コメント

異常感覚が高まると危険なことは述べたがその異常感覚を解消す

る方法の一つが体のあり方・使い方なのである。60兆もある細胞の一つ一

つに情報があり、その一つの細胞が全ての情報をもっているのである。その

一個の遺伝子情報の伝達機能の低下を招いたとき、それを解消して従来の

路線にもどれるように求めている注意信号が、悩みであり、病気であり、不慮

の災難なのである。前章でも触れたように決して神とか、宇宙創造主なので

はない。システムとして存在するのである。だからこのシステムを上手に使い

こなすことが重要な意味をもっているのである。システムである以上使いこな

せばよいのであるが、自由自在とはいかないところが難しいのである。なぜら

ば、自己意識で断定的な意識をもつと、それに相対する意識エネルギーが生

まれるからである。(神など存在しない)と断定するとさまざまな神が現実化

するのである。ではどうすればよいのか。つまり思考力を使わない、考えない

工夫が大切なのである。それを私は中途半端と呼んでいるのである。最大の

緊張は最大の弛緩を生むのである。問題を徹底的に考えると(考えて答えの

あることに限るが)思考力はストップし、考えているようで考えていない状態で

ある右脳へと切り替わるのである。このような意識状態になった時、あらゆる

情報が入ってくるが、それは全て一方通行になっている。なぜならば、考えて

いない意識状態であるからで、問題の質問に対して答えが返ってくるというも

のではないからである(エドガー・ケーシーは自由自在であったらしいが)。そ

ういう意味では自由自在とはいかないが、それゆえに自分のエネルギーを使

わないので疲れてしまうということないのである。あらゆる情報はすべてシス

テムから一方通行で入ってくるのである。しかし、徹底的に考えるということ

ほどエネルギーを使って疲れることはないのである。であるから簡単に左脳

から右脳へチェンジできる方法がヒフミ聴感法なのであるが、簡単であるが

ゆえに、相反する難しさがある。それが異常感情なのである。その異常感情

を解消する一つの方法としてヨガがあるので紹介したいと思う。

 

