意識とは何だろうか

意識 環境という外部装置

そもそも記憶というとは何なのでしょう。そして我々の中のどこに存在するのでしょう

か。すべての記憶は、脳内のどこかに完全な痕跡として残っている。思い出せないの

は、うまく引き出せないだけ。これは現在かなりの人々が、根拠もなく何となく信じてい

る考え方でしょう。この考え方には、案外由緒正しい由来があります。この「完全な痕

跡」説のもっとも有力な根拠は、ノーベル賞を受けたW.ペンフィールドの、有名な

電気刺激実験でしょう。聞いた事のある方も多いでしょうが、彼はてんかん患

者の手術前の検査の一環として、患者の大脳皮質のさまざまな場所に微小電極

を刺し、刺激を与えてみました。すると側頭葉、特に耳の真上にあたる部分を

刺激したとき、記憶の「フラッシュバック」が起きました。つまり回想シーンが

ありありと再現されたのです。その内容は、幼い自分を呼ぶ母親の声だった

り、老人の歌う讃美歌だったり、電話で話す母親と叔母の声だったりさまざま

で、刺激場所をずらしていくと、内容も刻々と変わっていきました。神経活動

が残した回路の痕跡は永遠に消えるものではなく、電気刺激によって「テープレ

コーダーのように」細部まで正確に再現されると、ペンフィールドは考えまし

た。もともと、知覚や運動の経験によって、神経系内の特定のニューロンを結

ぶ回路が一時的に活性化され、それがそのまま活性化されやすい状態となって

後まで残る。これが記憶だという考え方が背景にあり、刺激すればまた同じ回

路が活性化されると考えのです。しかし記憶は本当に脳の一箇所だけに局在す

るのでしょうか。その後の研究によって、この考え方はあまり適切でないこと

がだんだんわかってきました。ペンフィールドの調べた千人以上の患者のう

ち、記憶のフラッシュバックを報告したのはわずかに数パーセントに過ぎませ

んでした。この点を別としても、記憶のフラッシュバックの様子は「テープレコ

ーダー」とずいぶん様子が違ったのです。たとえば「電話で話す二人の声を同時

に聞いている」などというように、実際にはありえないような内容が含まれてい

ました。また、何よりも決定的だったのは、同じ脳内部位を再度刺激してみる

と、前とはまた苦違う記憶内容が報告されることのほうが多かったことです。

ぺンフィールドの最初の考えに従えば、刺激されている特定のニューロン()

