両眼はいつも涙……」今日でいえば、強度の心身症、ノイローゼ、あ

るいは原因不明の難病として、検査が繰り返されるかもしれない。白隠が30

歳前後のときのことだ。このとき彼は、白幽子という名前の「仙人」に会い、

「なんその法」と呼ばれる内観法を教わる。色も香りも良い清浄なクリーム状

の大きな卵が頭の上にあることをまず想像し、それがだんだん体全体に流れ

て浸透していくイメージを頭の中で繰り返す。この方法により、彼の「禅病」は

全快したのみでなく、他の人の「禅病」やいろいろな病気の治療に効果があっ

たと記述されている。ただし、これであらゆる「禅病」が治るわけではなく、救う

ことができなかった場合の、修行者の精神的な心得などにも触れている。こ

のことから、当時の座禅の修行者の中では「禅病」はかなり一般的であり、中

には治らないで一生苦しみ続けた者も多かったと推定される。「気功法」で

は、トレーニングにより生じたる障害を「偏差(へんさ)」と総称する。その症状

は大変幅広く、簡単な分類は困難だが、その主なものを示す。

@心身症、自律神経失調症、ノイローゼに類するもの。

A「自発動」が常に発生し、身体の動きが制御不能になるもの。

B「気」が体内をかけ巡る感覚が激しかったり、逆に「気」が停滞したように思

えて耐えがたくなるもの。

C幻覚・幻聴・幻視の類。天上界の人や歴史上の聖人、あるいは死者と会っ

て会話を交わす。逆に地獄の妖怪や鬼や悪魔と出会っておそろしい目に遭う

(禅ではこの状態を魔境に入る、という)。極端な場合には、命令的な幻覚や

幻聴にしたがって他人や自分を傷つけたり、物を破壊したりする。禅では、修

行が進むにつれ、いくつかの大きな「悟り」と無数の小さな「悟り」(大悟18

回、悟数を知らず)を通過しなければならないと教えており、魔境もそのプロ

セスの一つだとしている。結局、瞑想法というのは「自己催眠」だろう、という。

「自己催眠状態」というのは、とても気持ちがいいので、注意しないと中毒に

なってしまう。足が腐るまで座禅を続けるということは、中毒で抜け出せなくな

ったと考えたほうが自然だろう。それにより、「悟り」が開ければ、足の犠牲も

報われようが、凡人は中毒にならぬにこしたことはない。また、催眠状態とい

うのは、「無意識」(潜在意識)が無防備にむき出しになっており、暗示を受け

やすい。うっかりするととんでもない結果になることはよく知られている。深い

催眠状態にして、「さあ、あなたの手は、もう机から離れません」と暗示をかけ

ると、被験者がいくら努力しても本当に手を机から離すことができなくなる。ふ

つうの催眠術では、「もう机から手が離れますよ」という暗示により、前の暗示

の影響をなくしてから催眠術を解くのが常識だ。ところが、素人が遊び半分に

やっている催眠術だと、こういうルールを知らず、暗示をかけたまま催眠術を

解いてしまうことがある。すると、被験者は机を見るたびに違和感や恐怖感を

覚えるようになり、ひどい場合には強度のノイローゼに陥ってしまう。何もしら

ずに催眠術を用いたり、自己催眠に入るのは、とても危険なのだ。

第6項

無意識と一体になる

深層心理学という学問分野を樹立したユングは、自ら瞑想法を実践するとと

もに、生涯にわたって「ヨーガ」や「易経」などの東洋哲学を研究した。彼は、

ヨーガに関するセミナーを何度も行っているが、「ヨーガ」修行の危険性につ

いてこう語っている。人間が「無意識」を経験することは、本当はすばらしいこ

となのですが、そこに一つの大きな困難が立ちはだかっています。それは、

人が「無意識」と一体化して愚かになってしまうということです。ヨーガの修行

が進み、「無意識」の中の神々の胚芽(クンダリニ・ヨーガでは眠っている聖な

る蛇という)が目覚めると、人はいろいろな不思議な体験をします。こういった

体験を自己と一体化するのを避けて、あたかも人間領域の外側にあるかの

ように扱うのが賢明です。もし同一化すれば、たちまち不愉快な結果が生じる

でしょう。あなたはたましいの誇張(lnflation〓一種のエクスタシー的昂揚状

態)に陥り、全く道を誤ってしまうでしょう。誇張というのはまさしく小さな形の

狂気、狂気の緩和された形なのです。そしてもしあなたが、完全な誇張状態

まで燃え上がってしまえば、精神分裂病になります。これは、おそらくユング

自身の経験を語っていると思われる。修行の途上で昔の聖人や天界の人

物、神や仏の幻覚が現れ、会話を交わしたりするのはよくある。このとき、自

分が「悟り」を開いた、ち錯覚して舞い上がってしまうと危ない、といっている

のだ。もちろんユングの場合には自分自身が精神分析医だったため、冷静に

うまく対処でできたのだろう。さもなければ、大変に危険だったはずだ。ゆめ

ゆめ、ユングのような、自己流の「ヨーガ」の修行などはつつしむべきだろう。

第7項

偏差の原因

一方、「気功法」では、「偏差」の原因を次のように説明している。人間は本

来、大変強力な「気」のパワーを秘めているのだが、通常では抑圧されてい

る。「瞑想法」や「呼吸法」は、この気」のパワーを解放するためには絶好のト

レーニングなのだが、心身の「準備」が不十分なうちに、強力な「気」を用いる

と障害を生じる。「準備」の一つは、身体をリラックスさせること(放松)であり、

これができないうちに「気」を強くしてはいけない。もう一つは、心の持ち方で

あり、欲や憎しみや嫌悪感などを取り去り、「こだわりのない」「純粋な」精神

状態にならないと、「偏差」を生じやすいという。「これは私の想像ですが、自

催眠に入れたとき、欲や憎しみなどのこだわりがあると、それが無意識に定

着して悪い影響を与える可能性があるのではないかと思います」「近代科学

の方法論」に照らしていえば、「気」のトレーニングと、「超能力」の関係は何ら

証明されていない。しかしながら、中国では昔から「気功法」の練達者は、「超

能力」を発揮するようになるといわれてきた。まあ、手をかざしただけで、人の

病気が治るなら、それ自体が「超能力」だといっても過言ではない。

第8項

氣の威力

氣で病を癒す

「氣」は根源的な生命エネルギー

私たちが人生を営むためには、衣、食、住、そして水と空氣が必要である。で