第15節

ヨガによる健康の秘訣

現代人にアピールするヨガ

なぜ大昔のヨガが現代人の要求にかなうものとして、アピールしているのだろ

うか。現在、ヨガの研究熱は世界的に盛んになってきている。その主な理由と

してつぎのことがあげられよう。それは、ヨガは近代科学というよりも、ある意

味でもっとも進歩した科学だからである。イギリスの著名なヨガ研究家、ハー

ベィ・デイ(生理学者)が『人間の心身の問題に関するかぎり、現代世界にお

ける新しい発見はなにひとつないようだ。われわれが現在説き明かそうとして

いるもろもろの心身の難問題を、ヨギたちはすでに何千年も前に解決してい

る』といっているが、これはけっして誇張したいい方ではない。現代の科学者

をして、このようにいわしめるほどの底の深さを、数千年前インドの山のなか

で生まれたヨガが見せてくれているのは事実なのである。一例をあげてみる

なら、近ごろ精神身体医学とか、ストレス学とかいう学問が新たに起こってき

ているが、ヨガはこれよりもはるかに古い時代に、完璧な精神身体医学や、

ストレス解除法の体系を作り上げてしまっている。また、近ごろよく応用され

ている催眠術というものを発明したのもテレパシーを応用したのもヨギであっ

た。深層心理について最も深く広く研究してあるのがヨガ哲学だが、近代心

理学の立場からみても、無意識ないし深層心理についてのヨガの研究には

貴重な数多くのものが含まれている。このような例によってもわかるように、ヨ

ガにはまだまだ近代の科学をもってしてもはかり知れないほどの真理と事実

が未科学の形でかくされている。もっとも注目すべきことは、ヨガが理論だけ

でなく、何千年にもわたる実際的な事実による証明に裏付けられているという

ことである。このような理由から、ヨガはますますその名を高めつつあるが、

その反面、誤解されている点も多い。とくに日本人にはそれが多いように思え

る。ヨガは、アクロバットやサーカスの見せ物ではない。ヨギのなかには、こと

さらにむずかしい行や特殊能力をみせびらかしている者もいるが、彼らは、ヨ

ガがこころの浄化昂揚および自己コントロールを目的とするものであるという

ことを忘れてしまっている。たしかに彼らの行は常識では考えられないほどの

異常さをもっていて、訓練による可能性の限界を知るという研究の対象には

好適であるが、これがヨガなのだと誤解されるのには、ほとほと迷惑してい

る。心臓を止めてみせる者息をとめて冬眠状態にはいり地下深く生き埋めに

なる者など、それができるということが、ヨガの真意をあらわしているかどうか

ということとはまったくの別問題である。それに、このようなことがヨガ行法だ

とするなら、ヨガは私たちとも、現代生活ともおよそ縁遠い無用のものである。

また、ヨガは苦行ではない。ヨガは意識的に自分の目的とするものを身につ

ける努力、くふうをつづけるものであるから、自分のはたらきとして、そのこと

が身につくまで訓練しつづけなければならない。この訓練は、あくまでこころ

の修養に結びついて、楽しみながらやらなければならないのだが、病気をな

おすためとか、健康法のためとかいうようにせまい目的にしぼられ、せっぱつ

まってくると、どうしても苦行とその人自身が感ずるようになり、これが誤解の

原因となっているらしい。本を読んだり、話だけではヨガは理解できるもので

はなく、体験によって自得するよう教えているのが、このことに拍車をかけて

いるともいえるだろう。ヨガは体得の学であるために、説明することができにく

いものが多い。また体得させる目的でただ『やれという教え方である。しかし、

他人に紹介しようとすれば、一応形にあらわせるものだけを示すほかなく、そ

のために人びとは形にあらわれたものだけをヨガだと思いやすいのである。ヨ

ガとは「さか立ちか」と尋ねた人がいた。またマンガに描いている人もいた。ヨ

ガの教えの大部分は、形やことばで示すことのできないものである。

 

