量子力学が語る世界像  

直進する電子

まず最初は、電子が一つ、まっすぐに飛んでいるという一番単純な現象を考えて

みよう。量子力学以前の考え方だったら、電子は単なる粒子だから、周囲から影

響を受けなければまっすぐ飛んでいくのは当たり前である。実際、ある方向に打

ち出された電子がそのまままっすぐ飛んでいくことは、実験でも簡単に確かめら

れる。テレビのブラウン管の原理がまさにそれで、電子のビームを狙ったところ

に当て、画面を発光させている。しかし電子が波だとしたら、この当たり前の現

象をどのように説明したらいいだろうか。まず、電子が水面の波のような、(量子

力学的な波でなく)普通の波だったとしよう。その場合、「直進する粒子」のような

波とは、水面で一箇所だけ飛び出た部分が、まっすぐ動いている状態を考えれば

よい。まっすぐ動いている電子の波も、このようなものである。このような水面

の波は、まもなく広がっていき形が崩れてしまう。電子の場合も、時間が経過す

れば形は次第に崩れていくが、少なくとも、われわれが実験室で観測する程度の

距離ならば、形が崩れないことを計算で示すことが出来る。これが、電子を単純

な波と考えたときの説明である。ではさらに話を進め、「電子の波とは、共存する

無数の状態の共存度を表している」という立場にたって、この現象をいい直してみ

よう。

6-1の灰色の部分に、ある時刻で電子の波がたっていたとする。つまり、この部

分のどこかに電子がある状態が、電子がその他の領域にある状態に比べて共存度

が大きいということである。そして一秒後(これを「現在」とする)には、波が右の

実線の部分に移動したとする。この時刻では、電子が実線の中にある状態の共存

度が大きくなっている。例として、電子がOにある状態を考えよう。この状態の

現在の共存度は、前章で説明したように、AからOに移るという歴史、BからO

移るという歴史、それらすべての歴史の寄与の和できまっている。そして現在、

電子がOにある状態の共存度が大きいのは、それらの寄与が足しあわさって大き

くなっているからである。しかし点線からはずれているO´に電子がある状態の

現在の共存度は、小さい。電子が直進しているのならば、つまり、電子の共存度

が大きい領域が直進しているのならば、そうなっているはずである。しかし、ど

のようなメカニズムによりそのような状況が実現するのだろうか。ここで重要な

のは、AからO´に移るという歴史、BからO´に移る歴史の寄与は、一般にプラ

スになったりマイナスになったりすることである。Aにある状態、Bにある状態の

共存度が、前にも述べたようにプラスになったりマイナスになったりするためで

あり、また、AからO´、あるいはBからO´に動く経路に対応する数がプラスに

なったりマイナスになったりするためでもある。そして現在、電子がO´にある

という状態の共存度を計算するには、最終的にはO´にいたるすべての歴史の寄

与を加えあわせなければならないから、すべてを足したときにプラスの数とマイ

ナスの数が消しあって、結果がゼロになってしまうことがありえる。つまり、波

が直進する方向では各歴史の寄与が強めあい、その他の方向では消しあうという

ことにうまくなっていれば、波は結果として直進することになる。そして、それ

が可能であることは、数式を使って証明することが出来る。力を加えなければ電

子はまっすぐ進むということは、誰でも知っている当たり前のことだが、これは

量子力学によって説明しようとすれば、このような回りくどい説明になる。この

例では、現象があまりにも単純なので説明が回りくどく感じられるが、次に、現

象が非常に量子力学的であり、量子力学的に考えなければ理解できないという例

を取り上げよう。

 