は、この五条件を満たすことで人間は生きられるのかといえば、答えはノーで

ある。もう一つ不可欠なものがある。それが「氣」である。では、「氣」とは何

か。わかりやすくイメージしてみよう。海に入って海水を両手で囲ってみる。そ

して、「これは私の水だ」と主張する。たしかに自分の手で囲っているから、そ

れは「自分の水」かもしれないが、水自体は大海の水に変わりはない。手を

離せばすぐ海の水になるし、また手を離さなくとも水は海の一部であり、常に

交流している。私たちの生命も同じことがいえる。天地の氣の一部を自らの

五体で囲って、「これは私だ」と主張しているだけなのだ。身体は「私」であっ

ても、氣自体は天地の氣である。体内の氣がいつも天地の氣と交流している

のが自然であり、そうした状態を「生きている」といい、氣の交流が完全に止

まった状態を「死」というのだ。ここでいう天地とは、単純に空と地面を示すも

のではない。私のいう天地とは絶対的天地、すなわち無限大に広がる大宇宙

そのものをさしている。天地は、無限の半径で描いた無限の円周である。だ

から、私が右へ一歩動いたとしても、天地は右方が一歩短くなったということ

はない。相変わらず無限なのである。上下左右、前後、どの方向に対しても

無限であるということは、「私は天地の中心である」と思っても少しもおかしく

ない。もちろん、天地の中心であるのは「私」だけではない。万物すべてが天

地の中心なのである。釈迦は、これを「天上天下唯我独尊」といって教えた

が、残念ながら後世の坊さんたちは、釈迦だけが独り尊いと間違えてしまった

のだ。また、天地は無限に小なるものの無限の集まりと定義できる。一を二

分の一にしても、そのもの自体は一である。これを二分一、二分の一と無限

に続けても決してゼロにはならない。なぜならゼロより一は生じ得ないから

だ。つまり無限小が存在する。私はこの「無限に小なるものの無限の集まり」

を総称して「氣」と呼んでいるのだ。具体的な例をあげて説明しよう。燦々とふ

りそそぐ太陽の光。この太陽は現在燃えているだけだが、燃え始める前はな

んであったか。さらにその始めは?……とさかのぼって考えると、結局、「何も

ないが、何かあった状態」と答えるしかない。人間は何であったか。母親のお

なかの胎児、その前は父親の精子と母親の卵子の結合、さらにその前はと

探っていったら、あなたはなんと答えられるだろうか?だいたい母親も父親

も、2〜3歳の頃には卵子や精子などは体内に発見できない。成長するととも

に体内に組成されていったのだ。その間に食べた米や大根やナスに、卵子や

精子の素が入っていたわけではない。もし、あなたの父親が食べた大根に入

っていたとすれば、あなたは「大根の子」だし、ナスだったら「ナスの子」という

ことになってしまう。結局、人間も、何もないが何かあった状態から生まれて

きたのである。こう考えてくると、私たち人間はもちろん、草や木、大自然、地

球、太陽、星、宇宙のすべてのものが、この「何もないが、何かあった状態」

つまり無限小、「氣」から生じたということである。この氣のことを、全能の神と

呼ぼうと、仏と呼ぼうとかまわない。それは、ただ名称が異なるだけなのであ

る。万物すべて氣より生ず。万物皆同根。この真理を見つめることで、人類愛

を超えた慈悲の心、万有愛護の精神が生まれてくる。氣は根源的な生命エネ

ルギーなのである。

メルビン博士との対話

1974年、私はカリフォルニア州立フラトン大学で、サマースクールの講義を

6週間ほど行なった。ラトン大学では心理学と並んで「キ・ディベロープメント・

インスティテュート」という科目を新設してくれたのだ。心理学科は心だけを説

き、体育学科は身体のみを説く。人間は本来「心身一如」、すなわち心と身体

は一つのものである。それを無理に心理学と体育学に分けるから問題が解

決しないのであって、「心身統一科」をつくらなければいけないというのが私

の持論であった。日本の大学ではどこも耳を貸さなかったが、アメリカではハ

ワイ大学、ポートランドのルイスアンドクラーク大学が注目し、フラトン大学で

はついに前述の新学科の設置に踏み切ったのだ。「キ・ディベロープメント・イ

ンスティテュート」のキは「氣」である。講習会には学生だけでなく、医者、弁

護士、大学教授など300人あまりの人々が参加してくれた。遠くダコタ州の

ダコタ大学心理学教授のテーリー・ガンター博士、ジョージ・ブリード博士、フ

ィラデルフィアのペンシルベニア大学物理学のメール・メルビン教授、フラトン

大学の哲学教授スティーブ・サイモン博士や、ラウサン・ツアイ心理学教授も

熱心に聴講しに来てくれた。ツアイ教授は、犬と猫とネズミを飼育して共同生

活させるという実験をし、ライフ誌に大きく取り上げられ、猫とネズミのような

宿敵同士でも平和に共存・生活ができるのに、人類はなぜ平和に共存できな

いのかと説き、ノーベル賞候補にまであがった方である。私は昼休みの一時

間を利用して、参加者とさまざまな質疑応答をした。そのとき、物理学教授の

メルビン博士が次のような質問をしてきた。「先生、音や光は数字で表せます

が、氣を数字で現れますか。また、表した人はいるのですか」「できます。表し

た人もいます」「それは誰ですか」「私です」私が笑顔で答えると、会場は笑い

につつまれたが、メルビン教授は真剣な表情を崩さなかった。「では、どうや

って表すか教えていただけますか」「数字はまず一を仮定しますね。一を仮定

しなければ数字は成り立ちません」「おっしるとおりです」「その一が問題で

す。宇宙も一なら、人間も一、石ころも一です。いまここに一があるとします。

これを二分一にしても、その二分一の一自体は一です。これを無限に二分の

一にしながら追っていったらゼロになりますか」「ゼロにはなりません」「この

一はどこまでさかのぼっても一、つまり無限小の一です。この無限に小なるも

のの無限の集まりを総称して「氣」というのです」皆私の答えに拍手を送って

くれた。たしかに数学的説明には違いないというわけである。これを般若心経

では「色即是空、空即是色」といっている。お経にすると難しいが、数学にす

ると子供でもわかる。メルビン教授は「無限では計算に困る」と盛んに首をか