日本にも古くからヨガがあった

私がはじめてインドのヨガに接したのは、昭和14年、秘密調査機関員として

インドに赴任したときであった。ヨガの強烈な魅力のとりこになって帰国した私

は、終戦後またユネスコの招きで渡印する機会を得て滞在4年、ヨガ研究に

没頭したのだった。本格的に日本でヨガの普及と実践にとりかかったのは昭

和32年のことである。したがって日本におけるヨガの歴史は浅い。では、日

本でヨガをはじめたのは私かというと、けっしてそうではない。日本でも古くか

らヨガの行法が行なわれたであろうことは仏教の教典をみてもわかるし、ヨガ

山というのが岡山県ほか数ヶ所にあることでもわかる。真言宗やなどは元来

ヨガから発したものである。ただ日本の古代文化は常に中国との接触のうち

に発達してきたために、ヨガもまたインドそのままのものが伝えられることは

なく、国民性の違いによって多分に変容してしまっていることは、やむを得な

いことであった。仏教が広く浸透している日本だとはいっても、そのヨガとして

の面は、密教としてきわめてかぎられた人びとの間にしか行なわれず、ほと

んど民衆とは無縁のものであったと考えられる。

訓練による特殊能力者たち

私はインドで非常に多くの特殊能力者たちに会った。特殊能力とは、常識で

はちょっと考えられないような離れ業をやってのける能力のことであるが、こ

れらの例について、これがヨガとどういう関係をもっているのかを考えてみた

いと思う。私の会った特殊能力者の例をあげてみると、

◯心臓をとめて、しばらく仮死状態になっている人。

○息をきわめて細くし、地中で冬眠する人・何時間も息を止められる人。

○焼けひばしをからだにあてたり・刀やクギの上にねたり・熱湯に手を入れて

も平気な人。短剣を飲みこんだり、吐き出したりする人。

○人の考えていることや、人のさいふの中身をあてたり、懐中の書類を読ん

だりする人。

○肛門陰茎から水を吸い込んでうがいをする人。

○内臓など不随意筋を自由に動かす人。

○からだを空中に浮かす人。

○災難を事前に予測する人。

○一ヵ月ぐらい先の天候を予知する人。

○テレパシー(ことばをまじえずに通信する)のじょうずな人。

まだ、このほかいろいろあるが、これだけでも信用しかねるものが多い。私は

実は、最初にこれらの話を聞いたときには、そんなバカなことがあるものか、

と一笑にふしたものである。しかし、実際にこの目でみるにおよんで、私の疑

いはだんだんと驚きに変わり、ついで持ち前の好奇心と探求癖から、私はひ

とつひとつそのわけをたずねたり、自分も練習してみたりして、自分ながらの

説明をつけてみないと納得ができなかった。その結果、私はつぎのような結

論を得たのである。第一に、これらのなかにはトリックを使うのならば、それ

は手品師のやり口と同じであって、ただ人びとの目をあざむく早わざに感心

するほかないにしても、別に不思議なことでもなんでもない。たとえば、からだ

の空中浮揚などがそれである。私は、肉眼でみたときは、やはりからだが空

中に浮いているとしかみえなかったが、写真を写してみたら、カメラの目をご

まかすことはできなかった。私たち見物人は、みな集団催眠術にかかってい

たわけである。このようなトリックを使う見せ物は数多いが、修業したらこんな

ことができるものだ、などと人をだます人がいるからそのようなウソにひっか

からないようにしなければならない。つぎにこういう能力はけっして神秘的、

超自然的なものではなく、かならず合理的に説明されうるものだということで

ある。神秘的なものにあこがれる人は、よく誤解したり、むやみにあがめたり

する傾向があるようだが、ヨガの立場からいうとすべての現象はかならず合

理的な理由に基づいて起こるものであるということを忘れてはならない。現

在、説明のつかないものがたくさんあることは事実だが、将来はかならずいっ

さいのことが科学的に解明されるときがくるであろう。第二に、これらの能力

はいずれも訓練のたまものであって、その意味ではだれにでもできることな

のだ。たとえば、熱湯に手をつっこんだり、焼けひばしをあてても平気だった

り、ヒマラヤの雪の山中で裸で座禅をしたり、剣を胃のなかまで飲み込んだり

する類のものについて考えてみよう。あなた方は、からだのはたらきには適

応性があるということをご存じだろう。同一刺激をつづけていると、だんだんそ

の刺激に対する抵抗力が高まってきて、しまいには、平気になってしまうので

ある。熱湯のなかに手をいれる例であるが、はじめから熱湯のなかに入れた

