人体ふしぎ発見

食欲どうたたかうか

昨今はグルメブームとやらで、テレビでもおいしい料理の作り方は高い視聴率

をとっていますし、雑誌、新聞でも料理法のコーナーは、きれいな盛りつけの

写真とともによく読まれるようです。これは衣食が一応足りて、人々がよりぜ

いたくなものを食べ、よりぜいたくな感じを持ちたくなったからだと思われま

す。一方、逆に「やせる本」もたいへんな数にのぼります。有名人の原料作戦は

すぐにニュースになりますし、テレビの奥様番組に出演して、減量開始前と後

の写真やビデオを見せて、いかにがんばったかを示しています。ところが食欲

と性欲は二大本能といわれるように、これを制限することはたいへん難しく、

多くの場合、失敗するのが常のようです。これはもともと、食欲と性欲が、私

たちが生物として生存し続けたきた最大の原動力であったからです。私たちの

生命は誰でも、三十五億年前の生命の起源とともに始まり、その後絶えること

なく続いてきた結果です。もし生命がアメーバから出発したとすれば、私たち

全員が、一度も死に絶えることなくアメーバから分裂、分化、進化を繰り返し

てきているからこそ、今日でも生きているのです。これだけの長い年月、絶え

ることなく続いてきたのは、生存する力(食欲など)と子孫をのこす力(生殖力)

が充分に強かった結果です。もし弱ければ、とっくの昔に人類は絶えていたで

しょう。人類がサルの子孫から進化したのが四百万年前で、最初はホモ・エレク

トスが出現し、二十万年前くらいに現人類のホモ・サピエンスが出現したとされ

ています。この間に多くのホモ種が出現しましたが、完全に消滅しています。

近くは五万年ほど前に絶滅したネアンタール人の例もあります。これにたいし

て、たとえばネアンタール人は言葉が使えなかったから、言葉が使える現人類

に滅ぼされたという説も出されていますが、これはどんなものでしょう。一つ

の種が絶滅するのは、別に闘いに敗れたからだけでなく、何か本質的にその種

が生存に適さず、子孫をつくりえなくなったという理由があるのではないかと

思われます。さて、このように私たち人類をこれまで支えてきた本能は、脳の

視床下部、辺縁系に中枢があります。まず食欲の中枢と、それにまつわる情報

について述べましょう。

 