しげていたので、会場は再び笑いにつつまれた。

第9項

気功法に意義あり

いま、気功法がブームであるらしい。たしかに、テレビや雑誌などあちこちで

気功師が登場しては、摩訶不思議なパフォーマンスを披露している。中国の

気功師が、手から発射する氣によって他人の手足を操ったり、あるいは日本

の気功師たちもがんばって、数メートル離れた男たちを「エイッ」などと掛け声

かけるだけで吹っ飛ばしたり、まるでマンガの世界のようだ。合氣道十段、世

界中で演武を行い、プロレスラーや大男たちを投げ飛ばしてきた私でもそん

なことはできない。読者の皆さんはできますか?客観的にはっきり確かめら

れたなら、そうした超能力みたいなものを信用してもいいが、自分の目で確か

めもしないですぐに鵜呑みにするのは愚かなことだ。ある人が大金を出してフ

ィリピンの有名な心霊手術者に胆石を取ってもらい、喜んで帰国したのだが、

検査を受けたら胆のうには相変わらず石が残っていたというかわいそうな話

もある。やはり、ありえないことはありえないし、不可能なことは不可能なので

ある。氣を商売にする人にとっては、氣は何か特別なもの、神秘的なもの、不

思議なものであってほしいのだろうが、残念ながら氣ほどありふれたものは

ないのだ。私は氣が誰にでも出せることは何十年も教えてきたし、誰でも使え

るからこそ、教える価値もある。だいたい、走っている車のタイヤを超能力で

「エイッ」とやってパンクさせるといっても、驚くべき話ではあるが、それが何の

役に立つというのか。そんなことより、パンクしたタイヤを「エイッ」とやって直

すことができたら、どれほど社会の役に立つことだろう。気功法ブームに巻き

込まれている人たちにいっておきたいのは、中国の気功師たちの氣について

の理解が、実は不足しているということである。中国の考え方では氣は使った

ら減ってしまうから、気功師たちは氣をためておいて、めったなことでは使わ

ないという。だから、実際に気功師たちによる治療(外気治療)が大病院で行

なわれているが、何日か通って効果のない人はもう彼らの治療は受けられな

い。氣を無駄には使えないというわけだ。氣は使えば使うほど消耗するのは

事実で、気功治療師に以外と病人が多いのも、患者に氣を取られてしまうか

らだ。しかし、天地の氣と耐えず交流している人間は別である。こういう人は

氣を使えば使うほどまた氣が入ってくるから、ますます健康になる。気功師た

ちはそのことを知らないのである。使ったら減るような氣は氣ではない。それ

は「気」だ。すでに氣づかれた方もいると思うが、私は氣を「気」とは絶対に書

かない。漢字は表形文字であり、「気」では天地のエネルギー、パワーを表し

てはいないからだ。もともと、この氣という字体は中国から来た文字である。

昔、文字のなかった日本は、中国から文字が入ってきたときに、その便利さ

ゆえにさっそくそれを取り入れた。中国では文字の形に意味があるが、日本

語には音に意味がある。これはどういうことかといえば、天地のとらえ方が違

うのだ。だから、日本では中国語の読みと日本語の音を両方生かしておい

た。つまり音と訓である。ところが、氣という字には音も訓もない。ただ「き」と

読むだけだ。しかも、この「き」は、中国語の音ではなくて日本語の音なので

ある。中国では氣を「ち」と読み、「き」とは読まない。「き」というのはあくまで

も日本語の音であり、古代日本では天地の、あるいは大地の力をさして「き」

といっていた。そして、これが合いそうだというので当て字をしたのが氣という

文字だったのだ。この氣という文字は、もともとは雲の形からできたのではな

いかと私は考えている。学者諸氏は、米を主食にしていたから中に米という

字を書いたと説明しているが、そうではない。上の「气」という部分は天体をか

たどっており、下もまた米ではなく、八方に開いている姿をかたどっている。つ

まり、てんたいの下で生命エネルギーを四方八方に放出していく状態を表し

たのが、もともとの「氣」という文字の意味で、氣とは出すものなのである。し

かし、最近のように「米」ではなく「メ」(締める)と書いてしまっては、氣を内側

に閉じ込めるという意味になってしまう。これは、古代中国では氣が一方に出

れば他方が少なくなる、だから出口を締めてできるだけ氣をため込んでおく

ほうがいいと考えていたので、その影響を受けてのものだ。氣はもともとため

るものではない。氣は出すから入ってくるのである。天地の氣と人間の氣が

交流することを「息」というが、息が一時的にとだえれば氣絶する。永久にとだ

えてしまえば死ぬ。つまり、天地の氣と人間の氣の交流が止まったときが死

なのである。氣を出していればこそ、生き生きとした健康な生活が送れるので

ある。

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第10項

心身統一の四大原則

@臍下の一点に心をしずめ統一する。

A全身の力を完全に抜く。

B身体のすべての部分の重みをその最下部におく。

C氣を出す。

この四つの原則は、仕事をしながらでも、寝ながらでもできる。よく「名人に二

代目なし」といわれるが、それは名人・達人と呼ばれる人たちは自分でも氣づ

かずに心身統一を会得し、技に磨きをかけていても、その理屈がわからず弟

子たちに教えることができなかったのだろうと思う。会得したものを教えられな

いのでは意味がない。次の項では、四大原則の一つ一つについて、わかりや

すく解説してみよう。臍下の一点に心をしずめ統一する日本では古くか「腹」

を大事にしてきた。「腹を決める」「腹を据える」「腹に収める」「腹が太い」、そ

して心から笑うことを「腹が笑う」といい、信頼できる人と本心を語るのを「腹を

割って話す」という。死地に赴いたり、絶体絶命のところに追い込まれたりす

ると自然に腹ができてくるが、その難局を乗り越えて初めて腹ができるので

あって、難局に腰を抜かしたりガタガタしたりしているようでは腹などできるも

のではない。そのために先人は座禅したり、滝に打たれたりして、事前に腹を

鍛えることに励んだのである。あるドイツ人が日本で弓の修行をし、帰国して

「HARA」、つまり「腹」というタイトルの本を出版してベストセラーになった。後