過去の特定の出来事の記憶だけを担っているはずですから、こんなことは起こ

りえない。そうではなくて、脳内のほかの部位でどのような精神活動がなされ

ているかによって、というより、単に「周囲の状況いかんで」といったほうがわ

かりやすいでしょうが、同じニューロンを刺激しても、想起された(と感じられ

)出来事は違うのです。極端な例では、刺激の直前にたまたま思い浮かんでい

た内容と同じ事象が想起されたという報告さえもありました。個々のニューロ

ンは個々の出来事の貯蔵庫ではないのです。もちろんサルを使った実験で、側

頭葉の特定のニューロンが特定のもの(あるいは特徴)を記憶しているという研究

もあるにはありますが、それだって特定の課題と同じ条件下で訓練した結果で

あり、訓練前田足り、課題が違ったり、周囲の状況が違ったりすれば、同じニ

ューロンがどんな選択性を示し、どんな役割を果たすのかは、簡単には予測で

きません。「記憶は嘘をつく」という本の著者J.コートルは、この考え方に沿っ

て次のように主張しています。「記憶は一見、過去の正確な記録のように見える

が、実はそうではない。むしろその都度の状況に応じて、新たに構成されるも

のなのだ」これはエリザベス・ロフタスがかって唱えた、記憶の「能動的な再構成

説」とも一致するものです。潜在記憶という、本人が自覚しない記憶が存在する

こと自体は彼らも否定しないのですが、それは「鍵のかかった引き出しに完全な

コピーがしまってある」といったような状態とは、決定的に違うのです。

祖父の白い手袋

コートルの「記憶は嘘をつく」の原題は、「白い手袋」といいます。著者コートル自身の

自伝的記憶の思い出に基づいてつけられた題名です。コートルの脳裏には「祖父の

屋根裏部屋の隅で、何本かのクラリネットに覆いかぶさるようにして置かれていた手

袋」が、今でもありありと思い浮かぶといいます。ところが、実際には彼はその手袋を

見た事がありません。それどころか、コートルは、祖父に実際にあったことすらなかっ

たのです。ではどうして手袋のことが記憶に残ったのでしょうか。それは、ずっと以前

に父親が人生について語ったのをテープに録音したことがあり、それを十年ほど前に

あらためて聞いてみたところ、祖父の手袋について語っている部分が、妙に印象深く

残ったからだといいます。その白い手袋とは、軍楽隊のクラリネット奏者であった祖父

が、家族を養うために音楽家への道を断念してレンガ作りの職人になったときに、軍

楽隊の制服と一緒に捨て置かれたものだということです。さて、この手袋の記憶は、

いったいどこにあるのか、とコートルは問いかけます。もちろん彼の頭の中に、と人は

答えるでしょうが、それだけでは尽きません。もともと父の記憶の中にあったからこそ

彼にも伝わったのであり、したがって父の頭にもあったことになる。またテープに記録

しておいたからこそ、彼が聞き、印象にとどめることもできたわけで、だからテープの

中にもあるともいえる。またコートルはこの話をあちこちの講演でしているので、それ

は聴衆の心の中にあるともいえる。それから(ここから先はコートル自身は言って

いませんが)、祖母に会ったり、クラリネットを見たりするたびに祖父の白い手

袋を思い出すとすれば、祖母やクラリネットは「白い手袋」の記憶装置の一部、

それも強力で不可欠な一部だ、といえないこともない。このように、手袋の記

憶は頭の中の一部に「痕跡」として孤立して存在するものではなく、周囲の環

境、本人の経歴、その他あらゆるものにもたれかかるかたちで、成り立ってい

るのです。それどころか、むしろこの「もたれかかる」ありようそのものが、記

憶の唯一可能なあり方なのです。何かのコンテンツ(内容)があって、それが環境

や経歴にもたれかかるのではなく、もたれかかりそのものが、記憶のコンテン

ツなのです。百歩譲って仮に記憶の「痕跡」があるとしても、それがそもそも「何

の」記憶であるのか、本人にとってどのようなエモ−ショナルな意味を持つの

か、そうしたことを理解しようとすると、いま列挙したさまざまな事柄を理解

し尽くさなくてはならない。記憶とは本来そういうもののようです。もちろん

この「白い手袋」はもともとかなり特殊なケースで、実は「彼の脳裏にありありと

浮かんだ」白い手袋は、実体験ですらありません。父のインタビュー・テープを

聞いて彼が想像した、その内容の記憶に過ぎないのです。はたしてこれを、本

来の意味での「記憶」と呼んでいいのか。実際に祖父の手袋が、屋根裏部屋でク

ラリネットにかぶせられるように置かれたことは、ただの一度もなかったかも

しれないのです。しかし、逆にこれを「記憶でない」として排除してしまうと、

ほんのわずかでも事実から歪んでいる記憶は、全部「記憶でない」ことになりか

ねません。けれども、そもそも事実の記憶とは、すべて、多かれ少なかれ歪ん

でいます。記憶とは本来そういうものではないでしょうか。高校時代を思い出

すには、卒業アルバムを見るのもいいですが、野球部のユニフォームや、古く

なったノートなどといったものを見るといい。これらは単に記憶の「検索手がか

り」に過ぎないとも言えます。けれども逆に、このような検索手がかりとのつな

がりをいっさい断ってしまった「高校時代の記憶」などというものはありえるの

でしょうか。仮にあっても、そういう思い出や連想のすべてから完全に切り離

された記憶は、本当に「私の」高校時代の記憶と呼べるものなのでしょうか。

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「記憶の容器」としてのからだ

以上は環境世界に充満する「記憶」ですが、記憶にはまだ身体も欠かすことができま

せん。幼児期の虐待や恐怖の原体験をよみがえらせようとするセラピストや臨床心理

学者は、記憶はからだに宿る、からだは「記憶の容器」だといいます。幼児期の体験

をよみがえらせるには、古いモノ(たとえばぬいぐるみ)にふれ、懐かしい香り(母親