ら、それこそ大やけどをしてしまう。やけどをしないためには、何年もかけてだ

んだん熱湯にたいする抵抗力をつけていくのだ。私が、チベットのカイラス山

に行ったとき、零下20度の寒さのなかで、上半身裸で座禅しているチベット

のヨギのグループをみたが、やはりこれも、だんだんとからだを寒さにならし

てきた結果なのである。しかし、同様なことを行なっていても、ヨギ以外にはト

リックを使うニセ物師もいる。熱湯の例では、あらかじめ手に塩をぬったり、油

をぬったりしておく。するとこれが遮断作用をしてくれるので、熱湯の熱が直

接皮膚にふれないわけだ。アルコールをぬるとさらに効果的である。また見

せ物師は、このとき底の浅い容器を用いる。底が深いと、まわりの方はわき

方がおそいから、手を入れてもあまり熱くないし、このとき炭酸ソーダを入れ

ておくとすぐアワがでて、いかにも熱いようにみえるのである。心臓や、胃な

どの不随意筋を動かすのは、その部分に意識を集中して、うまずたゆまず動

かす練習をするのである。もちろん、はじめはうまくいかないから、基礎的な

呼吸法をみっちり練習し、同時に精神統一の訓練をする。呼吸とこころと身体

各部との相互関係については後に述べることにするが、とにかくこうして目的

とする箇所に向かって、精神統一と呼吸とを合わせて、毎日繰り返している

と、でも、ついには自分の意志に従うようにまでなってしまうのだ。これより

も、もっと身近な、たとえば人間が随意筋を使って歩くという例を考えてみよ

う。私たちが生まれたばかりのときは、足の筋肉も不随意筋だったはずだ。そ

れが毎日、たったりころんだりして失敗を繰り返しているうちに、だんだんと筋

肉が意志に従うようになる。ようするにどんな行動も訓練の結果できるように

なるのである。武道忍術の達人、サーカスの妙手も、同じように訓練の結果

あそこまで達したことを考えてみるとよい。さて、皆さんはこれからの例から、

心や体を丈夫にするいくつかのヒントを得られなかっただろうか。丈夫になる

か弱くなるかは、ことごとくそうなるべき理由に従ったまでのことで、その理由

すなわち訓練によって身についた働きである。訓練の仕方には法則がある。

それは、ひとつの願いを育てようとする持続的努力であり、誤りのない階段を

ふんでいく積極的くふうである。この意味で体の訓練の原則は、心の訓練の

原則と何ら変わるところがない。すなわち使わないと退化し、誤った使い方を

するとこわれ、適当に使うと発達する。これは生存するすべてのものに共通

する法則であり、自分の望ましいと思うことを強く強く心に描いて、これに達し

ようと知的および行的な努力を繰り返すならば、どんな目的にでも達すること

ができる。もちろん限界点はあるけれども……。このように書いたら、ヨガの

説くところがはっきり理解できたのではないかと思う。『練習せよ・実行せよ・

反復せよ・ただし無理せずむだなく』このようにヨガの態度は実行することに

重点がおかれている。自転車に乗ったことがない人は、決して自転車を乗り

こなすことはできない。ここでは、ことばによる説明や理論の遊戯はまったく

役にたたないのだ。それはすべてのことに通ずる概念である。軽い重いの差

はあれ、私たちの日常生活のほとんどの言動は訓練から出発している。 

 

自分をあやつるものは身についた習慣

知的、行的訓練のみが、人間の能力、価値を決定するというのがヨガの真意

である。人間は、教育および訓練によって形作られていくものである。教育と

か訓練とかいうものは、練習によって望むところのものを自分の働きとするこ

とで、これが第二の天性である。いいかえれば、身についた働き(習慣とか条

件反射癖という)だけが自分のなしうることであり、これが無意識に自分をあ

やつっているものである。たとえば、悪い癖が身についていると、本来健康を

保つようにできている体力を、不健康を作りだす方に使うことになるし、誤解

や迷信や消極性が身についてくると、心力を迷いの方に使ってしまうことにな

る。しかも習慣性は無意識化しているから、なかなか気づきにくいし、たとえ

気づいても、意識のしめる力は約5パーセントぐらいにすぎないから(心理学

者、生理学者の発表によると、私たちの生活を支配しているのは95パーセン

ト無意識の働きによるそうだ)意志の力だけでは改めにくいのである。このよ

うに自分をあやっているものは、長い間の練習によって身についた習慣の働

きであるから、自己改造(救われる)のためには悪い癖が正しい習慣におき

かえられるまで、そのことを繰り返し練習する以外にないのである。

 

