異端の教団

まえがき

まず私の宗教に対しての考えを述べておきたい。特定の名前のついた神と称す

る教団には属しいないことと、むしろ宗教などは必要としない立場をとってい

る。しかし、神に頼らなければ生きていけない弱い立場の人がいることも事実

であり、そういう意味では否定も肯定もしないともいえるので、自由に捉えて

もらって良いのではないかと思っています。私としては他の力を借りなくても

問題の解決は自分自身に内在する働きによって解決できる材料が揃っていると

いう事である。宗教も生活の一部である以上これを避けることは出来ないので

「異端の教団」の一部を載せる事にした。

 

私の生まれは香川県丸亀市である。父親は無宗教で、母親は一向宗である。親

戚は金光教で後に創価学会員となり、母親の死後改宗を迫られてあまりにも執

拗な攻撃にあい、まだその当時は位牌を焼却する方法を採っていてやむなく父

親は実行した経過がある。母親の死の原因は総合的なもので若い頃から信心深

く兵庫県のあるところで修行して霊的能力を身につけて病気治しの治療に専念

して病気は治るが母親がその病気をもらうということが続き、本来ならばもら

った病気は消し去る方法を知っていながらあまりにも忙しいのと次々と治って

いく人達を見ることの面白さについ怠けてしまったのが原因で倒れたのであ

る。私が10歳のときだが、それ以来私は摩訶不思議な治療にはかかわらないこ

とを誓ったのである。しかし、中学に入る頃には、今まで私が思うこと、感じ

ることは皆と同じだと思っていたが、それが違うことに気がついたのである。

私には小さい頃からなぜか人の心が読めたのである。ゆえに他の人の言う事と

考えていることの落差に驚きますます人間嫌いになり孤独になることが多かっ

た。今現在も兄弟親戚の付き合いはまったくない。しかしこれほど徹底した意

識を持って実行しているのにもかかわらず、阪神淡路大地震を前後してあるエ

ネルギーに関係した頃から「私がこうなったらいいなと思うと実現する」など

の不思議なことが次々と起こり、そのエネルギーに振り回されて狂乱状態に陥

ったのである。その状態とは死ぬほうが楽なことと言えばお分かりになるであ

ろうか、いやお分かりにはなるまい。そういう面では自殺する人の気持ちは私

には判るのである。ある時、自分で自分自身を認識できる意識だけだと思って

いたことの間違いに気がついたのである。誕生してから現在までの環境は自動

的にインプットされ、潜在意識の中に叩き込まれていて、それがランダムに現

実化するのである。神など信じていないのになぜだろうかと、それには何か原

因があるはずである。パソコン・携帯電話・クレジットカードなどの暗証番号

が宗教儀式の諸動作、あるいはマントラがその役目をしていることに気がつい

たのである。柏手を打つ・マントラを唱える・礼をする諸動作でサーバー()

という御本尊が開き潜在意識で自動的に会員になるのである。それ以来私はそ

ういった諸動作は一切とらなくしているが、葬式ではさすがに手を合わすが、

意識は切り離して対処している。といっても全員の方がそうなるのではない。

何らかの原因で感性が高まった状態になるとそうなるようでまだ詳しくは分か

ってはいない。面白い実験があるので興味のある方はやってみられるとよい。

コップに水道水をいれてマントラ(南無阿弥陀仏・南無妙法蓮華経・南無大師

遍照金剛・アーメン・オーン等)を唱えると水のクラスターが小さくなり味も

変質する。オーリングで検査すると筋力が増して指が開きにくくなることで証

明ができる。そして悪口雑言(死ね・ボケ・カス・大嫌い・このタコ等)を言っ

てオーリングすると筋力が落ちて指の輪は簡単に開いてしまう。水はマントラ

を唱えなくても(綺麗だよ・大好き・かわいいね・素敵だよ)等を言ってもクラスタ

ーが変わる。水は情報を簡単にインプット出来る能力を持っているということ

は、人間も70パーセント以上は水分なので細胞としては全ての情報はインプッ

トされているのだ。ただ我々の顕在意識に上らないだけで、ただ何となくこう

だなあとか嫌だなと思うくらいである。全ての情報が顕在意識に入ってくると

混乱して生活が出来なくなるからである。言葉に出さなくても自分の思ってい

る感情は相手に即座に伝わっているので、悪感情を相手にもし持たれても頭の

中では悪い言葉を発してはいけない。というよりも考えない工夫をすることで

ある。絶えずリセットして赤ちゃん戻りの状態を持続させることである。ヒフ

ミ聴感法は広める意識はなくそれゆえ組織も作らず、理論もない、ただリーダ

ーには伝達したいという希望は持っている。ヒフミ聴感法の考えが人口の5

ーセントを超えると社会不安が起きるからでそういう意味では真実は誰にも語

らないでおきたいというのが私の願いでもある。では「異端の教団」を紹介し

よう。

 

如来教

金毘羅様が乗り移った貧しい農家の主婦

神仏との神界情報をチャネリングする新興宗教の先駆け的存在

「天理・金光・黒住・妙霊・先走り・・・・・」これは大本教開祖・出口ナオ

(1837~1918)のお筆先「大本神論」のなかの有名な一節だ。明治二十五年(1892)