二スリットの干渉実験

板に二つのスリットを、隣接してあけておく。そして左側から、電子を一つ打ち

込む。その電子が、板の右側においたスクリーンのどこに到着するかを観測す

る。この実験を何度も繰り返し、各実験で電子が到達した位置をスクリーン上に

点で印すと、縞模様になるという現象であった。水や光の波立ったら、両スリッ

トからもれてくる並みの干渉により、このような縞模様が現れるのはなんとも不

思議なことではないが、電子一つずつの実験を繰り返したとき、なぜ同じような

模様が現れるのかということが問題なのである。この現象を経路積分の考え方を

使って、量子力学的に説明してみよう。これは電子というミクロな対象だけがか

らんだ話だから、コペンハーゲン解釈でも多世界解釈でも話は変わりはない。ま

ず、左から電子が一つ打ち込まれたとする。電子は一つ直進しているだけだが、

それでも今も述べたように、電子がさまざまな場所にある状態が無数に存在して

いる。そして板に衝突してしまう歴史もあるし、どちらのスリットを運よく通り

抜ける歴史もある。ともかくも、電子がスクリーン上のOにたどりついたという

状態を考えてみよう。

6-2その世界の共存度は、スリットAを通り抜けたという歴史、及びスリットB

通り抜けたという歴史の二種類の寄与の和である。スリットを通ってからOにた

どりつくまでにもいろいろな可能性があるが、それはいちいち区別しないことに

する。また量子力学的に考えると、トンネル効果という、穴のあいていない部分

を電子がすり抜ける可能性も完全には否定できないのだが、その寄与はきわめて

小さいので、ここでは考えない。スリットAを通り抜けてスクリーンに到達した

という歴史の寄与、スリットBを通り抜けてスクリーンに到達したという歴史の

寄与はどちらも、スクリーン上の場所によって、その値が変化する。それも、プ

ラスになったりマイナスになったりする。どちらもプラス、あるいはどちらもマ

イナスだったら、足すと強めあう。しかし、片方がプラス、もう一方がマイナス

だったら、足すと弱めあって値がゼロに近づき、場合によっては完全にゼロにな

る。実際、非常にゼロに近くなる点が、スクリーン上に周期的に、繰り返し並ん

でいる。このような点に電子が到達した状態の共存度は、きわめて小さいのだか

ら、電子の位置を観測しても、そこに観測される可能性は小さい。より正確な表

現をすれば、電子がその位置に観測された状態の共存度が、きわめて小さいとい

うことである。共存度が特に小さくない点では、そこに電子が発見される可能性

は常にあり、一回の実験では(観測者である)あなたにとって、そのどれが実現され

ているかは分からない。多世界解釈的な表現をすれば、そのどの世界にもあなた

は住んでいる。しかし、実際に認識できるのは一つの世界である(認識するという

こと自体も一つの世界の中の現象だから、一つの世界しか認識できないのは当然

である)。だから、あなたが電子の位置を観測したとき、共存度がきわめて小さく

ない限り、そのうちのどの自分を認識するのかはまったく分からない。

一つの電子に二つの過去がある

しかし同じ実験を何度も繰り返したとき、各実験ごとに電子が同じ場所に発見さ

れるという理由は何もない。実験が違えば、飛んでくる電子も異なるからであ

る。それらは、可能性のある位置のどこかに発見されるが、少なくとも共存度が

ゼロになるような位置には、何度実験をしても発見されることはない。共存度が

「ほとんど」ゼロとなる位置にも、発見される可能性はほとんどない。そして、そ

のような位置にはほぼ周期的に並ぶことが計算すると分かる。だから、何度も実

験を繰り返すと、電子の発見位置は縞模様になるのである。縞模様が現れるとい

うこと自体は、水の波、光の波でも起こる。しかしこの現象がきわめて量子力学

的であるのは、電子は一つずつしか飛んでこないのに干渉が起きるという点にあ

る。異なった電子が干渉を起こしているのではない。スクリーンに到着した電子

は一つでも、それまでの歴史には二種類あり、それが干渉しているのである。こ

れは、一つの電子に対して多数の状態が共存しており、しかもそれらが互いに移

り変わりあい、強めあったり弱めあったりするから可能なのである。一つの物体

には一つの歴史しかないという従来の物質観では、絶対にありえない現象であ

る。

 

人間には複数の過去があるか

このように、一つの粒子にも複数の過去があるというのが、量子力学の特徴であ

る。電子や原子核などの粒子に複数の歴史があるならば、それらから構成されて

いる物体、あるいは人間にも複数の歴史があるのだろうか。自分の子供時代が二

通りあったなどということが、ありえるのだろうか。もちろん、そんな馬鹿な事

があるわけはないしかしそれならばなぜ、電子に対しては歴史が複数あったった

のに、それが構成されている人間には複数の人生がないのだろうか。量子力学が

自然の基本法則であるならば、この一見矛盾することをうまく説明しなければな

らない。実はこのような問題になると、量子力学をどのように解釈するか、コペ

ンハーゲン解釈をとるか多世界解釈をとるか、あるいはその他の解釈を考えるか

により、答えが異なってくる。そこでこの問題を詳しく議論し、量子力学の解釈

問題について考えてみることにしよう。複数の人生などというと話がややこしく

なるので、もっと単純な設定を考える。

 