に日本語で出版されたので読まれた方もたくさんいるだろうが、何のことはな

い、逆輸入である。頭でものを考え、理知的にものを処理することに慣れた欧

米人が「腹」という本に関心を持ったというのは注目に値する。その結果、禅

や茶道などを求める欧米人が増えたことも事実である。私も腹を鍛えようと、

若い頃参禅に励んだ。京都の老師から座禅を学んだとき、「臍下丹田に力を

込めて、しっかり坐れ」と教えられた。臍はヘソのことで、丹田は下腹部の面

積を意味する言葉であるから、「臍下丹田に力を込める」というのは、つまり

「下腹にぐっと力を入れろ」ということなのである。それで、私もいわれたとおり

に「ウン、ウン」と力みながら坐ったのだが、頭に血は上ってくるし肩はこる。

昔の人はこのつらさを乗り越えてきたのだからと思い、心を奮い立たせて坐っ

ていたが、徹夜では眠りに落ちてしまったりして心身統一どころではない。や

はり、どこかに無理があるのだ。「臍下丹田に力を込めろ」という座禅の方法

は理屈に合っていないことを感じていた。田舎で農作業を手伝っていたとき、

下腹に力を入れて鍬を使ったらすぐに疲れてしまい、続かなかった。それに

鍬を十分に使うことができなかった。合氣道の稽古のときも、下腹に力を入れ

ては技も相手にかからない。道を歩くときも、下腹に力を入れたのでは歩けな

い。つまり、日常生活の上でまったく役に立たないのである。軍隊時代、戦地

の中国で、敵地への夜間偵察に何度も出かけた。10人ほどの兵隊を連れ、

足音がしないように地下足袋をはいて出かけるのである。初めての偵察のと

き、下腹に力を込めて「さあ、行くぞ」と氣合いを入れるのだが、いっこうに心

がしずまらない。力を入れれば入れるほど心臓がどきどきしてくる。いつ弾丸

が飛んでくるかわからない敵地の暗闇に足を入れるのだから、氣持ちいいは

ずがない。そうかといって下腹など役に立たないと放棄してしまうと、暗闇が

目の前に立ちはだかって一歩も敵地に入っていけない。それではしかたなく、

「まあ下腹は大事だから、下腹に氣をつけて出かけよう。なんとかなるだろう」

と出かけたら、以外と度胸がつき、後は割合楽だった。そんな偵察を繰り返し

ているうちに、「そうだ。下腹は力を込めるところではなく、心を集中する場所

だ。つまり氣を下腹に集中させるのだ」と氣がついた。しかし、臍下丹田、つま

り下腹では心を集中させるのには広すぎる。やはり一点に帰さねばならな

い。そこで私は心をしずめるのは「臍下の一点である」としたのである。臍下

の一点とは、ヘソ下約10センチぐらいのところで、昔から「ヘソ下三寸」と呼

ばれてきたところである。この一点を指で押さえ、下腹に力を入れてみて、も

し力が入るようだったらその一点は少し位置が高い。徐々に位置を下げると、

力を入れようとしても入らない場所ある。そこが臍下の一点である。臍下の一

点はどんなに力を入れようとがんばっても入らないところだから、ここに心を

集め、しずめれば、全身の力も抜けてくる。これが本当のリラックスなのであ

る。心をしずめるということを、どうしても難しく考えてしまう人がいる。だが、

無理に意識しなくとも「臍下の一点はここにある」と思っていれば自然に心は

しずまり、そして統一ができてくるのである。

第11項

全身の力を完全に抜く

原則の第二にある「全身の力を完全に抜く」とは、要するにリラックスすること

である。張りつめたままの弓がすぐ使えなくなるのと同様、人間も緊張したま

までは疲労し、病気になってしまう。最近の医学界の発表を見ると、現代病の

80〜90lはストレスや過度の緊張の連続といった神経によるものから引き

起こされているという。医者は患者に、リラックスして神経を使わずにゆったり

しなさいと教える。ところが、これがなかなかできない。そう教える医者自身が

神経症の胃潰瘍になったり、心臓を患ったりしている。目まぐるしく変化する

政治経済、複雑化する人間関係、受験戦争、騒音など、現代社会は人をイラ

イラさせ、ストレスを感じさせるものであふれかえっている。新聞に報じられて

いる殺人事件の記事を読むと、「なんでそんなことで人を殺すのか」と首をか

しげたくなるようなささいなことが原因の場合が多い。ストレスがたまると、ち

ょっとしたことで爆発し、取り返しのつかない悲劇が起きてしまうのだ。人間の

心は本来、静かなものである。だから、本当にリラックスしていれば、心に波

はそう立たないものだ。しかし、現代人はストレスで身体を硬直させ、いつも

心を波立たせていて心の休まるひまがない。たとえば指先に一の刺激が与

えられたとする。神経がこれを脳髄に一と報告するなら、これは正常である。

ところが、これを100とか1000とかと報告しては、忠実な神経とはいえな

い。神経の異状報告である。風邪をひいているとき、髪の毛にはほんの少し

さわられても身体中がぞくぞくする。暗闇を歩いているとき、木の葉が襟首に

触れただけでキャッという。人にひと言注意されただけで、カッとしてケンカを

する。これらは、みんな神経の異状報告である。最近の大きな社会問題であ

る校内暴力の頻発は、ほとんどこの神経の異状報告に起因しているといって

もいいだろう。神経が異状報告しては、脳髄もついには命令が乱れて、異状

な行動を命令してしまうのである。だから、健康のためにも、健全な社会生活

を営むためにも、すべての人がリラックスすることを心がけねばならない。も

っとも、医者や私が大声で叫ばなくても、現代人はリラックスの重要性を知っ

ているが、実際はなかなかリラックスできない。なぜか?理由の一つには、多

くの人が「リラックスするのは気持ちがよいが、弱い状態である」と錯覚してい

ることである。心の底にそうした考えがあるから、いざというときにリラックスで

きないでコチコチになってしまう。ゴルフなどでも、ここ一番というときに身体

が硬直して失敗したりする。リラックスとは「力を抜いた」状態をいうのであっ

て、ルーズィング・パワー、つまり「力が抜けた」状態のことをさすわけではな

い。「力が抜けた」状態とは、虚脱状態のことだ。終戦後、戦地から帰ってきた

私は、苦労したのだからしばらく温泉にでも行って身体を休めたらどうか、と