二月三日の節分の日、京都府の綾部で産声を上げた大本は、自分たちに先行す

る教団として、これら四つの教団を名指しで対抗意識を燃やしたのである。ち

なみに、四教団を開教の年次で並べ替えると、黒住・天理・金光・妙霊の順番

になる。これらの四教団のうち、奈良県の天理教、岡山県の金光教と黒住教の

三つは良く知られている。しかし、兵庫県多紀郡笹山町の妙霊教はあまり知ら

れていない。この妙霊教は山内利兵衛(勢位)が文久三年(1863) 開教したもの

で、大太鼓の音にあわせながら「妙真・・・・」と唱える行法をもつ法華神道系

の教団である。青年時代の上田喜三郎、のちの大本の聖師・出口王仁三郎

(1871~1948)がここを訪ね、妙霊教の二代教主・山内利太郎(利勢)から教えを受

けている。「天理・金光・黒住・妙霊」の四教団は、幕末期までにはすでに宗教

活動を開始していたものの、いずれも西日本に発生した、文字通り同じグラン

ドで大本の目の前を走っていた(先走り)だったわけである。当然のことなが

ら、同じ時期に活動していても、別のグランドを走っていれば、誕生したばか

りの大本には見えない教団もあった。たとえば、幕末から明治にかけて江戸を

中心に主として関東地方で布教活動を展開した吐菩加美神道の場の場合がそう

だ。すなわち、明治初年の神仏分離以後、政府から公認された神道十三派のひ

とつである大成教のインナーグループとしては最大勢力だった禊教(吐菩加美

講系)と、単独で神道十三派のひとつとなった禊教(身曾岐講系)の、二つの「禊

教」の母体となった井上正鐵の吐菩加美神道などは、大本の視座には入ってこ

なかった。そうしたなかで、出口ナオのお筆先には触れられなかったが、文句

なしの(先走り)といえば、名古屋の熱田に誕生した如来教だった。しかも、そ

の如来教は神仏習合系の、正確には「教派神道」の先駆的存在だった。

金毘羅信仰と霊的地下水脈

如来教は享和二年(1802)尾張国熱田の、もとは貧しい農家の主婦だった女性が

突然、神懸をすることによって始まった。のちに一尊如来きの(1756~1826)と呼

ばれるようになったこの女性は、時に四十七歳、当時としては人生の盛りをも

うとっくに過ぎた年齢だった。彼女のお筆先は(ただし正確には   きの

説教を筆録したもの)である「お経様」によれば、金毘羅大権現が「貧しきこ

の比女に乗り移り、この比女の口を借り」て通信してきたのが享和二年八月十

一日のことだった。この金毘羅大権現とは、もちろん讃岐国琴平(香川県仲多

度郡琴平町)の像頭山に鎮座する金毘羅宮の祭神の、神仏習合時代の神号であ

る。これは、明治維新の神仏分離以前の両部神道にもとづく祭神名である。し

かし、きのに懸ってきた金毘羅大権現は、たんなるコンピラさまではなかっ

た。「お経様」によれば、天地万物の創造神は「如来」であり、それに次ぐ釈尊

(釈迦牟尼如来)が衆生の救済のために働かれるが、金毘羅大権現はその補佐

役をしているというのだから、その神格は非常に高い。そうはいっても、そこ

には普通の金毘羅信仰が背景にあったことはいうまでもない。そこで、コンピ

ラとは何か、ということについて少し触れておこう。コンピラとは、サンスク

リット語のクンピーラが訛ったもので、インドのガンジス河に棲息するワニあ

るいはサメのことだという。それが神格化されてヒンズーの神となり、仏教に

移入されて仏教の守護神になった。ワニの神様は、仏教が日本に渡来すると、

河の神から海の神になり、さらに船の神になった。仏典に登場するコンピラ

は、天竺の霊鷲山に住む鬼神で、鰐ではなく蛇形をしており、尾には宝玉を蔵

していた。そして、世界の中心にそびえたつといわれる高山、須弥山の東側に

ある瑠璃国の薬師如来の部下の十二神将のひとりとなり、金毘羅(宮毘羅とも

記す)大将あるいは金毘羅童子とも呼ばれ、衆生救済の役に当たるようになっ

た。この神が讃岐国琴平の像頭山松尾寺の伽藍守護神として勧請されたのが金

毘羅宮の起源である。琴平の地名も金毘羅宮の名称も、もちろんこの金毘羅の

宛字である。漁業航海の守護神になったのは、像頭山が瀬戸内海を航行する船

の目印として古代から信仰され、とくに塩飽諸島の人名(船方六百五十人で千

二百五十石の自治権を獲得していた)たちから崇敬されたことによる。またコ

ンピラは、仏典では蛇体と考えられていたことから竜王としての性格もも持

つ。雨乞いや、さらに≠フ神紋から商売繁盛の神様としても信仰された。江戸

時代、熱田周辺の寺々では、この金毘羅神を守護神として勧請していたところ

が多かったらしい。そうした背景があって、金毘羅大権現がきのに神懸ってく

るのである。しかも、熱田神宮のある「愛智郡」(現・名古屋市熱田区)は「海

部郡」とは隣接しており、古代の海洋民族の子孫たちが住んでいた土地だっ

た。海の神である金毘羅を受容する霊的地下水道というか、風土がこの地には

備わっていたのだ。

きのは、お釈迦様の代理

「お経様」を読んでいると、一尊如来きのが、天理教の中山みき(1798~1887)や大

本開祖の出口ナオ(1837~1918)、さらに「淫祠邪教」のレッテルを貼られて壊滅

させられた法華神道系の連門教の島村みつ(1831~1904)、「踊る神様」の異名を

もつ天照皇大神宮教の北村サヨ(1900~1967)、璽宇の璽光尊こと長岡良子

(1903~1984)・・・・等々の女性教祖たちのまさに先駆者的存在として、いちば

ん先頭を走っていたことがわかる。月並みな表現になるけれども、きのは古代

のガイア的魂をもった巫女の伝統性の甦りとしてこの世に出現してきたのであ

る。「お経様」には、きののことを「比女(このおんな)」とか「貧しき比女」と呼

び、「何しにや、あの様な賤き女に神様が御乗移被成る物でや」とか「女が比

やうな事を言って喋ったら、乱心でやとおもはれふが」云々というような表現

が随所に出てくる。きの自身は、無学文盲の女性である自分への世間の冷たい

視線を気にしながらも、天啓者としての自覚をもって如来の教えを伝えようと

したのである。その具体的な方法としては、中山みきや出口ナオや、その他の

女性教祖たちがそうであったように、やはり病気治しだった。もちろん、その

病気治しも世間から「狐狸の業成る」とみられていた。しかし、きの自身は「能

事をすれば極楽へ行。悪事すりゃ地獄へ行く」なぞと言っても、その地獄極

楽、見てきたもの一人もなし。其証拠の為に、病気を治()し取する。信心す

る人皆々助取する。其手形に病気を治()し取する」と述べているように、お

釈迦様の代理者として病気治しをしてきたのである。きのは貧しく賤しき女性

ではあったが、それはあくまでもこの世が「如来様から修行をさせて戴く世界」

であったからである。実際は「比女は天下禁裏(将軍家と朝廷)へも生まれ出る

種」であり、如来の慈悲でわざわざ貧しい女性として出現したというのであ

る。大本の出口ナオが、「肉体は女性だがその魂は男性である」という「変性男

子」であったように、一尊如来きのも「胎内真()男にて、形は女と生まれくる

道理」だった。それだからこそ、金毘羅様がきのに乗り移ってきたのである。

 ここでの金毘羅様は、天上の神々の中ではひときわその位が高く、そして自

らは地上に降りることができない最高神「如来」の代理者として救世の為に彼女

に憑ってきた。したがって、きのはお釈迦様の代理者として、この「末法の末

の世」である(終末)に「お経様」によれば、釈迦が説き残した残りの「四分」を説

く役目をもって出現したのである。

 

特高警察に押収された「お経様」

ここで注目しなければならないのが、「お経様」が別の箇所で、天照皇大神宮が

天上へ帰ってしまったため、地上の伊勢神宮には「魔道」の手下の、留守番役の

「屋守」しかいないという点である。そういう過激な内容が含まれていたため、

昭和十八年(1943)、「お経様」は特高警察に押収され、戦後、返還されたもの

の、問題と思われる箇所はズタズタに切り取られてしまっていたという。「お

経様」のなかの、とくに神道に関する部分は闇の中に消えてしまった。しか

も、きのの道統は、明治維新の神仏分離の過程で、神道系ではなく仏教系教団

として歩んでいく道を選んでしまった。天理教も明治国家の公認宗教として神

道十三派のひとつになるまでには、先に別派独立した教派神道に所属したり、

一時期は真言宗豊山派の傘下に入ったりしたこともある。如来教の場合、座禅

(じつは古神道の呼吸法による鎮魂の行だったらしい)があったことから曹洞宗

の傘下に入ってしまうのである。そういうこともあって、今日の如来教からは

神道的なものが除外されてしまったようである。しかも、その発生の母胎は、

まさに「天理・金光・黒住・妙霊」・大本・・・等々と同じものが流れていたの

である。その意味では、如来教が教派神道系として歩んでも、全然おかしくな

かったのである。というよりも、きのには金毘羅大権現のほか、熱田の大神、

秋葉大権現、天照皇大神宮様、春日大明神、八幡大菩薩、熊野大権現、牛頭天

王、上行菩薩、日蓮、親鸞、法然、聖徳太子、道元・・・等々もコンタクトし

てきた。すなわち、きのはじつに偉大なチャネラーでもあったのである。「お

経様」には明らかにキリスト教的要素が散見されるが、キリシタン禁制の世で

なかったら、キリストや聖母マリアや、十二聖人たちも通信してきたかもしれ

ない。その意味でも、きのはまさに現代宗教の先駆けでもあった。

黒住教と黒住宗忠

病気で死線をさまよった後に天照大神の霊験を受ける

黒住教は江戸後期、備前岡山を中心に広まった神道敬の新興宗教だが、新興宗

教に見られがちな予言性は乏しく、積極的な世直しの思想も伺われない。その

教えの根本は、一種の人間改造にあった、といってよいだろう。創唱者の黒住

宗忠は、安永九年(1780)に備前国今村宮の禰宜(神主の下に位する神職)の家に生

まれた。母の生家も近在の白髭宮の神職だったから、幼児の宗忠はきわめて神

道的な雰囲気の中で育った。後年、宗教者としてたつ宗忠の素養は、このよう

な幼児の環境のうちに準備されたとみなしてよい。宗忠がおのれの天命を自覚

し、神職から宗教者への独自の道を歩みだす転機は、三十五歳を迎えた文化十

一年(1814)Iに訪れた。その二年前、両親を相ついで失った宗忠はショックのあ

まり、自分も重病におちいった。一時は視線をさまようほどの様態からようや

く回復した宗忠は、同年十一月十一日、旧暦の冬至の朝、心願のまに日拝をし

て一心不乱に祈った。すると、心気とみに快活となり、太陽の陽気が全身に満

ちわたるような、充実感というか、爽快感というか、自分が全く別人のように

なった霊気につつまれるのをおぼえた。これが、宗忠にとって、決定的な回心

の機縁となった。このような霊的体験は、凡人には理解も表現もしがたいこと

であるが、黒住教ではこの一瞬をもって「天命直授」と呼び、立宗の時としてい

る。

 

主神のモデルは天照大神

では、宗忠はいかなる存在から天命を直授されたのか。宗忠がその根本的存在

として領解したのは、天照大神だった。事実宗忠は回心した後に、自分は「天

照大神と同魂胴体」になったのだと述懐している。次の一首もある。

 

天てらす神の御こころ人こころ  一つになれば生きとふしなり

宗忠にとって、天照大神は「同魂胴体」と感得されたとき、「世界を創造し維

持し、時間・空間を超越して偏在する生命力そのもの」(原敬吾著《黒住宗

忠》)と受けとめられたのだろう。しかし、天照大神を崇めたからといって宗

忠の信仰が国粋主義にこりかたまっているとみなすのは、即断にすぎる。宗忠

の発想の原点は、天照大神が「偏在する生命力」、ないし「宇宙の根源にある生

命力」そのものであるというところにあった。言い換えれば、生きとし生ける

人間の日々の営みは、すべて天照大神のはからいから発するものだとみなした

わけである。この考え方には、国体の尊厳を云々する政治性はない。宗忠は、

統治のシンボルとして天照大神を捉えたのではなく、いかにして人間はあらま

ほしき生を生き切るかという、人格神のモデルという意味で天照大神に帰依し

たのである。宗忠はまた、こうも言っている。「生き物は御心に御座候。その

御心は有りがたくも天照大神様に御座候」。人間の生命力の核心をなすのは、

肉体ではなく心であり、人間個々に備わった心はすべて「天照大神の分心」にほ

かならない、というのである。宗忠は以上の立場から、正直に生きること、腹

を立てず物事にくよくよしないで日々を過ごすべきことを強調する。あるい

は、自由の境涯に遊び、おおらかにほがらかに生きることが、宗忠にとって生

命力の根源たる天照大神の思し召しにそぐうと考えられた道だった。そこから

は当然、大きく寛やかに生かされていることへの報謝の念が湧いてくる。それ

ゆえ、宗忠は何事につけ、ありがたいという気持ちを大切にしなければならな

い、と戒める。

 