ヨガは実行する哲学である

何事であっても、インスタント式や、たなからぼたもち式を求めているのが古

来からの人間性のようである。その証拠に、速効式のものや、自分の努力の

いらないものをより良いもののように考えている人が多い。病気にしたところ

で、悪条件を是正することなく、一時的に薬で病菌の働きを止まらせ、それで

健康になったかのような気持ちでいる人が多い。ヨガでは自己以外のものに

責任をみたり、自分を救うものが他にあると思っていることを迷信としている。

他物からの補助や保護で生きている人間には、無意識に他物への依頼心が

働いており、この心のスキに入り込むのが迷信で、宗教の名のもとに神のこ

とばを使い、学問の名のもとに科学的用語を使い、大家や・理論や・教主や・

教義がその力を代弁するかのように思い込ませて、それに頼らせようとする

ものさえ多いが、このような自主自立心の喪失に、はたして真実の救いや病

気をなおす力があるのだろうか。ヨガの道は、自分の努力で自分を救い高め

る道で、多くのヨガの先輩たちが、さまざまな自己陶治法を体得した道は、総

計57にものぼっている。わかりやすくいうと、日本にも、茶道・華道・武道な

どとあるようなもので、ヨガの道は人間活動のすべてにわたって、共通する生

き方のコツを見いだすことで、どの道を通ろうとも目標はひとつである。体験

をとおして真理を体得することをたてまえとしているヨガは、自分が実行して

体得することがすなわち教典であるといってもよく、そのゴールは『解脱』する

ことである。    

正しい姿勢は健康の泉

姿勢と動作

生きているということは、体が内と外の刺激に適応して、バランスを維持して

いることである。心身機械である私たちは、感じて動くことにより、また感じて

考えることによってこの適応の働きを行なっている。低級な動物の適応は自

動的に行なわれており、植物の場合は完全に環境の支配のままである。人

間の場合は、環境を変えたり避けたりして、環境に抵抗して自発的に適応す

ることによってその生を保っている。このことは、非常に発達した神経組織を

身につけているということである。いっさいの生物が環境の変化に適応しや

すい新しい形を自動的にとるように、人間の形も次第に変化してきた。大昔に

は人間の祖先もサルのように四つんばいが主な歩き方で、今日のような姿勢

をとるまでには、ずいぶん長い時間をかけている。人間の頭が他の動物に比

べて特別に発達した第一の理由は、二本足で立てるようになって、手の使用

が自由になり、脳への血行がやくなったことにあるといわれている。この二本

足で立って生活できるようになった理由は、まず第一に足の第一指(親指)、

ついでその立ち姿勢を保つために骨盤と脊柱が発達したためである。つまり

これが強く正しく発達しているということが正しい姿勢を保つ上にたいせつな

ことなのだ。正しい姿勢だと、正しい動きすなわち正しい適応ができ、悪い姿

勢だと、動作すなわち適応の仕方も異状になる。生命の働きは、無意識であ

り、自動的なものであり、内部の働きの状態の正否は、そのまま形・動作・感

じ方・考え方として現れている。健康(正しい生理的心理的な働きの状態)な

らば、自然に正しい姿勢ろうとか、不正な姿勢をとろうとか意識することによっ

て、正常姿勢や異常姿勢が自由にとれるものではない。正常姿勢とは、力が

全身に平等に分配されていて、部分的に特別な無理をかけるところがなく、

全体の力が姿勢のバランスを維持する中心部(丹田)に統一されていて、動く

ときは全身がひとつとなって働いている状態である。すなわち、全体が最上に

協力し合っている姿勢で、この正姿勢のときには、どこにも無理をかけないか

ら、各器官が最も働きやすい状態に安定していて、他の動きや刺激にたいし

てもすぐに変化適応できる自由性が高いのである。この反対に異常姿勢とい

うものは、重心が前後左右上下のどちらかにかたよりすぎていて、そのバラ

ンスをとるために、どこかの部分に余分に力が入りすぎたり、抜けたりしてい

ることである異常状姿勢では、ただ立っているだけでも、疲れや部分的な異

常を感ずる。それは力は分裂しているほど弱く、エネルギーがむだに消耗さ

れている。異常姿勢の場合は、無理のかかっている部分に異常が生じ、その

働きも低下し、位置異常を起こしやすく、うっ血や貧血状態になるので、筋肉

が凝りすぎたり、たるみすぎたりする。神経やホルモン分泌の働きもまた変調

してくるから、異常姿勢で動作をつづけると、疲れやすいだけでなく力もだせ

ないし、この無理をつづけると疲れの蓄積で病の原因を作ることになる。この

異常姿勢のときは、抵抗力も適応力も低いから、正姿勢のときには平気なシ

ョックでも、有害刺激となる。古来『物事を行なうには正しい姿勢で』とか、『道

は正姿勢のなかにあり』とか教えているゆえんがこの貂にるのだ。体には、

同一のことをつづけていると癖がつく(固定する)という性格があり、もし異常

姿勢をつづけていると、異常姿勢が身についてそれが無意識の働きにまで

変わってしまう。そして、その悪癖に支配されなくてはならないことになり、正

姿勢を保つことが難しくなってしまう。こういう状態で体を使うと、無理でない

ようなことが無理になり、慢性疲労や慢性衰弱の悪条件の持ち主になる。ま

たちょっとした悪い刺激を受けるようなことがあるとストップ信号がかかって疲

労感を感ずるし、この異状条件が固着潜在してくると、その刺激で無意識な

興奮がつづき、休んでもくつろげなくなる。そしてその証拠にエネルギーのむ

だな消耗をすることになり、休息しても疲れを感じ、心もまた終始落ち着かな

くなる。この種の人を半病人といい、人間のほとんどがかかっている病気であ

る。この種の人は、一見、なんともなく見え、医者にみてもらっても、「なんとも

ないですよ」とか、「気のせいですよ」とかいわれる。事実、科学的検査でなに

も異常が現れない。しかし、本人にとっては、とにかくなんだかぐわいが悪く、

気分も悪いのだし、いつ爆発するかわからない爆弾を持ち歩いているような

ものである。なんだかぐあいが悪い・気分がさえない・生きるのがおもしろくな

い・すぐ疲れる・寝ても疲れがとれない・食べてもまずい・などは、異状が固定

しかかっていることである。もし、固定して体質化すると、それが慢性病や持

病の原因となり、いつも同一の異常を起こしやすい。また、いったん異常を起

こしたりしたなら治りにくくなってしまう。ガンでも、血圧異常でも、とにかく人

命をうばってしまうほどの重病は、慢性病の高度化したものであって、特殊な

は例として、突発的に発病するものではない。だから、発病してから救うこと

の研究より、それ以前に発見してその条件を取りのぞくことの研究が、ほんと

うにその人を救うことになるのだと思う。この意味でヨガは、人間のその要望

に答えうる尊いものであると確信する。なぜならば、慢性病は体質異常であ

り、体質は生活そのものを変えないと変わらないものであるからだ。

 

姿勢はどのようにして保たれるか

姿勢は、筋肉(軟組織)と骨格(硬組織)の協力によって保たれており、無意

識(自動的)に姿勢を保つ働きが内で働いている。この力は緊張と弛緩のバ

ランスを保力で、そのどちらに傾きすぎても、私たちは正常な姿勢を保つこと

ができない。筋肉は縮む筋肉(緊張する筋肉)と伸びる筋肉(弛緩する筋肉)