いわれた。しかし、私はそれを断り、翌日から畑を耕した。氣がゆるむことを

恐れたからだ。氣がゆるんで虚脱状態になると、人は病気になる。後で聞い

たところによると、温泉に行って氣がゆるみ、自然に衰えて死んだ戦友が何

人もいたが、私は病気ひとつしなかった。風邪をひくのも氣がゆるんだとき、

「氣が抜けた」ときである。第一線で活躍していた人が定年になったり、引退

して隠居をしたりすると急にボケたり、生氣がなくなったり、身体が弱ったりす

るのも、氣を出す目的を失い、虚脱状態になってしまうからだ。リラックス、

「力を抜く」というのは本当の意味の「ドゥ・ナッシング」であり、天地に任せき

って何もしない状態、すなわち心身統一の一番強い状態のことなのである。

第12項

四大原則の相関関係

これまで、心身統一の四大原則を一つずつ説明してきたが、この四つのこと

を同時に行なえということではない。私が日本国内および欧米で心身統一を

教えるたびに、次のような質問を受ける。「心を臍下の一点にしずめながら、

身体の下側を考えたり、同時に氣を出すと考えたり、とても一度にはできませ

ん。心は一つしかありませんから」もっともな意見である。私だって一度に異

なることを同時にはできない。寝ながら立てというようなものである。たとえて

いうなら、四大原則は、心身統一という山を上るための四つの登頂ルートの

ようなものと考えたらわかりやすいと思う。心身統一の四大原則も、言葉は変

わっても目的はまったく同じ。すべて同じことをいっているのである。だから、

四つのうちどれか一つがしっかりと体得できれば、ほかの三つも自動的にで

きるようになるのである。大別すると第一と第四は心の法則、第二、第三は身

体の法則である。心身は本来一つである。心の法則と身体の法則が、車の

車輪のごとく、一致して動くのが真の統一である。もし第一から心身統一する

ことが難しかったら、第二、第三、第四のしずれかをやってみるといい。あまり

難しく考えず、できそうなものからやることだ。順番は関係がない。心の法則

がうまくできなかったら、からだの法則を用いればいい。身体を使ってうまくい

かないときは、心の法則を考えたらいいのである。どんなとき、どんな場合で

も、この四つの法則のどれかはできるはずである。

第13項

心が身体を動かす

心身は本来一つであり、この相対的世界においては心と身体を生じ、心には

心の法則があり、身体には身体の法則がある。だから、本来一つのものだか

らといって、これらをミックスすることはできない。宗教家は「頭が痛いのは、

心で痛いと思うから痛いのであって、痛くないと思えば治る」という。まったく

無茶苦茶な話である。いくら痛くないと思っても、現に痛いものは痛いのであ

る。また、ある人は「スポーツをすれば立派な人間になる」という。そうだろう

か。身体を鍛えるだけでは、立派な人間になる保障などどこにもないのだ。ス

ポーツする者で氣の弱いものもいるし、悪いことをする者もいる。心は心の法

則によらねば立派にならないし、身体は身体の法則によらねば立派にならな

いのである。心の法則と身体の法則が車の車輪のごとく一致して、初めて人

間本来の力も生じ、立派な人間にもなるのである。したがって、その両法則を

どうやって一致させるかが問題になる。自由に飛び回る心と、制限を受けて

いる身体とを行き当たりばったりに統一することなど、とうていできるものでは

ない。どちらかを中心にしなければならない。どちらを中心にするかで、その

修行のしかたも大いに変わってくる。心身は一つのもの、いずれが正しく、い

ずれが重要ということはない。共に別け隔てできるものではないが、作用の

上からいって、どちらがどちらを動かしているかの問題で、唯心論か唯物論

かで学者たちが論争を繰り返してきた問題である。まず、身体が主で、心がこ

れに従うという説から検討してみよう。「健全な身体に健全な精神が宿る」こ

れは身体が心を左右しているという考えに根ざしている。だから各地に体育

館が建設されているのだが、現実に非行に走る青少年は減りそうもない。ま

た、病気をすると心が弱り、年をとると弱氣になる。これも、たしかに一面の真

理である。心と身体は相互関係にあるからだ。身体を身動きできないように

固定する。さて、これで心は動かないようになっただろうか、これは明らかにノ

ーである。身体が動けなくなると、心はよけいに動揺して動く、医者に絶対安

静などといわれると、身体が動けない分だけ不安になってくるものである。次

に、心を止めておいて、身体を動かさないことができるか。これはイエスであ

る。心でちょっと考えたことも、みんな身体に直接影響する。心をとどめたら身

体は動けない。よく催眠術で、「あなたは椅子から立ち上がることができない」

などといわれて、本当に立ち上がることができなくなったりする。これは、施術

者がかけられる人を朦朧状態にしておいて、現在(顕在)意識を眠らせ、直

接、潜在に命令しているからである。催眠術にかけられた人は、自分で動け

ないと思い込んでしまうと、実際に立ち上がれなくなる。また、催眠術など使

わなくとも、自分で自分に「腰が椅子にくっついてしまった」と暗示をかけれ

ば、実際に立ち上がれなくなる。「そんなことあるものか」と思えば、すぐ立ち

上がれる。要するに、こうした催眠術は心が身体を動かすという理を応用して

いるにすぎないのである。そして、催眠術者はよく、「バカと何とかは催眠術に

かからない」などという。それは、どちらもこっちのいうとおりに考えてくれない

からである。もっとも、かけられる側は、「ここで催眠術にかからないと、バカ

だと思われてしまう」という心配があるから、自分でかかろうと努力するとい

う、うまい暗示の効果があることは事実である。身体はいつも外界の影響を

受て変化している。その身体が心を動かしているのなら、心はいつも動揺し、

安定するひまがない。身体か病になれば、心も弱くなり、身体か年をとれば

心も弱くなる。「もう50歳だ。そろそろ身体にガタが来る頃だ」ということにな

る。しかし、年はとっても心まで年をとる必要はない。「身に病ありとて、心必

ずしも病まず。身は逆境に存りとて、心必ずしも逆境に在らず」といった強い