ネコも拒食症になる

動物は本来、一定の体重を保つようにできています。そこで動物に強制的に過

剰な食べ物を取らせて肥満させた後、ほうっておくと、自分から食べ物の摂取

量を減らし、体重が減少してきます。そして、もとの体重に戻ると、また普通

の食餌量となります。一方、無理に絶食させると、その後は摂取量が増し、も

との体重に戻るとまた普通の摂取量になります。体の中の何かが、体がどの程

度太っているかを知っているかのようなのです。当然のことながら、食欲は空

腹感、満腹感に左右されます。空腹は呼んで字のごとく胃が空になったという

感じです。そして胃が空になると、胃に規則的な収縮、すなわち飢餓収縮が起

こり、これが空腹感をもたらすのです。しかし、胃を摘出した人でも空腹感が

起こるのですから、空腹は胃だけの問題ではないことがわかります。1951年に

アナンとブロベックはネコの視床下部の内側にある腹内側核を破壊すると、ネ

コは過食になり、また、その外側にある外側視床下部を破壊すると拒食症にな

ってやせ細ることを見出しましたさらに腹内側核を刺激すると、空腹で摂取中

でも、摂食をやめてしまうこと、他方、外側視床下部を刺激すると、動物は満

腹していても、さらに摂取を始めることがわかりました。そこで腹内側核を満

腹中枢、外側視床下部を摂食中枢と名付けました。ここで本能に重要な視床下

部についてふれておきます。視床下部は視床の下にあり、下垂体の上にあり、

多くの核(神経の集まり)があります。核は左右に分かれて分布していますが、真

中にあるのが室周核といわれるものです。その外側で、しかし全体からいえば

内側にあるのが腹内側核(満腹中枢)です。この外側に外側視床下部という核(

食中末)があります。

早食いはなぜ肥満のもとか

では空腹時、満腹時に、どのような情報がこれらの中枢に行くのでしょう。ま

ず第一は血中のブドウ糖、脂肪酸などの濃度で、次にインシュリン、グルカゴ

ン、副腎皮質刺激ホルモン(ACTH)などの濃度、もう一つは、食べ物をとったと

きの特異動的作用による体温の上昇などです。特異動的作用とは、食事をする

と消化液分泌、吸収、体内での物質の再合成などにエネルギーを用いるため、

熱が出ることをいいます。ここでいくつか、興味深いことを説明しましょう。

一つは、ブドウ当と反応する神経細胞が存在するため、ブドウ糖の濃度が高く

なると満腹中枢が刺激され、他方、摂食中枢は抑制されて、結果的には摂食が

止まるということです。一般に、食事をとると血中のブドウ糖が上昇してくる

ので、食事の量を調節するにはよい仕組みです。ブドウ糖はまた、体内の脂肪

細胞による脂肪の分解を抑制します。脂肪は分解すると脂肪酸になりますが、

脂肪酸は満腹中枢を抑制し、摂食中枢を刺激します。したがって、脂肪の分解

を抑えることは、空腹感を抑えることでもあるわけです。ところで私達が肥満

になるのは、体内の脂肪が増加するためです。この脂肪を減らすには脂肪を分

解しなくてはなりません。しかし分解産物である脂肪酸は強烈な摂食中枢刺激

剤で、満腹中枢抑制剤です。つまり強力な食欲促進物質なのです。このため、

肥満した人が減量しようと思っても、空腹感が強くなってなかなか減量が出来

ないようです。すぐ前にも述べましたように、ブドウ糖の濃度の上昇は満腹中

枢を刺激し、摂食中枢を抑制します。つまり満腹感をもたらします。そこで、

早食いなどといって食事を早くとる人は、たくさん食べても吸収に時間がかか

りますから、血中のブドウ糖の濃度が上昇してきません。つまり満腹感が得ら

れず、まだまだ食べたりないという気になるのです。そこでゆっくり食事をす

れば、食事をしているうちに血糖値が上昇してきて、満腹感をもたらします。

早食いは肥満のもとというのは、この理由のためです。

減量作戦が難しい理由

ここで、肥満についてみてみましょう。肥満した人は心臓血管疾患や糖尿病に

かかりやすく、死亡率も大です。全体重における脂肪の割合は男性では12~18

ーセント、女性では18~24パーセントですが、男性で20パーセント、女性は25

ーセントを超えると、肥満といわれます。人間は年とともに基礎代謝も下が

り、運動量も少なくなるので、食物摂取の量を減らさない限り肥満になるとい

うわけです。さて、一度体についた脂肪を取り除くのがどんなに大変かという

計算を、レーニンジャーという人がしています。まず1ポンド(450グラム)の脂肪

は大体3500キロカロリーに匹敵します。今28歳の人が25ポンド(12キログラム)