何事も有り難いにて世にすめば   むかふものごと有りがたいなり

宗忠が自得したこの宗教的確信に確かな手応えを覚え、人々に向かって教えを

説きはじめたのは、翌文化十二年(1815)に入ってからのことだった。これを講

釈といい、時に神道者や僧侶から妨害や中傷を加えられることもあったが、講

釈は時とともに評判になり、宗忠は求められるままに各地に赴いておのれの教

えの鼓吹につとめた。

顕著な効果を示す霊的治療

黒住教のもうひとつの特徴は、講釈のあとかならず、宗忠みずからが禁厭(

じない)による病気治療を施したことである。宗忠にとっては、講釈と禁厭は

密接不可分のものであり、その点についてはこう定義している。「この道は、

人の身の病を治し、人の心の苦を抜き、人の家の難を平らぐ道なり」。宗忠が

人間の生命力の核心として、肉体よりも心を重視したことは、先にふれた。し

かし、肉体は確かに二義的であるにせよ、肉体を抜きにして心は存在しえな

い。心を真に生かすには、肉体が健全であることが望ましい。病に苦しんでい

る人がおれば、それを救ってやるのも必要不可欠━というのが、宗忠の信念だ

ったのだ。宗忠は何のあてもなく、病気治療に手をそめたのではない。そのよ

うな霊妙な機能が天照大神の働きの中に本来的に宿っており、「天照大神と同

魂胴体」になった自分にも応分の能力が賦与されているはずだという確信のも

とに、禁厭を施したのだった。禁厭は、病人に手をかざしたり、息を吹きかけ

たりする一首の霊的治療だが、その効験は結構顕著なものがあり、宗忠はまず

講釈よりも、病をよく治す神主として近在に知られるようになったという。病

気平癒の奇端譚はいくつか伝わっているが、たとえばこんな話がある。福田と

いう門弟が重態になり、今宵はもう臨終であろうと一家一門や知人がその枕頭

に詰めかけた。そこへ招かれた宗忠が福田の腹に手を差し当てると、苦しい息

づかいがあらたまって即座に熱が下がり、生気がよみがえった。それからとい

うもの、福田は日に日に快方に向い、とうとう本復した、という。また、いわ

ゆる六高弟の一人、赤城忠春は二十代に眼病をわずらい、種々の療法をこころ

みたにもかかわらず、完全に失明した。ところが、人に勧められて宗忠の講釈

の席に出、熱心に耳を傾けていると、禁厭を受けるまでもなく、両眼に光がさ

して、ほどなくものが見えるようになったとのことだ。宗忠は、こうした霊的

治療の効験について、「少子(自分のこと)力には御座なく候。自然の御蔭と存じ

奉り候」と述べている。それからすると、宗忠にとって禁厭は、天照大神の霊

的な働きが自分という代行者を通して病者に作用した、ありがたい結果である

と意識されていたのであろう。その場合、病者が天照大神を信じているかいな

いかは関係ない。天照大神の霊験は、生きとし生けるすべての人々に平等に向

けられているから、無心人者も助けられるというのが、宗忠の考え方だった。

自分が病気を治すことで誉めそやされるよりも、無信心者が病気から回復した

ことを入り口として真の信仰生活に入っていくことのほうを、宗忠は無上の喜

びとし、禁厭の目的としていたのである。

親鸞とよく似た思想

講釈と禁厭を二本立てとする宗忠の布教は、立宗から五、六年もたつうちに、

相当の成果をあげるようになった。門弟は士農工商にまたがったが、彼らの中

には当時としては知識層に属する人が目立つ。また、宗忠は近郊の儒者から論

争を挑まれたことがあったが、おだやかな言葉づかいでその儒者を説伏してい

る。宗忠の教えが、よくいわれるような土俗的宗教でなかったことは、そうし

たことからもうかがいとれる。宗忠は教線が伸展しても、つねに謙虚な心を失

わなかった。より高次な段階を目指して執行(修行)を怠らなかったのはもちろ

ん、自分に対しても門弟に対しても、慢心して人を見下すことを潔癖に排し

た。もし、宗忠に揚言の弊があったとすれば、それは「天照大神と同魂胴体」

「天照大神の代行」と語ったことぐらいだが、それとて、自分は人より少し先

に天照大神の霊性を感得し、天照大神の御心のままに活動させられているとい

う謙虚な自覚の表明のほかに他意がなかった。ちなみに、宗忠は帰依した人々

を門弟とも弟子とも呼んでいない。宗忠は、同じ信仰を持った以上、天照大神

の前にみな平等だという信念のもとに、彼らを「道連れ」と称した。かつて鎌倉

の昔、阿弥陀如来の他力本願を読み取った親鸞は、「弟子一人もたずさふらふ」

と、きっぱり断言した。かわりに親鸞は、慕い寄る門徒を、「同朋」「同行」と呼

んだが、その心底において、宗忠は親鸞と軌を一にしていた、といってよい。

弘化三年(1846)四月、六十七歳になった宗忠は、同信の人々の心得書きともい

うべき「定め」を公表した。立宗から三十余年、この「定め」を著したのは、この

頃ようやく宗忠を宗主とあおぐ教団が名実ともにととのいはじめた事を示すの

だろう。しかし、教団かを志向する本格的な営みは、宗忠の生前にはあまり認

められない。このことも、親鸞の場合とよく似ている。

大きな成果をあげた京都布教

宗忠は、嘉永三年(1850)二月、数え七十一歳をもって没した。病死である。禁

厭によって多くの人々を救った宗忠も、自信の病を屈服することはできなかっ

たわけだ。それはともかく、彼の教えが備前岡山を超え、急速に教線の輪を広

げるのは、彼の没後のことである。教線の拡大については、主だった門弟たち

の活躍によるところが大きい。教団ではこれを「高弟七人宗決死の布教」と呼ん

でいるが、彼らは宗忠がなくなった年の夏、神前に誓いを立て、地域を分担し

て布教に乗り出す。その結果、宗忠の教えは中国地方に広く行き渡るが、なか

でもとくに顕著な成果をあげたのは、前にも名をあげた赤木忠春の京都布教だ

った。京洛の地を踏んだ赤城は、吉田神社のある吉田山の麓の一屋に「神道講

釈備前国黒住門人」と大書きした看板をかかげ、宗祖伝来の講釈と禁厭をもっ

て活発な宣教活動をくり広げるかたわら、神祇管領吉田家に対して大明神号の

下賜を請願した。その願いは安政三年(1856)三月に容れられ、宗忠は大明神に

列せられることになった。文久二年(1862)には、いまも京都神楽岡の南に鎮ま

る宗忠神社が創祀される。慶応元年(1865)四月には、孝明天皇によって宗忠神

社が勅願所の指定を受け、宗忠本人も従四位下の神階を授けられた。その間、

堂上の公家のあいだから、宗忠の教えに帰信を表明するものも相ついだ。著名

な人物を拾えば、関白・九条尚忠、のち摂政となった二条斉敬、それに尊攘派

の大立物・三条実美らがいる。おりしも、幕末動乱の世を迎えていた当時、尊

王主義が時代の精神として空前の盛りあがりをみせていた。一方、宗忠の教え

は、皇祖神の天照大神尊崇の理念を明白に打ち出している。そのように、機縁

がぴったりと合致したことが教団に幸いし、備前の一民衆宗教に過ぎなかった

宗忠の教えが、朝廷公家のあいだにまで容易に浸透することができたのであろ

う。宗忠の教えはまた、その理念からして、尊皇派志士からも好意を寄せられ

た。むろん、宗忠の教えは、繰り返すように政治的イデオロギーとは一線を画

したものだったが、皇祖神敬仰という一点において、志士の心情と重なりあう

ところがあったからだろう。

 

文明開化に反する布教内容

明治維新が実現し、文明開化の時代が訪れると、教団の前途には一転して暗雲

がたちこめはじめる。その際、主として槍玉にあげられたのは、禁厭による病

気治療だった。欧米から移入された近代医学の立場からすれば、禁厭は明らか

に迷信的医療行為である。診察もなく、薬も用いず、ただ手をかざしたり息を

吹きかけたりして病気を治すのは、効果があっても、近代医学の原理とは相容

れない。そのため、文明開化を普及させ、迷信を一掃しようとする一派のあい

だから、黒住の教えは淫祠邪教に類するものだから、早々に禁圧するべきだと

いう声が沸きあがったのだ。公的な機関からの黒住批判は、明治六年(1873)

兵庫県が黒住の布教を認めてよいものかどうかという伺書を教部省に提出した

のが最初らしい。つづいて同年中に愛媛県や名東県(現・徳島県)がかなり強い

口調で黒住の布教活動を取り締まるべきではないかという伺書を教部省に差し

出した。それらの伺書をみると、黒住ではその頃、禁厭の手段をさらに進め、

病者に神符や神水を与えていたことがうかがいとれる。開化政策を信奉する人

々は、こうした迷信を放置しておくのは、いたずらに人心の眩惑を誘い、世を

乱すのみならず、先進国欧米諸国に対したとき、日本の国家的恥辱となりかね

ないことを憂慮するあまり、教部省に訴え出たもののようである。しかし、教

部省の応対は、思いのほかに柔軟だった。教部省は、禁厭を頭から迷信と決め

つけなかった。逆に、禁厭は古代からつづく、災異を払うためのわが国固有の

まじないであると、理解を示すのだ。そして、黒住の教えそのものは天照大神

を主宰神とするように敬神の趣旨にのっとっているから、あえて弾圧する必要

は認められない、と関係府県に通達する。ただし、全面的な容認ではない。黒

住がもし、禁厭に固執し、近代的医療を病人に受けさせないようなことがある

場合には、相応の処置を持って黒住に制禁を加えよ、という一条が通達に付加

されていた。ともあれ、黒住の布教活動は、原則的に教部省から公認されたわ

けである。教部省のこのような柔軟な対応は、通達書が「方今ノ時勢ハ皇祖天

神ヲ尊崇シ皇国ノ大教ヲ宣布スルヲ似テ第一ノ急務トス」と述べているよう

に、当時推進されていた神道国教化政策と密接にからんだものだった。黒住教

団からすれば、国家イデオロギーのうちに取り込まれるのは本位ではなかった

にせよ、教団の存続を公認されたのは、何よりの朗報だった。その結果、教団

は明治九年、「神道黒住派」の称のもとに独立布教をすることを許された。明

治政府のもとで、教派神道として一派独立を達成したのは、神道修成派と並ん

でこれがもっとも早い例である。なお、教団が現在のように黒住教と教団名を

改めたのは、明治十五年のことだった。

 

天理教と中山みき

私有財産を否定した危険思想?