心を持っていれば、身体はこれについてくる。逆境も乗り越え、病氣をも克服

する強さを持つことができるのだ。心は身体によれねば存在しがたく、からだ

は心によらねば動くことはできない。したがって、まず心の法則を確立し、身

体の法則をこれに合わせるようにする。すなわち、「マインド・オヘバー・マタ

ー」、心が身体を動かすことを知らねばならない。        

メビオス身体気流法

身体の文法の発想―共通の水脈

たとえばインドでは、人は肯定する時顔を横にる。一見いやいやをしているよ

うだ。だが、この時でも、息はむしろ吸気の方が強いことは変わらない。肯定

する時、たとえ空気を吸っていなくても、その場の雰囲気を「呑みこむ」、その

ことでは世界共通である。逆に否定の時は、空気を吐き気味であり、不快の

極がつばを吐いたり、吐き気をもよおすことになる。この場合、表面の身振り

よりもそうした呼吸のリズムが「身体の文法だ」。気を放つさまざまな動作を

行う時、まず遠くを見、目線と、指先と気持ちを一致させながら、彼方へ放

つ。これを古語では「あくがれ」―彼方へ気持ちを駆せること―という。生きる

ものすべて本質的にこのあくがれがある。今ある場のみに自己の気配を閉じ

こめないこと。これを自覚的に行えば、自我や身体へのとらわれがうすれ、却

って身も活々とする。

身を重力に委ねる

重さを宿命とする身体をゆるめつつ、その重さを大地に委ねてゆく。委ねると

は我身を支える地球を信じ切り、身の重さをそこにかえすことでもある。そこ

にこそリラクセーシュンのこつがあり、身心も柔らぐ。動きは流れであり、巡り

であるあらゆる動作をまずは波動状にとらえてゆく―私たちの運動を司る筋

肉も波状形をしている―そうしてこそ、スムーズに全身がつながり、また状況

に応じて変化してゆける―自然は直線を嫌うとの古語もあった―そして波状

形は更に「メビウスの環」によって自在な世界が展けてゆく。

中心―正中線が定まる

放ち、柔らかくなり、流れる……それだけでは十分でなくそれと即応して、自

ずとそこにすっと、中心線が体軸を貫くことも必要だ。これを正中線ともいい、

まずはそれを体感してゆくことである。腰が割れるという伝統身技や芸能のこ

つもここにある。この垂直線は体そのものも貫いて、天と地を貫くのである。

但しこの「中心」もさらに超えられて「中心」なき世界へとすすむ。

全身が一つになり微笑む

正中線が自覚され、全身が柔らかくなると身体の中から自ずと微笑みが湧い

てくるのである。その時は息も深く、全身で周囲の空間と融和しつつ行ってい

る。あたかもその空間それ自体が呼吸しはじめるようだ。呼吸なき呼吸。この

時からだはからだであることを超えている。

新陰流と一刀流

エネルギー(気)を集中することを最もきびしく追求してそれを型にまで精錬し

ぬいた日本や中国の武術を観察すると、その型には螺旋が非常に多くみら

れる。中国拳法の常識だが、纏絲勁といって、糸がぐるぐると回転しながら進

むようなねじり気味の運動を説く。これは単に手をねじり気味に突き出す、と

いった部分的で外面的なことにとどまらず、こぶしを通し敵に集中してくる

「気」エネルギーが、大地からぐるぐると螺旋を描いてくるこつを教えるのであ

る。日本の伝統的な剣術においても、剣のあつかいを、螺旋状に回転させて

ゆくことを説くものがある。それが新陰流系統の刀術であり、螺旋に動かすこ

とによって、上下、左右自在に風車のように効率的に重い力をさばける。螺

旋状の運動の原理に従っているものがあるところには、必ず重力が働いてい

ることもすでに述べた。人体も例外ではない。重力につきまとうのがスピン、

あるいはうず巻きである。その重力―うず巻きの働きに沿った方法が新陰流

系統である。今一つ、一刀流系統の剣法がある。斬撃の際、刀を垂直状「外

見は厳密な垂直ではないが」に振り上げるのを基本の一つとする。すると垂

直の言によって手にほとんど重さを感じないところがある。そのあたかも刀が

「空」になったかのような位置から切りおろした威力はすさまじくなるのであ

る。いわば、これは、垂直による重力からの超脱と重力世界への突入のこつ

による刀の扱い方である。これは、垂直―重力の原理といえよう。一方螺旋

の太刀は、この宇宙、重力世界のあらゆるもののあるところに働いている螺

旋に沿いつつ、重力エネルギーを展開しつつ動く。こうして日本の剣術は螺

旋と垂直の二つの系統に分かれてきたがいずれもそれは重力との関係によ

って成り立っている。気エネルギーの極致をきびしく求めてきた武術は、こう

して見ると、やはり最も深い世界観相に、体験と直感によって達してきたのだ

と感嘆せざるを得ないのだ。もう少し武術について触れると、螺旋は一個の

人体内のことにとどまらない。個としての中心をもった私と、されにもう一つの

中心をもった今一人の相手(敵)との出会いの中にもまた螺旋は生じてくる。

相手が押せば、まわり込みながら引き、相手が引けば、その動きにつれなな

め前に入る、という柔道の原理もそれを一部あらわしている。本来の合気道

などはさらにもっと深く微妙にこの原理をつかんでいるはずである。直線的な

対決か゛現実には、こうした円転、あるいは立体的に見ると螺旋敵な出会い

になることが多いのである。中国の道教系の行などに「禹歩」といって古代の

天動説的宇宙観によって、天の中心である北極星に自らの気を合わせるべく

北斗七星の配置どおりに大地に歩を運ぶ。そうすると天の回転の原点である

北斗七星と自らの気のエネルギーが一致融合して自らの身が回転する天の

巨大なエネルギーと一つにつながる。そうしておいてからしかるべき儀式や

拳法を行った、という。日本でも一刀流に、やはり北斗七星に方向をあわせ

て舞いのような運足をする法があった。武術はこうして、宇宙観であり、宇宙

的な舞いであり、動的瞑想法でもあった。なぜ禹歩というかは、中国古代の

帝王の禹の行ったところの儀式に従うとも、あるいは北斗七星の運足が兎の

足跡に似ているからともいう。日本でもある時代、天皇や一般の人々の間に

も儀式として行われていた習慣でもあった。古代人は天に通じる巨大な螺旋

の舞法として、そこに生命の最も深遠なルーツを見ようとしたのである。

 