体重が増えたとしましょう。これは87500キロカロリーの食事を取りすぎたこ

とになります。これは一日150キロカロリーの過食を大体18ケ月続けた結果とい

うことになります。私たちの毎日の代謝量を2700キロカロリーくらいとする

と、毎日5.6パーセント過食したにすぎません。もし五年でこの体重増をみたと

しますと、毎日1.8パーセント余分に食事を取ったというにすぎません。そこで

25ポンド(12キログラム)を減らそうと思うと一日300キロカロリー少なくしても

83週、1200キロカロリー少なくしても21週かかるのです。脂肪分解が強い空腹

感をもたらすことも考えあわせると、減量が、いかに至難のことかよくわかる

と思います。

頼みの褐色脂肪細胞

ところで肥満の一つの原因に、褐色脂肪細胞という聞きなれない細胞の関与が

取りざたされています。この細胞は簡単に説明するのはちょっと難しいのです

が、第一にエネルギー源のATP産出の話をする必要があります。私達が呼吸を

するのは、ブドウ糖などを酸化して、二酸化炭素と水をつくるためです。この

とき酸化によって多量のエネルギーが出ますが、これを熱にしてしまわずに高

エネルギーリン酸化合物といわれるATP(アデノシン三リン酸)をつくり、の化合

物の中にエネルギーを貯えておくのです。この反応は細胞内のミトコンドリア

というところで起こります。ご存知のように水は二つの水素イオンと一つの酸

素イオンから出来ているのですが、このとき水素イオンはミトコンドリアの膜

を通り抜けて濃度の高いほうから低いほうへ流れます。これはちょうど水力発

電でタービンを回し、電気をつくるようなものです。この水素イオンの落下の

エネルギーでATPがつくられるわけですが、もし水力発電所の横に別の流路が

あり、水がそこに落ちてしまうと、その分だけ発電ができません。褐色脂肪細

胞内のミトコンドリアの膜には、このような穴がたくさんあいており、エネル

ギーがATPにとらえられず熱になって逃げてしまうようになっています。ATP

いろいろな物質から脂肪などをつくるのに用いられていますから、これが少な

いのは、脂肪をつくることが少なくなるともいえるわけです。つまり褐色脂肪

細胞はエネルギーを貯えるよりも消費するほうの脂肪細胞であり、乳幼児に特

に多く、首筋の所や背中の肩甲骨の内側に分布しています。そういえば、子供

の体は温かいですね。

やせるコツ

さて、最後に誰でも関心のある肥満の原因ですが、肥満の中でも特別な理由も

なくて肥満になる単純性肥満について述べましょう。まず第一は内分泌的因子

です。単純性肥満の大部分でインシュリンの分泌が増加しています。インシュ

リンは脂肪の蓄積を起こすという説があります。また特別のペプチドホルモ

ン、エンドルフィンの増加とかCCK-PZの減少とかが肥満に関与しているともい

われます。第二は代謝性因子で、基礎代謝の低い人、褐色脂肪細胞の少ない人

などは肥満になりやすいわけです。第三は栄養的因子で、若年時に過剰栄養に

なると、脂肪細胞の数が多くなることが知られています。この脂肪細胞の数が

増加する時期としては、妊娠末期、生後一年、思春期の三時期とされます。こ

れを支持する報告としては、1941年から1945年までのナチス末期のベルリンで

生まれた子供に肥満が非常に少ないことや、離乳食を早めた子供や人口栄養児

には肥満が多いことが知られています。食事の取り方については、同一カロリ

ーのものを一日二回、三回、四回、五回と分けてとらせたとき、一日二回の場

合が一番太るといわれています。朝食をしっかり取りなさいといわれるゆえん

です。昼に食欲不振があり、夜間眠られずに食事をとる人を夜食症候群といい

ますが、これも太ります。人は日周リズムの関係で昼間はエネルギーを活動に