自らの財産・屋敷・土地を貧農に分け与える「聖なる狂気」

1999322日年のオウム真理教全国一斉捜査から、マスメディアは戦後史上

かってない狂乱状態に陥った。テレビは視聴率を上げ、週刊誌やスポーツ紙は

購読数を増やした。裏付けのない非公式の捜査情報の獲得合戦と覗き趣味に訴

え、死をもてあそぶゲスネタ中心の垂れ流し報道が商業的成功を支えた。視聴

率や購読数を崇拝するマスコミ真理教徒には見えなくても、マスミディアとい

う「社会の公器」の本質が排除と異端狩りにあることが、最悪のかたちで露呈し

たのである。もちろん、オウム真理教事件の全体が冤罪だということはないだ

ろう。かつて大本教の本部に踏み込んだ官憲の前には影も形もなかった武器や

死体(の痕跡)が、上九一色村の秘密部屋から現れたという情報の真実性は多分

疑い得ないだろう。だからといって、憶測と予断と思い込みに満ちた誤報まじ

りの報道の洪水が許されるわけはない。しかし、この淫祠邪教バッシングのパ

ターンこそ、日本のジャーナリズムが「宗教的なるもの」に対して伝統的に取

ってきた手法なのである。中山みきを教祖とする天理教も、明治期、新興ジャ

ーナリズムの拡販戦略の格好の標的になった。

 

生涯十八回の拘留処分

幕末から刊行され始めた新聞は、1870年(明治3)、初の日刊新聞「横浜毎日

新聞」の創刊後、1890年代には地方新聞が並び立つ大衆新聞時代に入る。経営

基盤も弱く、政府の監視下に置かれ、創刊と廃刊を繰り返したこれらミニ大衆

新聞は、発行部数増加を狙って、企画記事の開発に努力した。1892年(明治

25)、黒岩涙香が創刊した「万朝報」は、批判キャンペーンの矛先を島村みつ

教祖の蓮門教に向けた。1894年(明治273月から10月にかけて行った94回の執

拗な連載「淫祠蓮門教会」は、連門教に決定的なダメージを与えた。連載終了

時、「万朝報」の発行部数は約五万部、二位の「東京朝日新聞」の二倍に達し

たという。一年半後の1896年(明治2946日、内務省は全国県庁に天理教

「制圧」の訓令を発した。その文言には公権力の淫祠邪教観が鮮明に映し出さ

れている。「近来、天理教ノ信徒ヲ一堂ニ集メ、男女混淆動モスレバ輒チ風俗

ヲ紊ルノ所為ニ出デ,或ハ神水神符ヲ付与シテ愚昧ヲ狂惑シ、遂ニ医薬ヲ廃セ

シメ、若クワ妄リニ寄付ヲ為サシメル等、其ノ弊害漸次蔓延ノ傾向之、之レヲ

今日ニ制圧スルハ最モ必要ノ事ニ候条」「隠密(スパイ)ノ手段ヲ似テ」しても

犯罪を暴き、刑法警察令に触れない行為も、「必要ニヨリテハ祈祷説教ヲ差止

メ、若クワ制限スル等臨機便宜ノ方法ヲ用ヒテ」目的を果たせよという指示に

は、明治国家権力の恣意的・強権的な性格があらわだ。この訓令を受けた、同

様の東京警視庁訓令が、四月十七日、新聞各紙に掲載されることで、マスメデ

ィアの天理教攻撃に火がつく。天理教と天皇国家とのあつれきは、中山みきの

在世中から始まっていた。みきは1874(明治7)から90歳で死ぬ前年の1886(

19)まで、十八回にわたる警察の拘留処分に直面している。教勢の拡大に比

例してより強力な弾圧をかけるのは、権力の生理だ。訓令が出た明治29年、天

理教は教祖死後、破竹の勢いで布教伝道に成功し、拡大期を迎えていた。前年

までの日清戦争が醸し出した人心動揺の世相と教祖十年祭の準備が重なる中

で、布教熱は高まり、25年に143だった教会数は27年に20729年には463に急上

昇していた。すでに明治25年ごろからマスメディアは、天理教批判を開始して

いた。高野友治の調査によれば251月から294月までに出た天理教関係書籍

14冊のうち、12冊は「淫祠天理教会」「天理教退治」といった告発暴露本

だ。が、新聞紙上の攻撃記事はまだちらほらといった程度だった。今も昔も事

大主義である新聞に、訓令は後ろ盾と社会正義の御旗を与えたのである。しか

も、連門教の前例がキャンペーンの商業的成果を保障していた。なかでも「中

央新聞」は、警視庁訓令公表の翌18日から、「邪教淫祠天理教会」の連載に乗

り出す。

 

入信の動機は圧倒的に病気

11ヶ月、全150回に及ぶスキャンダルな集中記事は、官許の淫祠邪教観をも超

えて、より過激に民衆の好奇心と欲望のありかを物語っていた。矛先を向ける

当の集団の「いかがわしさ」と批判する側の劣情がまったく等価に見えてくる点

が今日のオウム報道と重なって愉快だ。しかし、公認の邪教観には、まだ弱体

だった明治公権力の内部事情ともいうべき合理性がうかがえる。「男女混淆動

モスレバ輒チ風俗ヲ紊ルノ所為」を厳しく排除することは、儒教的で男尊女卑

の家父長制秩序を形成しようとする国家目標の表れだった。中山みきは、封建

的な男女関係の下で家婦として忍従に甘んじた。忍従の中でも希望を捨てなか

ったみきには、神は「人間は苦しむためにではなく、陽気ぐらしをするために

生まれてきた」という根源的なメッセージを下ろした。みきにとって、男女が

共にする緩やかなエロス空間としての陽気な神楽づとめは、人類救済の願いと

直結する解放のひな形だった。未来のどこかではなく、日々の労働を終えて歌

い踊る今このとき、この場に神のユートピアが息ずくのである。この快楽的で

小国寡民的な桃源郷への憧れは、教育と産業労働、軍事のシステム化により列

強と並ぶ富国強兵を実現しようとした明治国家の禁欲的企図とは、相容れなか

った。まさに邪教のゆえんである。「神水神符ヲ付与シテ愚昧ヲ狂惑シ、遂ニ

医薬ヲ廃セシメ」る所行に関しては,国家の側にいっそうの言い分がある。小

栗純子の研究によると、幕末から明治四十年ごろまでの天理教信者の入信動機

は圧倒的に病である。みきの治癒力がどれほどのものだったかは伝説以上には

定かではない。が、複雑な慢性疾患が多く、懐疑とニヒリズムが蔓延する現代

とは違って、栄養失調時代の病者が神水・神符の信仰治療で転調し,奇跡的に

治癒する可能性は,想像以上に高かったのである。西洋医学自体が自然治癒に

依存する以外ほとんどなすすべがなかった時代である。

 

私有財産を否定した危険思想 ?

連門教の攻勢伸張の背景には1822(文政5)から1895(明治28)に至るコレラの

周期的な流行があったとされている。コレラの恐怖は天理教信者の拡大にも同

様に作用した。死者の数は明治10年には8000人余、12年には105000人余、19

には108000人余、23年には35000人余、そして28年には40000人余と記録されて

いる。この状態では、西洋医学を選ぶか、漢方・鍼灸を選ぶか、民間の祈祷・

信仰を選ぶかはほとんど相対的な選択に過ぎなかった。しかし、頑迷な洋化主

義を探る明治政府にとって、公認の医学はドイツ医学だけだった。そして舶来

の公衆衛生学を根拠に、すべてを開化的・衛生的か、迷信的・非衛生的かで割

り切ったのである。ドイツ医学は軍陣医学として優秀であり、漢方・鍼灸は迷

信━。おのおのを緊急医学と初期・予防医学に割り振るという知恵もなく、千

年の歴史を持つ固有の伝統医学は、法的にも絶滅の対象となった。弾圧の中で

何人もの漢方医が困窮し、憤死していった。まして信仰治療が医学発展の障害

として奇怪視され、排除されたのは当然である。オウム審理教事件でも、塩水

を飲んで吐いたり、鼻から紐をいれ口から出すなどのれっきとしたヨーガの技

法が、犯罪と結びつく不気味なインチキ療法のように報道された。気功やヨー

ガが流行する現代も、状況はそう変わらない。明治期の天理教撲滅運動の隊列

には常に医師の姿があった。医師の天理教への入信は、西洋医学への妄信こそ

が迷信だとわかる。しばらく後の事である。「妄リニ寄付ヲ為サシメル」こと

は、いつの世も邪教のしるしとされてきた。しかし、オウム真理教にもし、煩

悩にまみれた物質文明を超えるラディカリズムがあるなら、煩悩滅却の象徴的

行為として全財産を喜捨するという布施の極限的追及にこそあったはずだ。少

なくとも「局限の布施」の発案の当初,刹那であっても,麻原彰晃や忠実な弟子

たちの脳裏に,中山みきの「貧に落ちきる」切迫感に似たカタルシスが生まれた

ことぐらいは,想像できよう。1838(天保9)、「われは天の将軍である」と神が

下りた後、四十一歳のみきが最初に行った宗教行為は自らの財産、屋敷、土地

のありったけを貧農たちに分け与えることだった。その原初の「聖なる狂気」

によって、天理教における寄付は、特別の意味を持つことになる。富を放棄

し、「高山(富貴・権力)」ならぬ「谷底(質素・非権力)」に落ちきったとき、人

は救済の門口にたつ。何者をも恐れぬ、ゼロからの出発。貧農の男女共同労働

を陽気ぐらしのモデルとした教祖の身ぐるみ脱いだ自己投棄は、天理教徒の半

意識的な指針として生き続けた。それが布施の際、信者への強制となり財産剥

奪となったこともあったろう。教団内の地位獲得のため、寄付の成果を上げよ

うとした幹部がいたことも、かくして「あしきをはろうて たすけたまへ て

んりおうのみこと」の祈りが、現世利益に執着する民衆の耳には、「屋敷をは

ろうて 田売りたまへ 天秤棒のみこと」と響いたのである。天理教への明治

政府の警戒は、単に宗教の名による詐欺や収奪に向けられたのではなかった。

むしろ公権力は、みきの切迫した階級脱落の行動に、私有財産の否定という危

険思想の萌芽を見たのである。みきの思想を邪教と呼ぶ公権力は、そこに住む

アジア的アナキズムの密やかな香りを的確にとらえていた。

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大本教

二人のカリスマを擁する異端中の異端教団

京都駅から山陰線に乗り込むと、車窓から見える風景がすぐさま緑の深山に変

わることに驚かされる。この沿線に亀岡、そして綾部という駅がある。かつて

も今も、この地には大本の二大聖地が存在しているが、現在ではあまり多くの

人に知られていない。亀岡駅で降り、車で十数分。「熊野館」という看板が掲

げられた民家があり、その裏手には「愛善苑」の看板が付された建物が建つ。大

本の二大教主、出口澄みと、その夫で、いわば大本の表看板、出口王仁三郎が

晩年に暮らした家である。愛善苑とは、第二次大本事件後、昭和17(1942)