第14項

野口体操

「力を抜く」という事実とその実感が分からなければ、「力を入れる」という事

実も実感も分かりようがない。この基礎的事実と実感のないところでは、どん

な理屈も実技も空論となり、無意味なものとなる。いま自分がここに見ている

ものが、事実としてここに在るとは限らない。人間はいわゆる客観的に事実

そのものを見ているつもりでも,その場の関係によって、在る方向へ「錯覚する

ことの出来る能力」を与えられている、というように言いたい。たよりなさ、もど

かしさ、ちぐはぐ、いらだたしさ、なさけなさ、………そして、うれしさ、よろこば

しさ、………人間が五感と読んでいる「視覚・聴覚・味覚・嗅覚・触覚」と言う

ような情報受容の感覚器,人間にこの分析的な感覚が与えられた為に,人間

は対象を分析的に認識する能力や思考・表現する能力と言う長所を発達させ

た。しかし,このことは同時に,五つの感覚以外のまだよくわからない情報受容

能力の発達を妨げ,さらにそれを退化させてしまった。

感覚とは錯覚のことである。錯覚以外の感覚は事実としては存在しない。

理解とは誤解のことである。誤解以外の理解は事実としては存在しない。

判断とは独断のことである。独断以外の判断は事実としては存在しない。

意見とは偏見のことである。偏見以外の意見は事実としては存在しない。

「事実と感覚と意識と表現」の間には,それぞれ多くのズレがあることを忘れて

はならない。コトバは、人が神に対する呪術的な祭りの祈りのコトバに始ま

る。生きることのたたり(崇)に対する恐怖のコトバが根源的出発点であろう。,

障碍(しょうがい)によって意識が生まれるように,怖れによって祈りが生まれ,

その祈りがコトバなのである。人間が生きていくことにとって,国家的政治的枠

組みが唯一最高の基盤ではない。気候・風土やその中から生まれた言語・宗

教・風俗・習慣価値観………などの文化の伝統が優先する。

第15項

人間は宇宙の端末機

私の感覚を宗教的なものに思われると困る。私は企業家であって宗教家で

はない。私は特別に哲学に造詣が深いわけではないので、むしろ我流の哲

学といわれるほうが当たっているだろう。その私にあるとき、ふとひらめいた

思いが、「人間は宇宙の端末機ではないか」ということであった。実にひらめ

きに過ぎないのであるが、少し考えてみれば地球は宇宙の一存在である。人

間はその地球の中から生まれてきた。動物も植物もいろいろあるが、私はた

またま人間という形をとった。そして、確実に地球の一部である。地球は私を

含めていろいろなものを生み出し、育てる力をもっている。その地球は太陽系

の一部であり、太陽系は銀河系の一部であり、銀河系は宇宙の一部である。

そして、地球に人を生み育てる力があるように、目には見えないけれども宇

宙というものとの関連の中で、この地球もまた生み育てられたと考えられない

だろうか。そのシステムもからくりも、私たち人類はまだ何も知らないでいるに

等しい。ただ月にだけは足跡をつけた。火星や土星など、ほんの一部の惑星

に観察衛星だけは飛ばした。地球を少しはなれて無重力空間へ宇宙船を打

ち上げ、宇宙ステーションを造りはじめた。しかし、まだまだ大宇宙に対して

はほんの微小な手触りと知識を得たに過ぎない。実に限られた範囲内であ

る。疑いのないことは、人間はどんなに大きなことを言っていても、この広大

な宇宙の中に浮かぶ小さな地球のほんの一部分に過ぎないということであ

る。そう考えると、身が引き締まる思いがする。私たちは地球に、たとえば植

物が育つのは太陽の光と地球上の水、炭酸同化作用の法則などと割り切

り、さもわかった風な顔をして暮らしているが、太陽とて宇宙の中の太陽系の

一つの火の玉にすぎない。広大無限な大宇宙の中の単なる一点なのであっ

て、私たちの目や頭はともすれば、それ以上の無限の大きな見えざる力や法

則にまで考えを及ぼすことがなかなか。超微小なものが見えないように、超

無限大なるものをも、人には見えない。それを忘れてはいけないと思うのであ

る。

第16項

宇宙の大型コンピューターを作動させよう

思いがかなうということは、この大宇宙の中の端末機たる自分にあるスイッチ

が入って、何かはかりしれない力が宇宙から流れ込んでくることではないか。

それが思いを実現させる大きな力となってはたらくのではないか。自分だけ

の力ではなく、この大きな力がはたらかなかったら思いはかなわない、と私は

信じている。だから何度も言うが、スイッチが入るか入らないかは、本当に思

って、念じて心に描いたかどうかでほとんどが決まり、少しの運と継続した努

力があればいいということになる。できないのは完全に描ききれていないから

で、本当にきちっと描けたものは最後にこのスイッチ・オンを得るのだ。不思

議といえば不思議である。よく「詰めの甘さ」という。この大いなる力のはたら

きこそ「詰め」であり、「詰め」こそ思いの達成に必要不可欠なのだと、私は思

っている。偉大な発明というものは、結構、他でもできかっていることが多いも

のだという。一方で考えていることは、他のところでも同じように考えているど

ちらかがタッチの差で先になる。その先になった人が発明家としての名声を

得る。私が思うのに、そ差こそ、大いなる力のはたらきではないか。偶然とい

うことでなく、自分自身で大きな力を引き寄せている。だから、ちょっとした時

間差も、実は大きな差だともいえる。大いなる力が通ずるスイッチが入るか入

らないかの差だからだ。それは暗号解読のようなもので、初めてキーの中の

暗号キーがつながった瞬間にコンピューターが使えるようになるのに似てい

る。には、そんな気がする。このキーの中には、その途中に暗証番号があっ

たり、コツがあったり、運があったりする。それらがすべて開かれた瞬間に宇

宙の大型コンピューターがダイナミックに動き始め、夢は現実へと姿を変えは