壁で仕切られている二つの部屋がある。向こう側に人がいて、こちらに来ようと

する。壁には二つのドアがあり、どちらを通ってもこちらに来られる。彼は、一

分後にはこちらの部屋に立っていたとする。ドアAを通って来たのかもしれない

し、ドアBを通って来たのかもしれない。この二つの可能性は干渉を起こすだろ

うか。彼の身体には縞模様が出来るのだろうか。もちろんそんなことはありえな

い。ドアAを通ったのならあくまでもドアAを通ったのであり、ドアBは通ってい

ない。二つの過去が共存していることなどありえない。しかし規模の大小はあっ

ても、電子の二つのスリット干渉実験と、基本的な設定は同じである。どうして

電子は複数の過去をもてるのに、人間はもてないのだろう。実はその解答は、人

によって異なる。コペンハーゲン解釈解答もあるし、多世界的回答もある。それ

以外にもあるかもしれない。こんな単純な問題に対して意見が一致していないと

いうと、読者には驚きだろうが筆者にも不思議である。たとえば徹底的なコペル

ハーゲン解釈だったら、どう解答するだろうか。いまさらボーアに直接聞くわけ

にも行かないので想像だが、「人間とはマクロな物体なのだから、波と考えるこ

と自体が間違っている」と答えるかもしれない。あるいは仮に涙と考えたとして

も、「人間がどちらかのドアに向けて歩き出した途端、「波の収縮」が起こってそ

ちらのほうへ進んだことが確定してしまうので、干渉が起きるはずがない」とい

った解答になるのかもしれない。コペンハーゲン解釈で主張されるように、電子

の位置を測定器で観測した瞬間に波の収縮がおきるのだとすれば、同じ意味で人

間が動いた瞬間に波の収縮が起きるというのも辻褄があった話しではあろう。ま

た人によっては、この問題の設定そのものが誤っているというかもしれない。人

間の意志というものは一つであって、右のドアを通ろうとする意思と、左のドア

を通ろうとする意思が共存するはずがない。もともと共存していないのだから、

干渉が起こるはずがないという意見である。しかし、電子の世界と結びつけて考

えると、共存させることもある意味では不可能ではない。たとえば電子を一つ、

箱の中に入れておく、電子は箱の中で波のようにふるまうので、たとえば電子が

左半分にある状態と、右半分にある状態とは共存している。次に、電子の位置を

何らかの方法で観察したとしよう。そして電子が左半分に発見されたら、左のド

ア、右半分に発見されたら右のドアを通ることにする。そうすれば、電子の状態

が二種類共存しているのだから、それに対応して人間についても、左のドアを通

過した世界と、右のドアを通過した世界が共存していることになるのではない

か。「いや、そうではない」と、コペンハーゲン論者はいうだろう。電子を左右

どちらかに観測した瞬間に波の収縮が起こり、その後は二つの世界は共存してい

ないのだと。ともかくコペンハーゲン解釈に舌が場、人間が二つの意思を持つこ

とが出来ようが出来まいが、どこかの段階で波の収縮が起きるので状態の共存は

なくなり、干渉も起きないという結論になる。勿論これはこれで辻褄のあった話

ではあるが、波の収縮という人為的な操作を導入しなければならないという点

で、多世界解釈論者には不満の残る解答である。

 