保釈になった王仁三郎が、21年に大本を発展解消させ新発足させた団体だった

が、王仁三郎の死後、再び愛善苑は大本へと名を戻し、今日に至っている。こ

の経緯は、「異端」の宗教がその異端性を薄めていく過程でもあったのだが

…….。出口和明氏は、王仁三郎の孫にあたる。若い頃はさまざまな職業を経験

したのちに執筆活動に入るが、父・伊佐男(本大本総長)の死を契機に、大本へ

と入る。教団の変質ぶりを目の当たりにして、改革運動を起こすが、やがて教

団を追放され、祖母の遺志を継ぐべく宗教法人・愛善苑を設立したのが昭和61

年。現在、愛善苑は王仁三郎の書いた大書「霊界物語」を経典とし、まさにこ

の書を「学ぶ」団体としている。

 

インタビュー

━まず「異端」という言葉に対するお考えからお聞きしたいのですが。

出口━異端か異端じゃないかは、結局立場によって違うと思うんですよ。内側

と外側でも捉え方が違うはずです。戦前の大本を異端だといったのはあくまで

外部の人たちですし、内にいる者は自分たちが異端だという認識はなかったで

しょうね。

━そのあたり、出口さんは若い頃は大本と関係をもたずにいて,外からの視線

も持ち合わせていたと思うのですが,大本が異端だと思われていたのには相応

の理由があったと思われますが ?

出口━うーん、やはり異端だったのでしょうね。第一次大本弾圧、第二次大本

弾圧というのは、明らかに大本が異端であったためだと思います。ぜんぜんの

天皇制という枠組みは、その枠の中で生きているかぎり異端にはならない。で

も、大本はその枠の外にいたわけです。信じる神と教えに忠実であろうとすれ

ば、枠組みがしっかりしているほど異端にならざるをえない。第一次、第二次

弾圧事件の時も、お前たちの信じている神と天皇陛下とどちらが偉いかと拷問

され、転向を迫られる。現人神より偉い神様がいては具合が悪いわけです。そ

れで、王仁三郎にしても、その妻の澄みにしても、多くの人が何年間も入獄さ

せられた。ですから、外から見る限りは明らかに異端だったと思いますね。た

だ、その異端の歴史は昭和27年、出口澄みの死を境に光が薄まり、37年以後

は、まったく体制迎合の宗教になってしまった。体制の枠組みに収まる既成宗

教の道をたどり、今は異端とは呼べなくなったんじゃないでしょうか。

━つまり、異端であることの原因は時の体制との関係性である、ということで

すね。

出口━ええ、ですから、異端である「そのこと」が悪いわけではないんです。私

は異端の中にも善悪があると思っています。善の異端があり、悪の異端があ

る、と。オウム真理教なんかは、完全に悪の異端だと思いますね。ほかのいろ

いろな宗教だって、たいてい最初は異端ですよ。その初期の教えを外してしま

い、教義さえも変えてしまうことで、生き残ることができるわけです。

━その意味では、異端でありつづけることも難しい、と。

出口━どの教団にしても、組織をつくったときから堕落がはじまっているのか

もしれませんね。組織を存続させるには、聖と俗の、俗の部分がどうしても必

要になるわけです。世間とのつながりですね。組織を大きくしようと考えはじ

めると、その俗なる部分の比重が大きくなってくる。出口直にしても、王仁三

郎にしても、財産とか名誉はまったく考えない人でしたよ。ですから、決して

教えそのものは曲げようとはしなかった。組織としての堕落に対しては歯止め

が効いていたんです。王仁三郎は、とにかく人に与えるのが好きでしてね。金

持ちと金番は違うんだ、とよく言っていました。金を有効に生かすのが本当の

金持ちで、貯めてるだけなら単なる金番だ、と。贅沢もできない人でしたよ。

 

大本の本質は「霊界物語」

━新興宗教の中には大本に影響を受けたものが数多くありますが、その異端制

においては似ている部分も多いのでしょうか ?

出口━確かに、大本からいろんな宗教が輩出しています。私たちの愛善苑も、

その一つです。ま、ピンからキリまでありましてね。それこそ、右寄りから左

寄りまで。でも、どれもが異端なわけではない。私は、それらを大本霊団と呼

んでいるんですが、主張も教えも違う。そして霊系も違うところが多いから、

まったく別の教団と考えてよいでしょう。で、直や王仁三郎の持っていた異端

性を継承しているところは、ないといってよいでしょうね。

━それは、別の見方をすると、出口直や王仁三郎の教えに対する解釈が、それ

ぞれの教団で異なっているということでしょうか。

出口━まず、王仁三郎の「霊界物語」をきちんと読んでる宗教、あるいは宗教

学者はほとんどいないでしょうね。この膨大な書物にある教えを理解しないこ

とには、大本の本質は語れないはずなんです。それと、直の「お筆先」に対する

捉え方の違いですね。

━そのあたりを、もう少し詳しくお教え願いたいのですが。

出口━出口直のお筆先の本筋は、三千世界の立替え立直しです。これが命であ

ってね、これを外すと抜け殻になってしまう。直の言う三千世界の立替え立直

しというのは、単に現界だけでなく霊界も含めてのことです。では、それはい

つ来るのか。「足元から鳥が立つぞよ」とお筆先は言う。まったく気がつかな

いときに突然起こる、と。その立替え立直しの時には「人民三分になるぞよ」と

言うわけですね。「このほうの申すことは毛筋の横幅ほども違わんぞよ」「こ

れが違うたら神はこの世におらんぞよ」と神の権威にかけて断定する。この断

定があるから、淺野和三郎(心霊科学研究会)とか谷口雅春(生長の家)とか友清歓

(神道天行居)とか、のちに一派をなす人たちが夢中になったわけです。で

も、人民三分になるような立替え立直しなんて、いまだにきていない。これは

どういうことかというと、子供が井戸の端で遊んでるときに、お母さんが思わ

ず叫ぶようなもんですよ。坊や、そんなところで遊んでたら落っこちて死んじ

ゃうよ、と。子供は、母の必死な叫びで危険を知るわけです。井戸の端で遊ん

でいたって落ちないかもしれない、落ちたからといって死ぬとも限らない。だ

からお母さんの言うことは嘘だともいえるけれど、それでもやはり真実の愛の

叫びなんですね。「予言」とはスケジュールのことですよ。で、お筆先は「預

言」なんです。預言派、人類に言葉を投げかけるが、その中身は神様が預かっ

ておく。これを私たちは警告と呼ぶんですが、かつての大本の一部の信者や外

部の人たちはそれを警告ととらずに、スケジュールと捉えた。でも、直が一人

でやってた頃は大きな教団ではないですから、直のカリスマ性もあって、お筆

書きはそのまま信じられてしまいますよ。そして、立替え立直しというのは

「根本」から変えていくわけですから、教えのすべてが世間から見ると異端にな

りますよね。

━直と合体して大本を創った王仁三郎の立場はどうなるのでしょう。

出口━これも大本の特異性であって、まさに異端の異端たるゆえんなのです

が、王仁三郎が言っているのは、自分がこの世に出てきたのは出口直の預言を

実現させないためだ、と。だから、一つの教団の中に二人のカリスマが屹立し

ていて、直は立替え立直し、王仁三郎はそれを実現させない、そういう対抗し

た力の引張り合いなんです。ならば、直にかかる神は王仁三郎に対して怒るか

というと、そんなことはない。本当はそのことを望んでいるわけなんです。で

すから、神様としては、ちっとも矛盾してない。でも、教主が二人いて、対立

しあっている教団なんてほかにないですよ。

━新興宗教の在り方からするなら、異端の中のさらに異端という感じもします

ね。ただ、世間に知られる大本とは、王仁三郎という個性こそが柱というか、

最大の要素であったわけですよね。

 

親王の子・王仁三郎 ?