用い、夜はエネルギーが肝臓に行くようになっているからです。次は遺伝的要

因です。1952年ボーキンらは、正常な体重の両親から生まれた子供が肥満にな

る確率は10パーセント以下で、片親が肥満の場合は50パーセント、両親とも肥

満の場合は80パーセントの子供が肥満になると報告しました。また、一卵性双

生児の一方が肥満のときは、もう一方も肥満になる確率が非常に高いとされて

います。他方、環境因子が重要だという人もいます。養子の場合、もし養父母

が太っている時は子供が太る確率が高いのです。つまり、その家庭の食事の取

り方とか生活態度が関係しているというわけです。次に、運動量の減少が当然

あげられます。最後に心理的要因です。人はストレスにさらされると、手もと

にあるものを手当たり次第に食べて急速に太る「やけ食い症候群」というものに

かかります。ネズミのシッポにピンをとめ、いつも痛くしておくとネズミは絶

え間なくものを食べ、200グラムのラットが四日間で90グラムも体重を増したと

いう報告もあるくらいです。このように太る原因はいろいろですから、その人

ごとによく注意して原因排除に気を配る必要があるわけです。

人の気分も匂いでわかる

匂いについて、私達が経験から知っていることがいくつかあります。一つはガ

スもれなど、ある種の匂いにはすぐ慣れてしまって感じなくなるということで

す。もう一つは、同じ匂いでも体の状態、環境によって異なって感じられる、

ということです。さらに不思議なことに、ある匂いにはすぐ慣れても(これを感

覚が疲労するといいます)、別の匂いにはいつまでも感ずる、ということです。

俗に、鼻について離れないという匂いがそれです。他の動物に比べると、人間

は匂いの判断力が特に弱いことでも知られていますが、ある種の匂いには敏感

です。たとえば、ギョーザにつきもののニンニクの匂いは、メチルメルカプタ

ンという物質が原因ですが、これは0.4ナノグラムでも感じます。1ナノグラム

1ミリグラムの100万分の1ですから、いかに人間がこの物質に敏感であるかが

わかります。一方、エーテルなどには案外鈍感で、5.8ナノグラム以上くらいで

ないと感じません。また、濃度の違う二つの物質を嗅ぎ分けるには、二つの濃

度差が三十パーセントくらいないと区別がつきません。

イヌはなぜハナがきくか

動物の場合には、匂いを感ずる能力は生存に不可欠なものとして発達してきま

した。たとえば食べ物を探し出すとか、異性を見つけて性的に成熟しているか

どうかを見分けるとか、さらに棲みわけと称し、自分の領域を自他に知らせる

とかに必須の感覚として、嗅覚は存在しているのです。イヌが敏感な嗅覚を持

っていることは、よく知られています。人間に近いサルも、よい嗅覚を持って

います。人類のみが、嗅覚を生存に必須のものとする意義を失っていると言え

るのです。では、もっと下等な単細胞生物ではどうでしょう。たとえばミドリ

ムシは単細胞ですから、もちろん神経はありません。しかしこの細胞は自分に

有益な食べ物(主食物)に出会うと、繊毛を使ってそちらの方向へ動いていき、一

方、有害な物質があると、そこから逃げようとします。つまり化学物質のもつ

情報(この場合有益か有害か)を感じとることができるのです。このように生物に

とって、化学物質による情報伝達は進化の最初の段階から重要な役割を果たし

てきました。そして動物がさらに高等になると、この化学物質を、味とか、皮

膚の刺激とか、匂いとかに分けて感ずるような器官が発達してきたというわけ

です。では、人間の嗅覚が動物なみに敏感になった例はないのでしょうか。米

国の神経外科のオリバー・ザックス博士は非常に面白い例をあげています。