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多世界解釈による解答=共存はしているが干渉しない

波の収縮を仮定しないとすれば、今述べたように、左のドアを通過した世界と右

のドアを通過した世界の、共存の可能性は避けられない。そこで、「共存はしてい

るが干渉しない」理由があれば、問題は解決した事になる。多世界解釈でもその方

向で考える。そしてその解答が、「なぜ多世界解釈では波の収縮を仮定する必要が

ないのか」という、第三章で取り上げた根本問題に答えることにもなる。まず、そ

もそもどのような状況で干渉が起きるのかということを、考え直してみよう。二

スリットの干渉実験を再び考える。そこでは、スリットAを通ってスクリーン上

の点Oに到達するという歴史と、スリットBを通ってスクリーン上の同じ点Oに到

達するという歴史が干渉した。つまり途中の毛色が違っても、最終的には同じ状

態になったので、足しあわせなければならず、その結果、干渉ということが起き

るのである。ここで重要なのは、「最終的には同じ状態になる」という点である。

ここで、第四章で述べた多世界解釈の考え方を思いだそう。多世界解釈とは、電

子であろうと測定器であろうと、それを見ている人間であろうと、すべてをひと

まとめに一つの世界(状態)とし、量子力学の対象としてあつかおうとする考え方で

あった。そして干渉を起こすには、「最終的に同じ状態」にならなければならない

のだから、多世界解釈で考えると、電子、測定器、人間すべてが、同じ状態にな

っていなければ、異なった過去をもっている複数の世界が干渉を起こすことはな

い。二スリットの干渉実験だったら、電子は真空中を何も影響されないで飛んで

いくという設定なので、電子のことだけを考えればよかった。電子がどちらのス

リットを通ろうが、他のものは何も影響されない。したがって、スクリーン上の

同じ点に到着したとすれば、途中の経過は何であろうが、最後は同じ状態におさ

まる。しかしもし飛んでくる途中に何かがあって、そこに何らかの痕跡を残すと

すれば、経路の違いにより残された痕跡が異なってしまう。したがって干渉は起

きない。これが、多世界解釈の基本的な考え方である。つまり、電子単独で状態

を考えてはいけない、世界中のすべてのものをひとまとめにした状態を考え、そ

れが一致しているときのみ共存度を加えるという原理である。この立場にたっ

て、再び人間による「二ドア干渉実験」を考えてみよう。何も難しいことを考えな

くても、人間があちらの部屋からこちらの部屋にやってくるまでには、至るとこ

ろに痕跡を残してくることはわかるだろう。床を踏むたびに床の原子は押される

し、空気は撹乱される。右足と左足でのエネルギー消費量の比率は道筋によって

異なるし、脳の中の記憶も完全に拭い去ることは出来ない。つまり、右のドアを

通ってきたという歴史を持つ世界と、左のドアを通ってきたという歴史を持つ世

界は、確かに共存はしている。しかしそれはまったく異なった世界であり、共存

度もそれぞれ独立に計算すべきものである。干渉などありえないし、二つの過去

を持っている単一の状態(過去が異なるのに、すべての痕跡まで含めて等しくなっ

ている状態)をつくることなど絶対に不可能なのである。電子一つに対しては複数

の過去を考えることは出来るが、一人の人間に複数の子供時代がありえないの

も、理由はまったく同じである。

 

多世界の存在

以上が、多世界解釈ではなぜ波の収縮を仮定しなくてよいのか、その基本的な理

由である。そしてなぜこの解釈を「多」世界解釈と呼ぶのかということも、この議

論からわかってもらえるのではないかと思う。電子の世界が、共存する無数の状

態により表されるということは、量子力学の基本原理であり、これはどの解釈で

も変わりはない。共存し、互いに干渉しあいながら移り変わるということが量子

力学の根本であり、だからこそ従来の古典力学では解決できなかった問題を、解

くことが出来たのである。しかし電子を観測したとき、共存する複数の状態がそ

れぞれマクロの世界まで反映し、マクロの世界でも複数の状態が共存しているこ

とになるのだろうか。もちろん日常のマクロの世界が多数あるなどということ

は、我々の実感とは相容れない。コペンハーゲン解釈では、「観測のときに波の収

縮ということが起こるので、マクロの世界は必ず一つしかない」と主張する。しか

しこれでは、マクロの世界が一つしかないということを説明するために、ほとん

ど同じことを意味する「波の収縮」という仮定をもちだしているに過ぎないという

感じもする。多世界解釈では何も仮定しない。したがってマクロの世界でも複数

の状態が共存している。しかしそれは互いに干渉することのない、別個の世界で

ある。電子のレベルであったら、複数の状態は互いに干渉することにより影響を

及ぼしあっている。したがって、複数の状態全体で一つの電子の世界を表してい

るといったほうがいい。しかしマクロの世界では、共存する状態は互いに無関係

である。何の影響もないのだから、他の世界の存在が実感されることもありえな

い。独立かつ無関係な世界が「多数」存在することになる。これが「多世界解釈」と

いう言葉の由来である。

 