出口━王仁三郎について説明しますと、生まれたのは明治4(1871)712

日。旧暦ですけど。その三日前の79日に、薩長のお偉方が集まって廃藩置県

をやろうと決める。で、14日に宮中に大名を集めて、突然に廃藩置県を断行す

る。そして天皇制国家が確立していくわけです。その陣痛の最中に王仁三郎は

生まれる。私は、いま有栖川宮熾仁親王と王仁三郎の話を書いていますが、王

仁三郎が有栖川宮の落胤だったという説があるんです。最近は認められはじめ

た説ですが、まだ疑っている人がいるから今度の本で証拠を出すつもりです。

つまり、王仁三郎は宿命を負って生まれるんですよ。天皇制との確執を背負っ

ていた。で、王仁三郎が大本に入ったとき、大本はミニ天皇制だったわけで

す。出口直が現人神ですね。信者は直を大神様と尊称していた。その中で、王

仁三郎にかかる神は、直にかかる神と、言うことが正反対なんです。その中で

王仁三郎の言い分を通していこうとすると、いくつもの仮面をかぶらなければ

ならなかった。同時に言葉に両義性をもたせないといけなかった。そういう気

持ちで王仁三郎の書いたものを読むと、両義性どころか多義性なんですよ。い

ろんな意味に取れる。で、大正5(1916)に神島開きがあって、直のお筆先に、

王仁三郎にかかっている神は弥勒様の霊だと出る。直は愕然とします。せいぜ

い王仁三郎にかかる神は番頭神ぐらいしか思ってませんでしたから、弥勒様は

天の大神様で、直にかかる艮の金神より上なんです。そこで、直はやっと王仁

三郎の価値を認める。そのすぐ後の大正7年に直は死ぬ。ここからミニ天皇制

は崩壊しますが、ここで王仁三郎はもっと大きな天皇国家と対決しなければな

らなくなったんです。ここからも、言葉に両義性をもたせざるを得ない。たと

えば、王仁三郎の書くものには随所に天皇賛美があるんです。ところが、決ま

って言うのは、この世界の主師親である天皇(スメラミコト)。世界の主師親と

いうのは主人であり師であり親である、ということです。これが天皇であるわ

けがない。この宇宙万有を作った造物主のことですよ。つまり天皇の名を出す

ことで逃れる。また、大和魂という言葉も頻繁に出てきます。軍国主義を連想

しますが、王仁三郎のいう大和魂にはキーワードがありましてね。明治37年の

日露戦争の最中に書かれた「道の栞」の中で述べているのですが、大和魂とは、

平和、文明、自由、人権、独立などを破るものと敢然と戦う精神だ、と言う。

このキーワードを知って読まないと王仁三郎の真意は分からない。とにかく、

真意を隠しに隠して書いている。それで今日まで残っているわけです。王仁三

郎は、天皇制の揺籃に生まれて、天皇制との対決をつづけていった。そして、

二度まで不敬罪で弾圧を受ける。一回目は、直の死んだ直後の大正10(1921)

に新聞紙法違反と不敬罪、二回目は昭和10(1935)に不敬罪と治安維持法違反

ですが、どちらもメインは不敬罪ですよ。治安維持法を名目にしたのは弾圧の

手法でね、これだと死刑までもっていけるから。この王仁三郎の生涯と、彼の

真意の在り様を頭に入れて大本を眺めないと、異端の解釈そのものが間違って

しまうでしょうね。

 

大本の異端性に憧れるオウム真理教

━今回のオウム事件ではオウム側から「宗教弾圧」という言い方がされ、大本と

似ている点が挙げられたりしましたが、そのあたりはどう思われますか。

出口━あれは詭弁でしょ。大本の異端性に憧れているのかな。それでも彼ら

は、弾圧によって大本は潰れたが、オウムはますます栄える、という言い方も

してましたね。大本事件では信者同志が集まることも許されず、一言の弁明の

機会もなかったが、彼らはいまだに集団生活を営み、彼らの主張はマスコミが

きそって報道してくれる。そもそもオウムの事件が「宗教弾圧」なのかどうか。

大本事件は思想が弾圧されたが、オウムはその犯罪性がとがめられている。大

本事件といっても、一般に知っている人はほとんどいないから、言ったほうが

勝ちなんですよね()

 

ご神前というのだろうか、出口氏宅(熊野館)の神棚のある座敷にテーブルを並

べ、そこで出口氏を交えた愛善苑の方たちと食事をしながら、話をした。酒が

入るほどに、みな饒舌になる。出口氏に対する批判もぽんぽん飛び出す。出口

氏は、怒るでもなく、笑いながらそれを聞いている。「いつもこうですよ」神

棚の向かいの壁には、七福神すべてに扮した王仁三郎の写真。「よくやるよ

な」と、思わずニヤリとしてしまう。一般的に教団といえば堅苦しいイメージ

があるが、それとは程遠い雰囲気が漂っていた。しかし、この雰囲気は決して

悪くはない。そして、自ら七福神に扮してしまう王仁三郎の個性とは、案外こ

の雰囲気に近いものなのかもしれない、とも思えた。

━出口さんは第二次弾圧事件のときは六歳で、ご自身にも影響があったと思う

のですが、当時のお話をお聞かせください。

出口━少年時代はつらかったですよ。私が王仁三郎に対する信頼を持っていれ

ば耐えられたんでしょうけど、誰も大本事件なんて教えてくれないですしね。

学校で先生や友達から聞かされるだけです。ですから、私は太陽をまともに仰

げない人間だと思ってましたよ。いじめも凄かった。朝礼がありまして、私の

身長はクラスの中ほどだったんですが、誰一人として私と並んでくれないんで

す。弾き出されるわけです。大本の本部があった綾部の小学校では親戚の子も

いましたが、こちらの亀岡小学校では、初めて通う王仁三郎の孫が私だった。

それだけに学校側も警戒したし、興味の対象ですよね。とにかく緊張の連続で

す。自意識が強かったんでしょうなあ。朝礼のとき、何回も失神しましたよ、

緊張感に耐えられずに。殴るにしても大っぴらにはやらない。後ろからボーン

と突き飛ばしたりするんです。ただ、今のいじめと違うのは、彼らがいじめる

のは正義のためなんです。国賊の子を膺懲するということですね。私もそうさ

れて当然だと思っていたから、手向かいもしない。学校の教育もひどかったで

すよ。終身の時間に、弓削道鏡、足利尊氏などの国賊よりもっと悪いのは出口

王仁三郎だって先生が教えるんですもの。あの頃は人権なんて、まして子供の

権利なんて考えてもいない時代ですからね。おかげで、差別に対する感覚が養

われたし、精神的にはずいぶんと鍛えられましたけどね。ああいうふうな事件

がなかったら、甘やかされて育てられましたから、とんでもない人間になって

いたかもしれない()

 

天皇制との対決の歴史

━王仁三郎が保釈になった時は、この家に戻られたんですか ?

出口━そうです。昭和1787日に出所してきて、ここへ帰ってきたんです。

私にしてみれば、68ケ月ぶりの国賊との対面ですよ()。不安と、幼い時に

可愛がられた慕わしさとの両方があってね。不思議な心持ちでした。すでに保

釈出所していた幹部たちが控えてましてね。そこえ王仁三郎、澄、そして私の

父が帰ってきた。王仁三郎も父も痩せてましてね。ところが、澄はまるまると

肥えてるんです()

━その後も、王仁三郎はここで暮らしたんですか ?

出口━ええ、ここで余生を送った。私はその間、ずっと祖父と暮らしてまし

た。815日は私の誕生日なんです。それで玉音放送を一緒に聞いたんです

よ。子供には何を言っているのか分からない。でも、王仁三郎は嬉しそうにし

ましてね、「負っかーさー(マッカーサー)れた」って言うんですよ。シャレな

んでしょうけど。そのとき、この人は本気で日本の敗戦を喜んでるのかって背

筋が寒くなりましたね。その言動を間近に見て、私の教育からすると、やはり

国賊としか思えなかったから()。だって、玉音放送の内容を知ったとき、私

は近くの川まで行って泣きましたよ。それぐらい日本帝国を信じていました。

でも、そのうちにね、神風が吹くというのは嘘だったのかと思いはじめ、それ

なら王仁三郎も全部が全部悪じゃないのかもしれないと思うようになったんで

す。昭和20128日に廃墟と化した綾部で大本事件解決奉告祭をやって、十

年ぶりに王仁三郎が祝詞を上げた。ここで、これまでの大本を全部投げ出して

愛然苑を作るんだと言ったんですね。そして翌年の、昭和2111日に天皇の

人間宣言ですよ。それで王仁三郎の生涯には、対決するものがなくなった。王

仁三郎は昭和23年に亡くなります。78歳でしたが、その生涯の七十五年間はま

さに天皇制との対決だったんです。

 

第一次大本弾圧━1910年代後半からの、知識人、軍人を含む急激な攻勢拡大

や、立替の時期切迫という激化した宣伝などが社会問題化。当局の警戒を招

き、1921(大正10)、教団の発行する「大正日々新聞」紙上の記事が不敬罪にあ

たるとして出口王仁三郎ら幹部三人が検挙された。

 

第二次大本弾圧━人類愛善主義を掲げ国際的な進出も図り、第一次弾圧以前を

も凌ぐ勢いとなった。大本では、緊迫した世界情勢を背景に昭和神聖会を結

成、その膨大なエネルギーは倒閣、現状打破へと傾き、1935(昭和10)、不敬

罪や治安維持法違反の罪で徹底的な弾圧を受ける。

 

大本━開祖・出口直と聖師・出口王仁三郎を二大教祖とする神道系の教団。直

1898年に王仁三郎と出会い、翌年金明会を結成したことに始まる。終末論的

予言や霊界に関する教え、鎮魂帰神という神がかりの行法が特徴的。父系など

の罪で二度の弾圧に会う。多くの分派独立教団を生む。

 

「霊界物語」━大本の経典。出口王仁三郎が霊的体験により見聞きした霊界の詳

しい状況を口述し、書き取らせたもの。宇宙心理や神の経論、救済などが説か

れている。全部で八十一巻もの長編物語で、「お筆先」の主張をさらに展開し体

系化したといわれている。

 

「お筆先」━大本の経典。文盲である出口直が神がかり状態になり自動書記した

もの。艮の金神による世の中の立替え立直しが説かれている。平仮名と当て字

である漢数字により記されており、これを出口王仁三郎が漢字仮名まじりの文

に整理したものを「大本神論」という。

 

 