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患者を匂いで嗅ぎわけた医師

22才の医学生ステファンは、コカインとかアンフェタミンのような薬を常用し

ていました。アンフェタミンは昔ヒロポンとよばれ、その作用は脳内のセロト

ニン、ドーパミンなどを増加させ、幻覚などを起こします。ある晩、彼は夢を

見ました。それは自分がイヌになって、いろいろな匂いに取り囲まれて生きて

いるというものです。ところが、眼が覚めてもまさに同じで、彼の嗅覚はイヌ

のように鋭くなっていたのです。彼はいっています、「私は香料を売っている店

へ入った。以前と違って、すべての匂いが識別できた」と。それだけでなく、友

人や患者を匂いで識別することができたのです。「私が診察室に入ると、患者

を見る前に患者を区別できた。二十人いれば二十人が誰だかわかった」。それ

ばかりか、彼は、この人達がどのような感情を持っているかを「嗅ぎ」わけるこ

とができたのです。恐怖の匂い、満足感や性的充足度などを、匂いで判別でき

たのです。それだけではありません。彼はニューヨークのどの通りに連れて行

かれても、その通りがどこであるか、匂いでわかったということです。さらに

彼にとっては匂いの世界こそが現実であり、色や形、思想や観念などは、すべ

て色あせた抽象的なものに見えてきました。ところが三週間すると、このよう

な感覚が突如消えてしまったのです。つまり嗅覚は正常になってしまいまし

た。十六年後、ステファンは医師としてたいへん成功しています。時々昔を思

い出しては、当時がなつかしくなるということです。「それは全く別の世界だ

った。しかし、それは生き生きとして、現実的で、感覚の充満した純粋な世界

だったといってもよい」。彼は、できたらもう一度だけ、あの世界に戻りたい

といっています。フロイトによれば、嗅覚は人が文明社会に生きるときに抑制

された感覚となるということです。また嗅覚の亢進は、性欲倒錯といって性欲

の異常と結びついているとも述べています。しかしステファンの場合は、ドー

パミンを情報伝達物質とするドーパミン性神系の興奮異常(促進)による症状と考

えられます。

 

人間の嗅覚が鈍くなったわけ

ここではなぜ、人間の嗅覚が鈍化し、フェロモンのような物質を出さなくなったか

について、タスマニア大学のストダート博士の説明を紹介しましょう。彼によれ

ば、人類がアフリカの森林に住んでいたころは、おそらく一人の男性と一人ないし

数人の女性、それに子供というグループで生活していたと考えられます。このよう

な場合には、女性は発情期にフェロモンを尿中に出し、男性をひきつけて子供を生

まないとこのグループは消滅してしまいます。そこで、この時期には男女ともに嗅

覚は発達していたと考えられます。ところが、草原に野牛のような動物が出現し、

これを捕らえて食用に供するようになると、とても一人や一家族では猟ができませ

ん。そうなると、人々は徐々に集団として行動するように生活形態を変えてゆきま

す。このような社会で、もし、女性が発情して強力なフェロモンを出し、また男性

がこのような物質に対して敏感な嗅覚を持っていると、集団の秩序は維持できませ

ん。したがって人類は、ある種の淘汰を繰り返し、比較的鈍感な嗅覚を持つ人達の

みが残り、またフェロモンの分泌も少なくなったのではないかと、ストダート博士

はいっています。この説が本当に正しいのかどうかわかりませんが、人類が高度の

頭脳をもち、また手先の器用さが他の動物をしのぐようになると、食べ物の発見に

匂いを用いる必要がなくなり、自分の領域を守るのに尿中の物質を嗅ぐ必要もなく

なってきます。したがって感覚が退化したとも考えられるのです。

 

匂いで元気に?