の体臭、物置のかび臭い匂い)を嗅ぎ、慣れ親しんだ音(裏を流れる小川のせせら

)を聞くのがよい。身を屈めて幼児と同じ目線の高さで風景をながめるとよ

い。また、当時と同じ身振りやからだの動きをしてみると、さまざまなことが

溢れるようによみがえってくる(三輪車に乗ってみる、当時愛用したハーモニカ

を吹いてみる、など)。このように、脳ばかりではなくからだも、記憶と想起の

必要条件となるのです。生理心理学に「状況依存性記憶」という用語がありま

す。語感から想像すると、特定の場所に行ったり、特定の人に会ったりすると

決まって(そのときだけ)何かを思い出すことだ、と思うでしょう。これも必ずし

も誤りではありませんが、ここでいう「状況」とは身体の状況を主にさしていま

す。たとえばアルコール依存性やドラッグ依存性の記憶のことです。アルコー

ルが入ったときだけ、決まって特定の事象が思い浮かぶ。素面のときに思い出

そうとしても、どうしても思い出せない。そういう経験をした人は多いでしょ

う。逆に素面のときなら難なく思い出せることが、一杯飲んでしまうとどうし

ても思い出せなくなるということも、よくあります。動物実験でも、これに対

応する事実が示されています。こうした場合の薬物は、「記憶」にとって何なの

でしょうか。確かに、記憶が依存するからだの状態であり、広い意味の「状況」

、ひいては「環境」の重要な一部でもある。もちろん、脳内にも入り込んでシナ

プス(ニューロン同士の間の接合部分)の情報伝達を促進したり、妨げたり、ある

いはその必要条件を提供したり、そのような直接的なはたらきもする。結局、

この場合の薬物は、記憶を外側からサポートする何かなのではなくて、記憶と

いうそれ自体巨大な「文献」の内部にあるもの、記憶そのものの一部だというほ

うが適切だと思うのです。こうして、記憶にはそれを成り立たしめるさまざま

なものが必要なようです。というよりむしろ、「それを成り立たしめるさまざま

のもの」が実は記憶の本体であるらしい。こうなると、記憶は、そこらじゅうに

あまねく散らばって存在している。そう結論せざるを得なくなるようです。

 

脳の来歴

ところでこの主体と環境との「相互作用」という点をより深く理解するため、直接参考に

なる事例があります。前章でもふれましたが、環境の劇的変化に対する順応、適応、

学習などです。こうした例から、先に「常識」あるいは「暗黙知」と呼んだものが、より広

い身体的機能に根ざしているということがわかります。たとえば、前に述べた「さかさ

めがね」の順応実験は、そのいい例となります。視野の上下や左右を逆転するめが

ねを一週間あるいは数週間かけ続けることによって、行動のみならず知覚も適応し、

視野の方向が元通りになる。このような順応過程では、知覚━運動系の融通無碍の

可塑性によっても錯誤と正解の区別が入れ替わり、相対的となって宙に浮いてしまい

ます。この過程は、実は記憶とも密接な関係にあります、特に感覚━運動的記憶と。

しかし、記憶の問題に尽きているかというとそれだけでもない。世界が正立して知覚し

ているときと倒立しているとき、この感覚━運動的記憶のメカニズムは同じように働い

ています。これらは「錯誤」がむしろ環境の関数であるケースともいえるでしょう。今現

在の環境がどうであるかによって (この場合の環境とは特定のめがねをかけている

か否かを含むのですが)、ある知覚や行動が錯誤であるか否かが決まるからで

す。結局、錯誤と正解は入れ替わる。また、ある一つの状況をとっても、それ

を錯誤ということも出来るし、正常ということもできる。問題はそこから先、

脳と環境のかかわり方にあるようです。

 

過去と現在のずれ

環境が激変すれば、それまで適応的だった行動が不適応となる、つまりかって「正解」

だったはずのものが突然「錯誤」になってしまう。これは一般論として当たり前の話で、

動物の学習実験でもそういうケースがしばしばあります。たとえばハーロウによる「逆

転学習」はそのよい例です。典型的な逆転学習の実験では、まずサルに図形の弁別

を学習させます。たとえば丸(あるいは赤色)と四角(緑色)とを提示し、丸(赤色)の方

を選べば正答として報酬を与える。そういう手続きで繰り返し訓練するわけで

す。そして、サルがほぼ間違いなく答えられるようになった時点で、正答と誤

答の関係を入れ替えてしまいます。サルは大いに戸惑います。当然ですね、そ

れまで正解だったほうを選んでも、何ももらえず、誤答の合図のブザーがなっ

たりするのですから、けれども試行錯誤のあげく、新しい課題状況を理解し、

その後は難なく四角(緑色)を正解として選ぶようになります。この経過が前章で

あげたゴーグルの例、つまり色順応の例と似ていることはすぐにお分かりでし

ょう。それまで正解だった行動(知覚)が新しい環境では誤答の関係が逆転させた

場合、つまり元通り丸(赤色)を正解としたときにちょうど当てはまるのが、色残

効、つまりゴーグルをはずした直後の状態です。このとき、瞬間的に正答が誤

答になるわけです。この場合には残効(エラー)が少なく、比較的早く元の学習水

(色知覚)に戻れるという点でも、この両者はよく似ています。結局、動物も人

もみな過去を引きずっていて、この過去とそれについての学習・記憶があるから

こそ、正答も誤答もある。このことがポイントとなります。誤答、つまり錯誤

の方に的を絞っていうなら、こうもいえます。環境の変化や脳の機能の変化、

身体の変化などによって、脳・身体の過去と環境との間に齟齬(ずれ)が生じ場合

に錯誤が起こる。これは一見、脳の適応機能の限界を示すようですが、実は全

く逆です。というのも、そもそも脳・身体の適応経歴があったからこそ、つまり

はじめに適応していたからこそ、環境の変化によってずれも生じたはずだから

です。

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