シュレデンガーの猫

ここで、量子力学の解釈論争でよく話題になる、「シュレディンガーの猫」という

話をしよう。これは多世界解釈が登場する以前、コペンハーゲン解釈者内部で論

争になった話である。実は多世界解釈で考えれば、これは不思議でもなんでもな

いテーマなのだが、量子力学の解説では必ず出てくる話題であるし、またコペン

ハーゲン解釈と多世界解釈の自然観の違いを浮き立たせる問題でもあるので、こ

の章の最後に解説しておこう。これもやはり「波の収縮」に関する話であるが、「厳

密にいって、いったいどの時点で波の収縮が起きるのか」ということにからんだ問

題である。電子の世界では、複数の状態が共存している。しかし電子を観測する

と、その時点での電子の状態は、観測された状態それしかなくなってしまうとい

うのが、波の収縮である。では厳密にいって、波の収縮は観測のどの段階で起き

るのだろうか。観測というものは、いくつかの段階を経て完成する。まず電子が

測定器のどこかの部分と反応する。その反応の微小な信号が伝達され、大きな信

号に増幅される。そしてそれが測定器のメーターを動かす。その結果が、光によ

り人間の目に伝達される。目からの信号が脳に伝えられ、人間が測定器を意識す

る。この連鎖のうちいったいどこで、波の収縮が起きるのだろうか。コペンハー

ゲン解釈の主催者であるボーアがこの質問に明確に答えたかどうかは知らない

が、おそらくミクロの信号がマクロの信号に増幅される段階で起きると答えるの

ではないかと想像される。彼は、マクロの世界は量子力学では十分記述できない

と考えていた節がある。しかし、マクロの世界も原子から構成されているのだか

ら、ミクロの世界と同様の量子力学の原理で記述されるべきであると考える人も

当然いた。つまり信号がマクロになったとしても、それだけで特別なことが起き

るはずがないという考えである。そして、それでも波の収縮が起きなければいけ

ないのだとしたら、それは情報が人間の意識に到達した段階でしかありえないと

いう結論になる。つまり、人間の意識がからんではじめて、世の中で何が起きて

いるかが決まるという見方である。この考えが正しければ、自然界の基本法則で

あるはずの量子力学が、人間の主観の存在を前提とした観念論的な法則であると

見なされてもしかたがなくなる。しかしこれに対しても疑問を投げ掛ける人は多

かった。その一人がシュレディンガーで、この考えの奇妙さを浮き立たせるため

に彼が提出したのが、今から述べるシュレディンガーの猫という話である。ま

ず、密閉した箱の中に猫と放射性原子核を入れておく。放射性原子核とは、粒子

(電子だったり中性子だったりする)を放出する可能性を持った原子核である。ただ

し、いつ粒子が放出されるかはわからない。まったく同じ原子核であっても、実

験をはじめてすぐに放出されるかもしれないし、なかなか放出しないかもしれな

い。その時期は確率的のみしか予言できない。これも、量子力学で考えれば不思

議ではない。さまざまな電子の位置に対応して複数の世界が共存しているのだと

説明してきたが、今の場合も、粒子放出前の原子核、放出後の原子核という二つ

のタイプの状態が、常に共存していると考えればよい。そして時間が経過する

と、放出前という状態の共存度が減り、放出後という状態の共存度増えていくの

である。ところで粒子の放出は、粒子検出器で確認することが出来る。そこで、

粒子検出器が粒子を確認すると、密閉した箱の中の毒ガスのピンが自動的に破裂

し、猫が死ぬようになっているとしよう。猫を持ち出したのはもちろん、話を印

象的にするために過ぎないが、問題は、放出前、放出後という原子核の状態の差

が、猫が生きているか死んでいるかという、マクロな物体の違いに転化されたと

いう点にある。ここで、波の収縮が(もし起きるのだとしたら)いつ起こるかという

ことが問題になる。そして、もし波の収縮が人間の意識によって起きるならば、

人間がこの箱をあけ、中を確認するまでは、生きている猫と死んでいる猫という

二つの状態が共存していることになる。しかし生きている猫と死んでいる猫が共

存しているなど、受け入れがたいというのがシュレディンガーの主張であった。

結局、波の収縮がどこで起きると考えても納得のいく解釈にはならないというの

が、コペンハーゲン解釈を内心好んでいなかったシュレディンガーの本音だと思