では、人間はどのくらいの匂いを区別できるのでしょうか。訓練すると2000

4000くらいの匂いを区別できるとされています。しかしウイスキーの香りを

区別したり、香水の匂いを識別する人は、10万種くらいの匂いを嗅ぎわけるこ

とができるとされています。匂いは、いったい基本的には何種類に区別できる

のでしょう。ヘニングという学者は、花臭、果実臭、悪臭など八種類の基本臭

に分けましたが、この試みは不完全で、匂いの分類は今のところ、できていな

いといってよいようです。次に、おのおのの匂いに対して別々な嗅細胞が対応

しているのかどうかという問題がありますが、これについても今のところ、全

くわかっていません。さらに最近、いろいろな匂いを嗅がせて人の気分を転換

させようという試みがなされています。これはある種の匂い(たとえばジャスミ

ンやラベンダーの香り)を嗅がせると不安や心配がなくなり、元気になるという

考えに基づくものです。しかし、これには科学的根拠はないという意見もあり

ます。このように匂いは、人々の強い関心事であり、こんなにも香料の研究や

開発が行われているのに、わからないことだらけというのも不思議です。

立っていられる有難さ

私たちの体には、いろいろな感覚情報を受け取る受容器というものがありま

す。この受容器は内外の情報を、神経を伝わる電気の流れに変える役割をして

います。受容器は情報、つまり外部から来た機械的エネルギー(圧とか触)、温

度、光、または化学物質の量(嗅、味、または血中の二酸化炭素など)を電流に変

えて、神経を通して中枢(脳及び脊髄)に伝えます。受容器には、光や音のように

遠方からくる情報を受ける遠隔受容器、触圧など近くのものに感ずる外受容

器、血圧、浸透圧など体の中の状態を伝える内受容器、身体がどのような位置

に置かれているかを知らせる固有受容器などがあります。固有受容器というの

は聞きなれない言葉だと思います。私たちは目をつむっていても、体がまっす

ぐ立っているか、右手は前に出ているか、下に垂れているかなどがわかります

が、これは身体の奥にある固有受容器によるものです。もっとわかりやすくこ

の作用を述べますと、私たちが走っている電車の中で立っていても微妙に体を

動かし、バランスをとり、急に電車が止まっても倒れないのは固有受容器があ

るためです。固有受容器が脊髄に絶え間なく情報を送り、これに応えるように

反射的に脳や脊髄から体の各部の筋肉に命令が出され、下界の変化に対応して

いるからなのです。

電車の中で立っていても倒れないわけ

固有受容器の典型は、筋肉や腱の中にある紡錘と呼ばれる部分です。これを説

明するには膝蓋腱反射を例にひくのが一番手っ取り早いと思います。お医者さ

んのところに行くとヒザを叩かれることがありますが、このとき、無意識に足

がピコンと上がる反射が膝蓋腱反射です。この反射では、叩かれたところが痛

いから足が上がるわけではありません。私たちの筋肉や腱の中にある紡錘とい

う小さな受容器が引っ張られるからなのです。筋肉の中には筋肉と同じ方向に

並んだ筋紡錘といわれる未成熟の筋細胞からなる装置があります。もし筋肉が

引っ張られると、この筋紡錘も引っ張られます。筋紡錘からは求心性神経(体の

中心へ向かう神経)がのびて脊髄に入っていますが、これは、筋肉の収縮をつか

さどる脊髄の運動神経の細胞体につながっています。そこで、筋紡錘が引っ張

られると、この運動神経が興奮して、筋肉に命令を送り、その筋肉が収縮する

のです。ところが、この筋肉が収縮する際、その裏側にある筋肉も収縮してし

まっては足が上がりません。そこはよくしたもので、反対側の筋肉は抑制され

るようになっています。このために、筋紡錘から出た情報は一度抑制の神経細

胞につながり、この細胞が、反対側(足の後ろ側)の筋肉に対し収縮しないよう命

令を出すのです。以上のことを電車の振動の場合について考えてみますと、体

がちょっと右側に傾くとすぐ反対側の筋肉が収縮して、体を左側へ戻そうとす

る反射が起きます。この反射は脳でなく脊髄で行われますから、足がポンと上

がってから「あっ、足が上がった」と意識されます。つまり反射の方が早いので

す。そこで、私たちの体の位置をうまく一定に保つ働きは、多くの場合、無意

識に行われていることになります。しかしちょっと意識すれば、目をつむって

いても自分の体がどのような格好をしていて、手がどの方向を向いているのか

ぐらいはわかります。これは多くの場合、関節のまわりや皮膚にある受容器が

総合した情報を脳に与えているからです。

肩こりはなぜ日本だけに?