じめるのではないか。大いなる意志である力が動きはじめたそのときから、す

べてが可能になってくる。その証拠が、成就のそのときの電撃にも似た心身

の震動、そう、「やった」という、あの感動だ。それは大いなる力の通電時震動

なのではあるまいか。

 

第15節

あとがき

さて、これまで理論的なことばかりのエッセンスをほんの一部を紹介したが、

パソコン用語でいうと、知識はダウンロードしても使いものにはならない。解

凍してさらに新しいファイルを作って必要でないものは削除して、必要なもの

をコピーする。それで初めて自分流に使えるのである。つまり理論を現実に

照らし合わせて応用出来るものがあるかどうかなのである。私は自分の問題

なり、悩みなりを知識に求めて解決出来ると信じていたが、知識を吸収すれ

ばするほど、悩みが減るどころかますます増えてきたのである。それはすべ

て借り物の知識であることに気づいたからである。体験なき理論は知っては

いるが、分かっていないのである。それならばと生活にかかわる、すべてのジ

ャンルを読破して全体として何らかの共通点を見つけようとしたのである。ヒ

ントらしきものはあったが、結局私には見つけることは出来なかったのであ

る。しかしある日、太古の時代のことをぼんやり考えていた。言語もなく貨幣

もない時代の生活はどうであったか。食べ物は皆で平等に分かちあい人間

同志の戦いもなく、それでいて相手の心がわかり、気分の良い生活を送って

いたに違いないと。現に世界において原始生活をしている人たちは自然とと

もに仲良く暮らしている姿を見てつくづく思うのである。なぜ我々は安心感・

充実感などの良い気分で暮らすことができないのかと。そのとき、突然に情

報が入ってきたのである。それは脳の神経細胞の本体(システム)は人類す

べて同じ型、つまり全員同じでその上に個性別のシステム(その人の学習情

報)が合体しているということを情報として受け取ったのである。私が考えたこ

となどではないのである。その時はぼんやりとして、左脳が休んで右脳が働

いたのではないかと思うが、その時から私は考えることを廃めてみたのであ

る。閃き、インスピレーション等は自分自身で考えたこととは違うのである。だ

から特許権などが存在することが可笑しいのである。その人が考えたことで

はなくて、過去・現代・未来からの個性別情報なのである。そのことが分かっ

てから私の疑問が解けたのである。魂・霊・輪廻転生・未来予知・テレパシ

ー・念力などは私なりに解明できたのである。2万年前のクロマニヨン人がな

ぜ1400グラムもある脳が必要であったか、それは個性別の情報を後世の

人々に残すためであったのである。どのような環境に人類か遭遇しても解決

できるようにである。神・創造神・宇宙神・仏等と総称しているが、そのような

ものではないのである。システムとして人類にもともと備わっている機能なの

である。それに言語族クロマニヨン人」(左脳型・理論型・肉食型)と感性族

「ネアンデルタール人」(右脳型・感覚型・草食型)とがあり、過去においてヨ

ーロッパでは魔女狩りと称して感性族の情報をもった人々を弾圧処刑したの

である。日本では聖徳太子の時代がそうではないかと私は推定している。だ

がら文字のない南西諸島(沖縄・奄美等)あるいは東北地方・北海道のアイヌ

の人たちは感性族の情報をより多く持っているのである。世界中で少数民族

の問題が急浮上しているのは何を意味しているのか。左脳型誘導の文明は

もう曲がり角にきているのである。もっと右脳型の人たちが増えていって、そ

のバランスをとるようにとの情報に違いないと思うのであるがどうであろうか。

それは各自が確かめていただきたい。私はリズム(波動)を送るだけであり、

受け取った人は自分流に使っていただきたい。それはリズムだけでは使いも

のにならないことは前に述べたが、そうすることによって師弟・組織などの関

係を作らずシステムという機能を自由に使っていただけるからである。リズム

があればそれにメロディーを加え、そしてハーモニーを付け加えると一曲の楽

譜が出来上がる。どのような曲が生まれるかは貴方次第である。自分で作曲

するということは、どのようにも編曲できるということである。それはそれで難

しいかもしれないし、本人の努力も必要とされるであろうが、自分が努力した

程度に良くなるというのが正しいのではないだろうか。まるまる一曲の楽譜を

お金で買えるところもあるが、それは譜面通り、学習通りのことしか出来ない

ようになっていることを記憶にとどめていただきたい。どちらを選ぶかは貴方

自身が決めることであって、強制されて決めることではないと思う。私自身強

制されることが最も嫌いであるので、他に対しても強制することはない。自分

を自由にすることは、他を自由にすることであり、他を束縛することが、自分

自身を束縛することになるのである。自分で選んだ呪縛から解き放つのは自

分自身でしかないのである。それには「知識(思考力)を必要とする」、とただ

思い込んでいたにすぎないのである。知識などまったく必要としないというこ

とに気づいていただきたいのである。パソコン用語でいえば、インストールし

たファイルをただコピーするだけのことなのである。ただコピー先がわからな

いのでその隠しファイルを見つけることが重要なボイントとなっているのであ

る。大昔に葬りさられた能力ではあるが、人類すべての方々に隠しファイルと

いう形式で残されているので、安心して是非見つけていただきたい。尚見つ

ける作業においてコンピュターウィルスに犯された偽ファイルがあるので、十

分に気をつけていただきたい。このウィルスに振り回される一つの原因とし

て、自分自身が持っている異常感情があるので、それを解決する一つの方法

として体の修正法がある。

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