のふたつからなっており、この二者が骨の位置を保ったりバランスを維持した

りして姿勢の正常性を維持している。私たちは、いろいろな形の姿勢や動作

をするわけだが、そのときには、その形や動きのときにでも、全身を統一して

バランスを維持している部位が丹田である。私たちは、なす物事の違いによ

って、いろいろな形や動きをするが、なにをする場合でも、それをするに適し

た最上の姿勢があり、その姿勢にならないと、呼吸がそのなすことに合わな

い。つまり、物を運ぶ場合には、疲れずにしかも長く運べる。ボールを打つた

めには、最上に打てるための姿勢があるのだ。この正姿勢のときには、どこ

にも無理がかかっていないから力が分裂しないし、全身がそのことに協力す

るから、フアィトもでるし、スタミナもつづくのだ。このように、そのことをなすの

に最も合理的な姿勢や呼吸や心構えが身についたことを、『コツ』をつかんだ

という。コツすなわち『道(正しさ)』で、ヨガは生活全般にわたってのコツを把

握し、それを身につけることをその修業目的とするものである。このコツは説

明してもわかるものではなく、自分で体得自悟していくよりほかに方法がな

い。ヨガでは、適応性の高いことがすなわち調和性の高いことで、この調和維

持能力の高い状態を、体の面では健康、心の面では悟りといっている。苦し

みは、適応性が低いかまたはあやまった適応の仕方が身についている場合

に生じるものである。

目次へ

姿勢は癖ずく

私たちの体を、サルと比べてみたとき、生理的本能はよく似ていても、骨格の

形と筋肉の発達の仕方の違いに気づかれることだろう。人間生活をまっとう

するには、人間的な姿勢が身についていなくてはならないが、姿勢もまた訓

練によって形作られていくものであることをご承知だろうか。人間の背骨の特

徴は、S字型で、このS字型のバネによって、体重に平等に配分することがで

き、また同時に歩行による脳への衝撃を緩和することができる。しかし、上手

な体の使い方をしないと、この正常型が狂ってしまい、しかも、この背骨から

神経がでているので、その働きまで変調させてしまう。姿勢が悪いと体をこわ

すといわれるのはこのためだ。姿勢がどのように変化してきたかは、幼児期

からの姿勢の変化をみてもうなずける。赤ん坊時代の背骨は、ゴリラのよう

に弓型をしていて、歩き始めの頃の体重の支点は主として臀筋と内臓である

が、倒れまいと背中の筋肉に力を入れている。そうした努力をつづけている

間に、その重みによって背骨はまがってくる。人間としての正常なまがりは、

このように成長とともに次第にできあがってきて思春期にいたり、はじめて固

定化される。成長した私たちは、楽に立ち、自由に歩行できるが、幼児の歩き

始めは、倒れては立ち、倒れては立ちの努力の連続である。人類の初期も、

立って歩けるようになる迄には、長年の苦労を要したと考えられる。立つ努力

を繰り返している間に、全身の筋肉の働きが統一され、そのように訓練づけ

られて、無意識に保持できるようになったのだ。なにをする場合でも、最初は

筋肉がバラバラに働いており、そのことを成し遂げることは難しいが、繰り返

し努力を重ねているうちに、いつのまにか全身の神経や筋肉が協力して、そ

のことを成し遂げることができるようになる。ここで気をつけなければならない

ことは、なにごとでも正しい姿勢で練習しなければ、ゆがんだ姿勢が身につく

ということである。いったん、歪みや偏りが身につくと、異常なことしかできな

い筋肉が発達し、何をしても旨くいかない体となる。姿勢はその人の努力によ

って作られていくものであるから、とくに幼児期の扱い方には気をつけなけれ

ばならない。よく、無理に幼児を歩かせようとしているのを見かけるが、幼児

の自発性と、その発育状態に合わせなければ、姿勢の歪みを作ることになり

かねない。また、大人になってからでも、偏った同じ動作を長くつづけるとか、

分業などにより、体の一部分だけを適度に使用したりすると、異常な姿勢が

出来上がるから注意しなければならない。人間の姿勢が作られていくもので

あることは、各人の身についた異常型ででも納得されることと思う。インドで、

オオカミに育てられた子供二人が発見されたことがあったが、背骨が長年の

四つんばい生活に適応して、サル同様の弓型になっており、人間並みに歩行

できなかったそうである。 

姿勢は自分で作るもの

私は、姿勢が作られていくものであること、異常型が身につくと、その保護の

ために異常動作をしなければならず、その無理が病気の原因を作ると前述し

た。しかし姿勢を保つのは内の働きであり、その内の働きが正しい働き方をし

ていないと、常時正姿勢を保つことはできないのだ。正しい働き方をさせるに

は、それを成し得るような姿勢の条件が身についていなければならない。つ

まり、正姿勢が内の正しい働きをうながすし内の正しい働きが正姿勢を保た

しめるのである。いったん、異状姿勢が身につくと、正常姿勢を意識的に保つ

ことが苦しくなり、無意識(生活の95パーセントがそうだが)のときはいつも異

常型で動作していることになる。だからいつも体に無理をかけて、壊れる方向

へと誤った生活をしていることになる。皆さんは、近ごろの医学が、骨も筋肉

も皮膚も内臓と同じ働きをするということに気づいていることを、ご承知であろ

う。たとえば、骨は増血の働きを、筋肉は糖代謝をしている。筋肉の伸縮力は

そのまま内臓や血管の働きを左右しているし、皮膚への刺激は、神経の働き

に影響を与えるなどである。私は、骨はホルモンを作るのにも一役買ってい

るのではないかと思っている。それは、姿勢を正して、背骨の状態を正しくす

ると、神経だけでなく、ホルモンの働きもまたノーマルになるからである。ヨガ

の先輩者たちは、こういう詳しいことは知らなかったが、姿勢の正否がそのま

ま心身の働きの正否に影響すると気づいて、正姿勢の工夫を凝らしたのであ

った。私は、人間が状態のときに、苦しみが与えられるものであり、苦しみ

は、宇宙が人間に対する人間性(人間としての特徴)の維持および回復要求

の指示であると考える。たとえば人間には、考えるという知性が与えられてい

るが、この知性が低くて、自分のコントロールができないときとか、情緒が低く

て他との調和ができないときに与えられるのが悩みであり、また異常な姿勢・

食欲・呼吸の状態が身についているときに起こるのが病気であると思う。この

意味において、病気や悩みを正しく活用するとき、誤った人間性喪失状態か

ら、正常な人間生活への回復に進むことができるのだ。正しい姿勢を保ち、

正しい動作をするくふうは、何も健康だけのものではない。人間が人間になり

うるゆえんでもあるのだ。私は、ヨガ行法とは、人間を作り、人間になるくふう

であると思う。

 