う。ところで、この話を多世界解釈で考えたらどうなるだろうか。答えは単純で

ある。多世界解釈では、複数の宇宙の共存さえも受け入れるのだから、猫の生死

など取るに足らない問題である。生きている猫と死んでいる猫という二つの状態

は共存しているし、その箱を人間がのぞきこんだ後では、人間が生きている猫を

見たという状態と、人間が死んでいる猫を見たという常態が共存している。しか

し共存していても、状態の違いがマクロなので互いに影響を及ぼしあうことがな

い。まったく無関係なのだから、いくら日常感覚とはかけはなれた話だとして

も、なんら問題はないという結論になる。

  人間の意識も自然現象の一つである

このように多世界解釈では、「シュレディンガーの猫」というのは取るに足らない

話になってしまう。しかし自然観の問題として考えると示唆的な面もある。コペ

ンハーゲン解釈、それもとくに、波の収縮が人間の意識によって起きるという考

えでは、人間の意識という主観的なものまで持ち出さなければ、自然現象の記述

が完結しない。通常、客観的なものだと思われている自然の法則に、観念論的な

要素が入っている。しかし多世界解釈ではそうではない。人間が意識しようがし

まいが、どのような世界が共存しているかは、客観的に決まっている。共存する

世界がどのように発展するかは、シュレディンガーの理論、あるいはファインマ

ンの経路分析の計算により、完全に記述される。もちろん、共存している世界の

うちあなたがどの世界を認識するか、別の言い方をすれば、あなたがどの世界で

認識しているかは、決まらない。その共存度がゼロでない世界が多数あるかぎ

り、選択は偶然で決まる。サイコロを一度ふったときに、どの目がでるのかは偶

然で決まるのと同じことである。何度か繰り返せば何らかの法則は見えてくる

が、あなたが「ある時刻にあることを認識する」という現象は、宇宙の全歴史の中

で一度しか起こりようがないことだから、その結果は偶然でしか決まらない。だ

からといって、偶然、あるいは人間の意識というものに、自然の法則が依存して

いるわけではない。どの世界が意識されようと、各世界の共存度にはなんの変わ

りようもないからである。たしかに、人間は共存するすべての世界を認識するこ

とはできない。どの世界を観測することになるかは、偶然で決まっている。しか

し、意識というのも世界の中で起こっている自然現象の一つなのだから、それが

共存する世界の一つ一つに、個別に所属するのも止むをえない。人間は、世の中

すべてを見通せる神ではないからである。むしろ人間の意識でさえ、世の中で特

別の意味をもたない自然現象のひとつと考えるからこそ、このような結論にな

る。複数の世界が共存しているなどというと、一見、超自然現象的、観念論的な

イメージをもつかもしれない。しかし実際には逆で、多世界解釈とは量子力学を

人間の意識とは切り離し、世界をきわめて唯物論的にとらえた考え方なのであ

る。

共存し、互いに干渉しあいながら移り変わるということが量子力学の根本はその

まま自然観に当てはまるのではないだろうか。力でもって制圧しようとしている

国家あるいは現在進行中のアメリカなどはこの自然観から離れているため、やが

て根本方針を変更しなくてはならないときがやってくる。夫婦でもお互いに干渉

しなくなってきたら夫婦間は崩壊していると見るべきである。家族・市町村・都道

府県・日本国・世界と規模は違えども環境は同じである。お互いに違う(文化・性

)ということをわきまえた上で尊厳ある対応をしない個人・グループはやがて自

然淘汰されることになるのは時間の問題である。競争原理を働かしながら共存共

栄を図る方針に切り替えることが必要な時期となったのである。夢の中で夢であ

ることに気がついている自分を見ている自分自身、すなわち内在している自分自

身が本当の自分であり、それを赤ちゃん戻り(喜怒哀楽だけのシステム)といい、人

類共通のシステムでありパソコン用語で言えばDOSにあたる。右脳優先のシステ

ムにすることによって本来の自分自身に戻ることによって、やがて家族へ市町村

へ国へと広がっていくのを願っている次第であり、伝達することが私の仕事であ

ると思っている。

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