エホバの証人と明石順三

意外 !あの「輸血拒否」の教団が国家と闘った時代があった

「エホバの証人」は、輸血を拒否して死を肯定することで有名になったが、彼

らはもうひとつ、現代日本史、特に第二次大戦中の戦時下抵抗の研究者たちに

カルト的に有名である。というのも、この時期エホバの証人たちが、徹底した

良心的兵役拒否を行ったからである。エホバの証人というのは不思議な連中で

ある。戦後の民主主義教育の価値観からすれば、良心的な兵役拒否というのは

じつに賞賛すべき行為である。しかも、第二次大戦下の日本の宗教界は、神

道、仏教、キリスト教と、総崩れで戦争協力に走っていたのだ。こうした状況

下でエホバの証人が断固として非戦論と良心的兵役拒否を貫いたことは、瞠目

に値する。ところが、その同じエホバの証人が「輸血拒否」という理解に苦しむ

行為を繰り返しているのである。兵役拒否と輸血拒否、この二つに共通するの

は、自らの死を恐れぬ行為である、という点である。狂信、といっても言い。

しかしそこには宗教の本質が露呈されている。文字通り、生死を越えたところ

に、彼らの信仰は到達している。もうひとつ、兵役拒否と輸血拒否に共通して

いるのは,現代の価値観では正反対の評価を受けるこの二つの行為が,実はまっ

たく同じ一つの根から発生している点だ。根本主義(ファンダメンタリズム)

とりわけエホバの証人の場合は、聖書の一言一句を妄信的に受け入れる徹底し

た字句主義がとられる。隣人愛を説くイエスの言葉の、どこをどうこねくり回

しても「兵役」という文字は出てこない。何せ右の頬を張り飛ばされたら左の頬

も出さなければいけないのだ。しかし、アメリカをはじめとする西欧のキリス

ト教国は強大な軍事力を誇り、その力を背景に世界経済を牛耳っている。そう

した欺瞞を、エホバの証人は衝く。その同じ聖書根本主義が、輸血拒否という

奇怪な教義を導き出してしまうのだ。兵役拒否と輸血拒否は、宗教がどれほど

のパワーを持つのか、その光の部分と影の部分を見事に表している。ノンフィ

クション・ライターという仕事柄、これまで僕はその「影」の部分を語る機会が

多かった。編集部からの卓抜な依頼により、今回は「光」の部分を書いてみたい

と思う。かつて、第二次大戦下の日本で、エホバの証人が光り輝いていた時期

があった。もっとも、この時期彼らは自らを「エホバの証人」とは呼んでいなか

った。

 

最初の日本伝道は明治45

明石順三という人がいる。戦前の灯台社━エホバの証人運動は全てこの人が軸

になって動いている。明石は明治22(1889)7月、滋賀県の琵琶湖のほとりに生

まれた。貧しい家庭で育ったが、独立心が旺盛だった彼は自力で渡米、日雇い

家業を経て新聞記者になった。正義感が強い正確だったので、社会部の記者と

して徐々に頭角を現していった。この頃、彼は妻の影響で、ワッチタワー

(Wach Tower━灯台社━ものみの塔━エホバの証人)というキリスト教グループ

を知るようになる。彼はその教義に強く惹かれ、新聞記者の仕事を捨て、伝道

者の生活に入っていった。この後、アメリカでの伝道生活を経て、明石は二十

年ぶりで日本に帰り、灯台社活動を始めることになる。そもそも、エホバの証

人の教えが日本に初めてもたらされたのは、明治年45(1912)初頭のことだっ

た。この前年から、創始者のラッセルは世界一周の伝道旅行を行っており、そ

の途中で日本に立ち寄ったのだ。大阪で「世々にわたる神の経論」と題する講

演を行ったが,この話を聞いて感動した材木商・神田繁太郎は,神戸市須磨にあ

った別荘を改造して「聖書講堂」を作った。明石がワッチタワー総本部の正式派

遣によって、日本に支部を作るために単身帰国したのが大正159月のことだ

った。明石はアメリカで各地の在米日本人の間で伝導・講演活動を行い、大正

14年には、二代目会長ラザフォードの著作「神の立琴」の日本語訳を出版したり

と実績を上げていた。帰国した証は神戸の聖書講堂を拠点とし,ワッチタワー

を「灯台」と訳して灯台社を創立,機関紙「灯台」の執筆編集や公開講演など,活発

な活動を始めた。昭和6(1931)に満州事変が勃発すると、明石はすぐさま機関

紙や講演で次のような主張を繰り返し、時流に対し痛烈な批判を加え始めた。

 

「日本の対支(中国)行動は絶対に侵略的行為であって、その結果は日本を滅ぼ

すことになる。天皇は人間の一人であって神に非ず。この人間天皇を擁して全

アジア、否全世界を征服せんと企画するがごとき計画は、悪魔に踊らされる軍

国狂徒の誇大妄想である。故に、真に日本と日本人を愛するものは斯かる教徒

の妄信に惑わされるな。」

 

明石の主張のあまりの正しさは、今読んでも感動を覚えるほどだが、当然当局

は灯台社に激しい弾圧を加えた。昭和8年には不敬罪により一斉検挙、これは

昭和10年から始まった治安維持法による大本教弾圧に二年先立っている。結

局、何人かの転向者は出したものの、明石らは昭和20年に戦争が終わり、十月

に占領軍の命により府中刑務所から開放されるまで、自らの信念を曲げなかっ

た。現在エホバの証人は、スティーブン・ハッサンらにより、「破壊的カルト」

と規定され、危険視されている。しかし僕は思うのだが、こうした灯台社の歴

史を考えると、国家が全体主義的な方向に走り始め、国民にある思想を押しつ

けようとする時(それはオウム報道に象徴されるように、形を変えて現在でも

行われている)、もっとも固い抵抗の種子となるのは、死をも恐れぬこうした

宗教なのだ。

 

教会・国旗・兵役を拒否

では同時期、世界はどうだったか。たとえばアメリカ。エホバの証人発祥の地

であるこの国でも、当然のようにすさまじい弾圧が加えられた。理由は三つあ

った。一つは、彼らが激しく既成キリスト教会を攻撃したこと。人種のるつぼ

であり、数多くの宗教団体が存在するアメリカでは、出来るだけ他宗教派を攻

撃しないのがサバイバルのための知恵だった。ところがまともに既成キリスト

教会をはじめとする他宗教を批判し、国際連盟のような組織まで「悪魔の手先」

と決めつけたために、これらの組織から猛烈な反発を喰らった。二つ目の理由

は国旗敬礼拒否。そして三つ目が良心的兵役拒否である。強烈な軍事国家でも

あるアメリカは、また多民族国家でもあるため、異常なほど統合の象徴である

国旗に対する思い入れが強い。そうした国で国旗敬礼と兵役を拒否するのだか

ら、風当たりは当然強かった。合衆国司法省の統計では、1940年だけでも、エ

ホバの証人に対する暴動は335回。暴徒はエホバの証人の車を破壊したり、王

国会館を襲撃して火をつけたりしたという。また、1940年から45年にかけて、

二千人以上のエホバの証人が兵役拒否で逮捕されている。アジアでのエホバの

証人の敵は日本軍だった。当時アジアでは、いまだエホバの証人が根付かず、

活動の主力は外国人宣教師だった。明石順三も1931年、上海を訪れ、草創期の

中国のエホバの証人に洗礼を施している。しかし、日本軍の占領が始まると、

各地の外国人宣教師たちは国外退去を命じられ、協会の事務所は軍の手で閉鎖

された。アフリカ諸国はこの時期、英仏などの植民地状態であったため、弾圧

は比較的緩やかだった。それでも、たとえばジンバブェ(当時は南ローデシ

ア・英領)では1936年に治安法が制定されて協会の文書が十四冊発禁となり、40

11月には協会の文書の輸入と配布が全面禁止。それでも伝道を続けた地元の

エホバの証人たちは投獄された。

 

ヒトラーを逆上させた電報

エホバの証人たちがもっとも悲惨な目に遭ったのは、ナチス・ドイツが折

したヨーロッパだった。1933130日、ヒトラーがドイツの首相になると、

同年4月に、ナチ当局は教会の事務所と工場を占拠、なつまでにはドイツの大

多数の州でエホバの証人の活動は禁止された。証人たちの家は定期的に捜索さ

れ、多くの証人たちが逮捕され、収容所にぶち込まれた。残った証人たちは地

下に潜った。翌34107日、世界中の支部からドイツのエホバの証人を支援

するために、ヒトラー政府宛に次のような電報が送られた。

 

「エホバの証人に対するあなたの政府の虐待ぶりは地上の善良な人々すべてに

衝撃を与え、神の御名を辱めています。エホバの証人をこの以上迫害するのを

やめなさい。さもなければ、神はあなたとあなたの党を滅ぼされるでしょう。」

蛮勇としか言いようのない電文である。この内容がどれだけ衝撃であったか

は、当時、この電報の受付を求められたヨーロッパ各国の郵便局が、電文を打

つことを拒絶したことからも明らかである。しかし、いくつかの電報は確実に

ベルリンに届いた。この電報を受けたヒトラーの反応を、ルーデンドルフ将軍

の全権大使でナチに反対したカール・R・ウィティグは次のように記している。

「私がフリク博士(内務大臣)と話し合っていると、突然ヒトラーが現れ、私た

ちの会話に加わり始めた。そして、必然的に私たちの話し合いの中で、ドイツ

の国際聖書研究者協会(エホバの証人)に反対してそれまで講じられてきた処置

のことが取り上げられたところ、フリク博士は聖書研究者に対する第三帝国の

迫害にこうする多数の電報をヒトラーに示すと、かれは「もしこれら聖書研究

者が直ちに我々に従わなければ、我々はもっとも強力な手段を講じて彼らに反

対してみせる」と述べた。その後、ヒトラーは急に立ち上がるなり、両のこぶ

しを握り締めてヒステリックな声で、「このやからをドイツから抹殺させてや

!」と絶叫した。その話し合いをしてから四年たった後、私はザクセンハウ

ゼン、フロッセンブルグまたマウトハフゼンのナチ収容所の地獄のような場所

で、保護拘禁された七年間にわたり━私は連合軍の手で開放されるまで監禁さ

れていたが━自ら観察した事柄によって、ヒトラーの爆発させた怒りは単なる

むなしい脅かしではなかったということを確信できた。」

前述の強制収容書の囚人グループの中で、聖書研究者たちが受けたような仕方

で、親衛隊の残虐な仕打ちにさらされたグループは一つもなかった。それは絶

え間ない身体的また精神的拷問の連続で特徴づけられた残忍な仕打ちであり、

この世の言葉をもってしては言い表しようのないものであった。この電報が送

られた数日のうちに、ゲシュタポは142人のエホバの証人を逮捕した。ドイツ

のエホバの証人を支援しようと送られた電報は、当然のことながら大いなる逆

効果となったわけである。

 