人間の基本的姿勢

足について

人間の立てた第一の条件は、足の第一指(親指)がとくに発達したことにあ

る。このことは人間とサルの足を比べてみるとよくわかる。第一指がよく発達

していると、第二指との間がピッタリくっついていて、両指の裏に力が入る。先

輩たちはこの事実に気づいて、足の第一指の訓練に主眼をおいた。ヨガの足

の訓練法には、片足立ち、縄跳び、鉄げたばき、一本足のげた、板や砂の上

を走る。綱渡りなどがあるが、これは主として、足の第一指の発達をその目

的としている。正しい人間の立ち姿勢は、上体からの重みがちょうど土踏ま

ずに一直線に下垂することであるが、第一指が発達すると、アキレス腱も発

達して、この土踏まずに上体をささえる力の統一ができるようになるのだ。足

が丈夫ということは、この土踏まずがよく発達していることで、土踏まずのな

い者、アキレス腱の縮んでいる者は持久力も体力も弱いということをご存じで

あろう。サルの立ち姿勢は前屈型で第五指(小指)側に力が入っていて、体

重をささえる上体からの下垂線が一直線に統一されていない不安定な立ち

姿勢である。ときどきアゴを前に出し、第五指とカカトに力のかかった前屈姿

勢の人を見かけるが、これはサルへ後退した姿である。この型では、動物性

発揮の好刺激になるかもしれないが、人間的生活と、その知性を高めること

は難しい。その証拠に、本能的欲望や、動物的感情に支配されているときの

姿勢は、必ず、このサル型姿勢である。足が弱かったり、異常があったりする

と、上体の支持が異常になり、姿勢を保つ基盤となっている腰に狂いが生じ

る。正しい足は、歩行と姿勢を保つためだけに重要なのではない。足は血液

の循環にも大きな役割をもっている。死んで早く冷たくなるのは足で、元気な

者の足は暖かい。心身の強い者足には力があり、弱い者の足には力がな

い。意志の強固な足には力が入っている。ノイローゼを治すには、まず足の

強化からというのもこのためだ。足の弱い人は足首の関節が開いていて、う

っ血しやすくむくみやすいので、冷えたり・ほてったり・水虫になりやすいし、

また血液の循環が悪くなるので、心臓に無理をかけることになる。動脈硬化

が一番先に現れるのも足である。足を使わずにいると、だんだん心臓が弱く

なることや、病人になるほど足がむくんだり、冷えたり・硬化したりすることは

ご存じであろう。第一指の力と腰の力の強弱は正比例し、腰の力と内臓の働

きや、血行の強弱正否とは正比例するから、足に異常があると、内臓や血行

の働きもまた低下することになる。このことは、足の運動不足が心臓だけでな

く、胃腸その他全臓器の働きを弱めることや、足の血行が悪いとのぼせたり、

必尿器の働きを弱めたり、体のいろいろな部分にうっ血による炎症を起こさ

せたりすることからでもわかる。足の手当てや強化法をしたら、コレラの異常

が治った体験をおもちの人も多いことと思う。足も臓器であると同時に、心で

もあることに気づいていただきたい。また、体重が両足の土踏まずに正しく統

一されていないと、いろいろな異常型ができて、その異常に支配されなくては

ならないことになる。体重が前にかかりすぎる、腰が異常後屈になって、骨盤

や臓器に異常を生じる。ハイヒールの害(子宮後屈になる)がこれだ。体重が

カカトにかかりすぎると、腹部の力も抜けた前屈になり(疲労体型という)、こ

の姿勢で体重を第五指でささえると、腰の力も抜けて、胸から上のちからの

抜けない興奮型や老人型の前屈になる。左右どちらかの足に体重がかかり

すぎるときは、姿勢がどちらかに傾き、いつも一方的な部分を圧迫することに

なる。体重を一方のカカトでささえ、他方の足では足先で斜めにささえている

と、上体がねじれてそのために背骨の位置が狂い、障害を起こすことになり、

この人が痔や月経痛を起こしやすい。足に力がないと、上半身に力を入れな

くてはならないので、慢性的にくつろげない姿勢にもなるわけだ。このように、

第一指とカカトの力が均衛して、両足の土踏まずが正しく体重を支持していな

いと、ただちに異常を作る。重心の位置が全身のバランス維持の中心点であ

る丹田からはずれるため、そのバランスを保とうと余分な努力をしなければな

らないことになるわけだ。自分で自動的にバランスを保つ能力のない物体な

らば、異状姿勢になると同時に、倒れてしまうか、その働きを停止してしまう

のだが、生体には、バランス維持の働きが自動的に働いており、異常姿勢に

なってもそのバランスを保ち、このバランスが続くと異常型が固定する。正姿

勢は、その反射の仕方も適応の仕方も、自然すなわち正常であるが、異常体

になると、その感覚や適応の仕方もまた異常になる。たとえば、神経の一部

は背骨を通って内臓にいっており、その働きが失調すると内臓の働きもまた

異常になる。この異常がまた、姿勢を狂わすという悪循環を繰り返すことにな

り、ここに慢性的異常条件の体質が出来上がるわけだ。それだけでなく、この

異常姿勢を保護するために、余分のエネルギーを消耗しなくてはならないの

で、慢性疲労が続くのだ。

 