私がアメリカにいた当時気付いたことは、アメリカ人にはむち打ち症候群とい

うものは存在しないということでした。当時(昭和四十年代)は、むち打ち症が社

会問題になっていました。実際、首にコルセットを巻いた人をたくさん見まし

た。また梅雨時などに、頭が痛いの、手足がしびれるの、という人達もたくさ

んいたのです。もちろん本当に脊髄などに損傷があった場合は、いろいろな症

状が出ます。しかし、実際に傷害がない場合でも、症状を示す人はたくさんい

たのです。ところが米国では、事故が起こるとレントゲン写真を撮ったりし

て、しばらくは首にコルセットを巻いていますが、すぐにこれをとり、全く正

常な生活を送っている人が大部分だったのです。そこで日本でも、友人が交通

事故にあったときに、よく「むち打ち症というのは外国にはないのだ、日本だけ

にあるのだから、これは本当は存在しない病気なのだ」と強くいいました。する

と不思議なことに、雨の降る日に手足がしびれるなどという人はいなかったの

です。最近肩こりは日本しかないということをよく聞きます。こんな昔からあ

る病が日本にしかない、つまり存在しないかもしれない病気である、とは一体

どういうことでしょう。私は人が「こういう病気がある」という病気になるので

はないかと思っています。また、この病気は治らないとか、この習慣は止めら

れない、といわれると本当にそうなってしまうのではないかと思っています。

実際アルコール依存症とか麻薬中毒について、そのように考えている人達も少

なくありません。ここで注意していただきたいのは、私は麻薬中毒は存在しな

いとか、麻薬は害がないといっているのではないのです。このような中毒や禁

断症状から逃げられないのは、麻薬中毒は治らない、または治る人はごくわず

かで大部分は治らないという意見を持つ医師の中にも多いからだ、という意見

が出されていることを述べたいのです。

 

治らないと思うから治らない

このことに一番最初に注目したのは米国のフィラデルフィアの総合病院のライ

ト博士とトラニス博士のグループです。1925年に内科、病理、神経科、化学科

の医師や研究者からなるグループは、モルヒネの中毒患者に大量のモルヒネを

与えました。そして、禁断症状の際の体の生理的変化を調べたのです。その結

果、生理的には特別な変化がなく、中毒症状は患者の空想の産物以上の何もの

でもない、という結論を出したのです。この報告の中に、ある患者の例があげ

てあります。これによると、この患者は禁断症状がひどくて、もっとモルヒネ

をくれなければこの実験に協力しない、と騒ぎ立てました。そこで二人の博士

は、麻薬でない食塩水を麻薬だといつわって、この患者に投与したところ、患

者はすぐに眠りだし、八時間ぐっすり眠ったということです。この論文でライ

トとトラニス博士は、患者たちの禁断症状について次のように書いています。

「患者達は禁断症状になると絶え間なくモルヒネを要求し、ある患者は禁断症

状が耐え難いものだという態度を示した。しかし、体の変化をくわしく調べて

みると、代謝、循環、呼吸、血液の成分などに特に著明な変化はなかった。症

状としては嘔吐、下痢、発汗、神経過敏といったものを示したが、誰にでもい

つでも出てくるとは限らないので、一定の病状とはいえない」

タバコを止めることほど簡単なことはない?