組織拡大路線と明石の除名

こうしたヨーロッパでの弾圧に比べると、日本のエホバの証人たちは比較的穏

やかな扱いを受けている。皇国思想に対してあまりにも思想的文脈の違うキリ

スト教ファンダメンタリズムに対峙して、当局もいささか困惑したのであろう

か。昭和2010月、戦争を否定し抜いた明石順三は、占領軍の命により府中刑

務所から解放されたことは先にふれた。彼は米軍ワッチタワーの現状を知ろう

と資料を取り寄せ,その内容に激しい怒りを覚える。この三年間に二代目会長

のラザフォードが死に、副会長であったネイサン・H・ノアが三代目会長にな

った。ノアは教義の整備、伝道の強化と海外布教の本格化に力を入れる「組織

拡大路線」を展開し、1938年には約6万人でしなかった信者の数を、ノアが死ん

77年には211万人にまで飛躍的にのばした。その組織拡大路線の目玉が、エ

ホバの証人のエリートを養成する機関として設立された「ものみの塔レアデ聖

書学校」だった。初期の卒業生たちは、会衆が一つもない国へと派遣されてい

っては、次々に会衆を作り上げた。明石は七か条からなる長文の批判書を会長

あてに送り、公式の弁明を要求した。最後の七条目が、ギレアデ学校に対する

批判だった。

七 所謂(いわゆる)「ギレアデ神学校」の建設は聖書の示すところと絶対に背反

逆行せり。

 

ギレアデ学校での教育は、定められた基準に従い一定の「規格品」を作り出すだ

けのもので、真のクリスチャンを製造することはできないと反対した。この批

判の背景には、ものみの塔本部が組織拡大路線のために、宗教的な内実を見失

いかけている、という彼の深い洞察があった。痛烈な批判を浴びた本部は,

かし一言も弁明することなく,明石を高慢であり,不謹慎な者と決め付け,ノア会

長による除名の通知状を送ってきただけだった。明石順三はエホバの証人であ

ることをやめ、日本のエホバの証人が、もっとも輝いていた日々は、このよう

にして終わりを告げた。

 

道教  道教は弥生時代に日本列島に伝わっていた !

弥生時代は稲作の時代である。日本列島に住む人々の日常の暮らしのリズム

が、稲の生育に合わせてできあがったのはこの時代だった。稲作文化という新

しい文化が生まれた時代だった。稲作は稲籾(いねもみ)と栽培技術だけが伝わ

ったのではない。稲作にたずさわる人たちも、当然一緒にやってきた。それも

ただいちどだけではない。数多くの稲作農民が、それこそ打ち寄せる波のよう

に、日本列島にたどりついたことだろう。埴原和郎・東大名誉教授(人類学)

ように、百万単位の渡来人を推計する人までいる。こうしてやってきた人々

が、それまで暮らしていた地域の風俗習慣を持つ込んだことは、ごく自然のこ

とだった。渡来人の数が多かっただけに、先住の人々の生活も激変させた。当

然ながら信仰やそれにともなう祭祀も、弥生時代になって大きく変わったこと

と思われる。自然を畏怖するとともに、その恩恵に感謝して暮らしてきた縄文

人たちとは違った思想が形づくられたとしても不思議ではない。弥生時代に稲

作とともに日本列島に広まったものの中に、新しい信仰もあったはずである。

その中には中国で生まれた道教も含まれていたことだろう。弥生時代の後半に

当たる漢代末の中国では、道教が組織化され、教団としての大きな力を持ちは

じめた時期だからである。多くの学者は、この時期の道教を「道教的宗教」とか

「原始道教」などと呼ぶようだが、道教であることには変わりはない。この道教

は中国古来の土俗信仰を基にして生まれ、時代とともに内容を変えつつも受け

継がれてきた、伝統宗教である。しかし、日本の歴史書には、日本に道教の僧

侶━道士がやってきたとか、布教活動の拠点となる道観を作ったという記録は

ない。さらに、道教の渡来を示す遺構遺物といった物的証拠もないと考えられ

てきた。そんなことから、日本列島に道教は渡来しなかったとみるのが、これ

までの定説だった。やっと近年になり、日本にも道教信仰がかなり広範囲にい

きわたっていたと認める研究者も現れはじめた。その道教が、日本列島にはじ

めて伝わったのが弥生時代だったのである。弥生時代の日本列島に、道教が伝

来していたと主張したのは、福井大学教授だった重松明久氏(故人・後に広島

大教授)である。重松氏は、1969年に刊行された「邪馬台国の研究」(白陵社)のな

かで、邪馬台国の女王・卑弥呼と道教のシャーマンだと指摘した。「魏志倭人

伝」には卑弥呼のことを、「鬼道に事え、能く衆を惑わす」と記されているが、

この鬼道が道教のことだというのである。日本文化の基層に道教思想のあるこ

とを精力的に論及している福永光司氏(元京大教授・中国思想史)は、鬼道につ

いて次のように紹介している。「病気になったり生命の危険な状態に置かれた

りしたときに,己の身を安全に守ってくれるように祈祷し祈願する,こういった

呪術祈祷が道教の一番古い層としてあって、それが鬼道と呼ばれる」(道教と

日本思想 人文書院)。重松氏はまた、「魏志倭人伝」が倭の得意な習俗として

紹介している「持衰」を、道教の臨時祭りにみられる「塗炭斎」と結びつける。持

衰とは、航海安全のために髪や髭は伸び放題、汚れた衣服をまとい、肉食や女

性をさけた生活をする神官的人物のことである。一方、塗炭斎という祭りで

は、参列者は斎師を先頭にして、櫛を抜き、髪を乱し、顔を炭で塗り、地面を

転げ回って贖罪の意を現すという。この持衰と塗炭斎は同一思想に基づくもの

だと重松氏はいうのである。先に、最近になって、卑弥呼の鬼道は道教のこと

だと認める学者が多くなってきたことにふれた。しかし私は、卑弥呼だけが道

教を信仰していたのではないと思う。倭国が乱れた後「卑弥呼を共立」してか

ら、やっと国が治まったというのは、それだけ卑弥呼と信仰を共有する人々が

いたからである。これには文献の解釈だけではなく、物的資料もある。「魏志

倭人伝」にある卑弥呼が魏の皇帝から「汝の好物」として、百枚の銅鏡をもらっ

たという記載は有名である。邪馬台国論争に少しでも関心を持つものには、周

知のことだ。織物や刀、金、真珠などのおみやげとともに、この銅鏡を「持ち

帰ったら国の人に見せなさい」といってプレゼントされている。百枚の鏡は、

その数が多いことから,出土銅鏡のうちで,どれがその「卑弥呼の鏡」かを確定で

きれば,邪馬台国の所在地が判明するとして,昔から論争が続いている。それは

さておき、問題はなぜ百枚もの大量の鏡なのかということである。あまりにも

数が多い。倭人は中国や朝鮮半島の人に比べ、鏡を特別に好んだことだけは確

かなようだ。中国や朝鮮半島では、鏡はひとつの墳墓から多くて二、三枚しか

出土しない。それが日本列島では、墳墓の副葬品として三十枚を超える鏡が出

土するのも決して珍しくはないのである。なぜこれほどまでに、倭人は鏡を好

んだのか。私はその謎を解く鍵は、四世紀の道教経典「抱朴子・内篇」の登渉篇

の次の記載にあると思っている。

「万物で年老いたものは、その精が人間の姿をかりて、人の目をくらまし、肝

試しをしかけてくる。しかし、鏡の中では正体を変えることができない。だか

ら、昔、山に入る道士たちは、直径九寸(二十センチ)以上の鏡を背中に吊るし

ていた。」

このように鏡は、化け物の化けの皮を剥がす必需品だったのである。「抱朴

子」は、江南道教の聖地、長江右岸の江蘇省句容県の芽山で修行した葛洪(

っこう284~363)がまとめた書物である。おそらくこの思想は、稲作文化ととも

に江南から日本に伝えられたのだろう。私自身は、稲作は朝鮮半島経由だけで

なく、江南から直接やってきたルートもあったと考えている。それを裏付ける

資料には事欠かない。19956月に大阪南部の池上曾根遺跡で、直径二メート

ルもある一世紀のくりぬき井戸が発見された。古代の北東アジアの近隣地域で

くりぬき井戸が発見された。古代の北東アジアの近隣地域でくりぬき井戸があ

るのは江南だけだといわれている。倭人が道教を信仰していたことを示す、今

ひとつの物証は三角縁神獣鏡である。「卑弥呼の鏡」説もある鏡で、すでに数百

枚は出土している。この鏡が、「卑弥呼の鏡」かどうかは別にして、鏡に鋳出さ

れた出品神仙や神獣などの図柄がたいへんもてはやされたことだけは間違いな

い。そのモチーフは道教の根幹となった神仙思想である。

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