腰腹部について

人間の腰は、その姿勢を保つために特別に発達している。腰腹部には、全身

的な緊張や弛緩のバランスをとる統一部があり、その部を丹田と名付けてい

るが、丹田とは生理的な名称ではなく、生あるものだけにあって、死者にはな

い。私たちが、いろいろな動作や姿勢をとるときには、その形を保ち、その動

作の可能なために必要な部分の筋肉が緊張したり、ゆるんだりしているが、

丹田だけは、どんな形や動きの場合でも全身的なバランスをとる中心点が丹

田であり、丹田力の強弱で正しい姿勢が保たれたり、崩れたりするということ

に気づかれることであろう。各訓練の目的が、この丹田の全身的統一力を強

化することにあるといってもよい。皆さんは座禅を知っていることと思う。これ

は呼吸を整えて、無心に『中心』すなわち『丹田』に力を集約する修業法であ

る。丹田に力が集約されると、心身の働きはバランスがとれて平静になるの

だ。平静になればなるほど、調和維持の力は強く、そこから悟りとか、心我一

体の境地とかの素地が生まれる。丹田に力を集約する方法は、何も座禅だ

けではない。武道も踊りも、茶道も、みなこの中心点なる丹田に無意識的に

力を統一できることをその要点としている。丹田力とは腹圧力のことで、その

強弱は腰腹部の力の強弱に比例している。生きている働きは、緊張力と弛緩

力とのバランスであるが、このバランスを保っている力が腰腹力であるから、

この部に力が入らないと動作が鈍くなり、この部の力が抜けないとくつろげな

いのである。丹田力の強弱は、腰椎骨の伸び・ 骨の収縮拡張力の強弱・腹

筋の弾力・肛門の収縮力として現れているが、このことをもう少し詳しく述べ

てみよう。体重を保持しているのは足であるが、姿勢を保持しているのは腰

腹臀部の力であり、姿勢の平衡を保っているのが脳である。臀部にある仙骨

は骨盤のふたつの骨― 腸骨といって尻を形作っている―と関節で結ばれて

上体の全重量をささえている強くて丈夫なもので、強力な靭帯がそれを固定

している。しかし、急に無理をかけたり、臀部の力の抜けるような悪姿勢を続

けていると、靭帯のささえも関節もゆるむので、腰椎に無理がかかって狂いを

起こしやすくなる。この臀部の力を強めるものが、足の第一指と首の力で、そ

の強弱が肛門の収縮力として現れている。仙骨の靭帯の強いほど、肛門が

斜め後方に向いており、いわゆるヒップが締まって後に出ているのである(立

ち姿勢のとき)。この正しいヒップ型の人は、性能力も高く、多産系でもある。

(男は25度、女は30度の角度)。私たちは動作のとき上体を前後屈・左右の

ねじりと傾き・上下といろいろなポーズをとるが、それぞれのポーズによって、

腰椎骨の支持部の役割が異なっている。たとえば、前後屈の場合には一番

目と五番目の関節が中心となっている。この部は一番故障を起こしやすく、

異常が固定すると、食や性の不感症・内臓の下垂などを起こしやすい。左右

に体を傾けるときには、二番目の関節が中心となっている(字を書いたり、片

手で物を運ぶとき異常を起こしやすい)。この部の異常が固定すると排泄能

力が鈍り、手足が伸びにくい。ねじるときの中心関節は三番目の骨だが(椅

子にかけているときや、動作するとき異常を起こしやすい)、この部に異常が

固定すると、必尿器に異常を起こしやすく、腰が抜けたとか、痛くて寝返りも

できないというときがこの部の異常である。腰椎骨のうちで上体の重みをささ

えているのが三番目の関節、下体を調節しているのが二番目の関節で、四

番目の関節がこの二、三の伝令を受けて骨盤と肋骨の緊張弛緩のバランス

をとっている。ハラのできているという人は、三番目の関節の働きが正しい。

四番目の関節(座った姿勢や物を持ち上げるとき異常が起こりやすい)がよく

働かないと、流産・下痢・肥満になりやすく、ヒザやヒジに力が入りにくい。五

番目の関節も全動作に協力するので、異常を起こしやすい。この部に異常が

起こると、動作が鈍くなり、排尿異常や毛髪異常を起こす。姿勢保持部の腰

椎関節が位置異常を起こすと、それを保護するためと、バランスをとるため

に、上体にも下体にも歪みが生じてくる。たとえば、左右にかたよると、腰椎

一番と五番、胸椎・三・二番、頚椎五番と一番、左右どちらかにねじれると、

腰椎に三番、胸椎十一・七・三番、頚椎六番と二番に異常が生じてくるのだ。

腰椎骨は、姿勢を保持するだけでなく、腹部臓器および足への神経が出てお

り、とくに内臓およびその血行の働きを高める作用があるから、内臓の下垂と

か弛緩能力の失調などが腰椎の正常化で治る。腹部は整理作用の中心で、

その正否は、腹筋の弾力性・進展性および圧力の強弱として現れており、腹

圧の高いほど呼吸も完全で、安定度も高い。物事をなす場合にこの高い圧

力でなすことを、いわゆる『はら』でなすという。同一刺激でも、低い腹圧で受

ければ害になり、高い腹圧で受けるほど適応の仕方が正しく行なわれてい

る。姿勢の正否はヘソの位置、各腹筋の力の有無によって判別できる。つま

り、ヘソの位置が中心からはずれていれば、体は左右どちらかにねじれてい

るか、偏っているかなのだ。正しい腹力は、みぞおちが軟らかく下腹部に力が

あり、ヘソの部分がその中間の力ということになるが、異常姿勢のときには、

この力の有無に違いが起こってくる。みぞおちの柔軟は首に、下腹部の強弱

は足と腰の力の強弱に、ヘソの部分は内臓の位置と力に、側腹部は手の力

の強弱や異常の有無に関係してくる。みぞおちは、脳・背中・腰からの神経の

集合所であり、気分も悪いのである。腹部は第二の心臓と考えてもよく、力が

弱ければ正姿勢を保てないだけでなく、血行や内臓の働きや位置の異常を

起こす。手で押さえてみて、硬いしこりや、痛いところがあれば異常を起こし

ている証拠である。

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