彼らの研究は、多くの人々から批判を受けました。しかし今日でも、中毒とか禁断

症状の生理的変化ははっきりしていないものなのです。そこで最近、学者の間で

は、麻薬中毒もアルコール依存症も、本当は治らないものだとか、禁断症状のひど

い「病気」だとかと思い込まされているところに問題があるのではないかという人が

多くなりました。それと同時に、アルコール依存症と診断される率が高くなり、診

断された人も、本当に自分はとんでもない病気にかかってしまった、というふうに

思ってしまいます。実際、米国でアルコール中毒の治療センターに入った人達の多

くは、自分はアルコール依存症という非常に治りにくい病気になってしまったと思

い、このセンターに入ってきたといっています。しかしセンターに入るとかえっ

て、自分のアルコール依存症は自分で治すことはできないものだと、変な確信を持

つようになる人達もいるとのことです。そこで、前述のむち打ち症の話と同じにな

りますが、アルコール依存症になるという知識が、アルコール依存症にしていると

いうことはないでしょうか。タバコの場合もそうです。トムソーヤの冒険を書いた

マーク・トゥウェインは「タバコを止めることほど簡単なことはない、自分は一生

に何十回もタバコを止めた」という有名な言葉を述べています。これはいかにタバ

コを止めるのが難しいかを示しています。しかし、このような言葉がかえってタバ

コを止められなくしているのです。たとえば米国でも、医師はタバコをほとんど吸

いません。しかし最初は、なかなかタバコを止められなかったという人でも、周囲

の人が止めるようになると、急に止められるようになるといいます。つまりタバコ

は止められないという観念がタバコを止められなくしているともいえるのです。

自動車事故を起こしやすい人

アルコール摂取と最も結びつけて考えられる事故は、自動車事故でしょう。実

際、飲酒しても運転する人の多い米国では、死亡事故の半分、人身事故の三分

の一がアルコールの摂取と何らかの形で関係しているということです。また血

中のアルコール濃度が0.05パーセントを超すと、事故の起こる確率は加速度的

に増えるといわれています。また事故は、単に運転直前にアルコールを飲んだ

人に多く見られるのみでなく、特にアルコールを日頃よく飲んでいる人に多い

のです。ところがこのようにアルコールの摂取にあまり気を取られていて、別

の要因が見逃されていることが最近指摘されるようになってきました。これは

どの事故、またはどの病気のかかりやすさにもいえるのですが、中年の場合、

独身者の方が結婚している人よりも事故を起こしやすくなっています。特に離

婚したり、妻を失った男性は、結婚している人よりも事故を多く起こしていま

す。女性でも、離婚したり別居したりしている人は、結婚している人よりも事

故をよく起こすそうです。次に教育程度ですが、米国では教育歴の高い人は、

事故を起こしにくく、社会的地位の高い人も事故を起こしにくいとされます

が、日本ではどうでしょうか。

死亡事故の多くは心のストレスから

私が米国にいたとき、研究所に中国人の友人がいました。彼のところに女性の

助手がいたのですが、年に三回ほど、交通事故を起こしました。このとき友人

は、「彼女の精神状態に問題があるからだ」といいました。私は交通事故などは

誰にでも起こりうるものだと重っていましたから、この言葉にはちょっと驚

き、「別に事故を起こしたからといって、精神状態が悪いとはいえないだろう」

といいましたが、彼はこれには答えませんでした。たとえばジルマンという学

者は、米国の死亡事故の30パーセントが飲酒に関係しているだけで、あとの70

パーセントの場合には、その人の性格、環境などの要因が重要なかかわりを持

っているといっています。セルツァー博士は、アルコール依存症の患者が酒を

飲むのは、敵意や、攻撃的考え方、うつ状態、自己破壊的な気持ちが奥にあっ

て、これから逃れようとしているのだと説明しています。そこで、五十人の事

故を起こしたアルコール依存症の人を調べてみますと、自己破壊、自殺願望や

自殺未遂、自己蔑視などのうつ状態の症状を示した人が大部分だったというこ

とです。このように多くの研究では、事故を起こす人の多くは感情的に不安定

であったり、攻撃的だったり、敵意を持ちやすい性格だったといわれていま

す。次に事故にあったときの精神状態のことですが、家族内のごたごたとか仕

事上の悩み、学校における問題などがあったすぐあとに、事故にあうことが多

いようです。たとえば、近い過去に社会的なストレスにあった人は、人身事故

に巻き込まれる確率が五倍くらい高いのです。フィンチ博士は、自動車事故で

なくなったドライバーの八十パーセントは、二十四時間以内に非常にストレス

となるようなことを何らかの形で経験していたといっています。このようなこ

とを考えると、前に述べた中国人の友人の発言もなるほど理解できますし、ま

た交通事故を起こす人の多い会社や学校は、何か中に問題があるのではないか

と考えたりしたくなります。

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