心がここまでわかってきた

「人間の心は脳の中の化学物質によって生まれる」と断言したら、多くの人は驚

くに違いない。私の心はモノなんかじゃないそんな反論が殺到するだろう。し

かしこれは、まぎれもない事実である。結論だけを強調しているが、嘘ではな

い。心が脳内の物質から生まれる過程をわかりやすく説明し、脳と心の最新の

姿を知っていただくのが本書の狙いである。ところで、最初に確認しておきた

いことがある。心はどこにあるのか誰でも一度は考えたことがある謎である。

少女漫画のように「こころはハート型で心臓に宿る」と信じている人はさすがに

もう居ないだろうが、「脳に心のすべてがある」と断定されると、首をかしげる

人も多いに違いない。昔の人も同じように悩んだらしい。ギリシャ時代には、

命の根源である蒸気のような「気息」が感情や思考力を生むと考えられていた

し、十七世紀フランスの哲学者デカルトは、「人間の体は時計と同じような機

械であり、心はそれとは根源的に異なるもの」と心身二元論を主張した。しか

し、いわゆる近代科学は、そのデカルトの二元論を否定する形で進んできた。

心は人間の脳から生まれるこれが現代科学の大前提であり、結論である。「脳

━体」とまったく別のものとして、「心」が存在することはなく、脳を物質的に

調べていけば、やがて、心の全容も解明━これが現代科学者の多くは、このよ

うな心身一元論の立場で研究を続けている。このような一元論的なアプローチ

によって、二十世紀に入って、脳科学は飛躍的な進歩をとげた。特に1970年代

以降の発展には素晴らしいものがある。PET「陽電子放射断層撮影」やMRI

「核磁気共鳴断層撮影」といったハイテク機器の登場で、脳を傷付けることな

く脳内を観察することも可能になったからである。その結果、心は脳活動の産

物であり、心は脳内物質から生まれることが、科学の言葉で説明できる見通し

がついてきたのである。もちろん分からないことはまだまだ多いが、本書で

は、脳から心がどのように生まれてくるのか、そのもっとも新しい姿を紹介し

たいと思う。あと数年に近づいた二十一世紀は心の時代になるといわれてい

る。それは今世紀があまりにも物質文明の枠の中で、来世紀の目標である心を

考え、解いておくのも無意味なことではない。現在の物質文明が作った枠のひ

とつは自然科学であり、その中では物理化学は大きな成果をあげた。1953年、

地球生命の根源であるDNAの情報が、アデニン、チミン、シトシン、グアニン

という四つの科学分子(塩基)の組み合わせで出来ていることの発見など、その

最たるものであろう。そして、物質(分子)レベルからの解明は、心そのものに

及びつつある。前期のように、脳の内部活動を、脳に何の危害も加えることな

く直視できるようになり、加えて分子研究の進歩によって、人間の脳内の化学

物質の活動が、直接追跡できるようになった。その結果、すなわち心の変化

が、分子レベルで追えるようになったのである。その結果、食欲や性欲といっ

た動物(人間)が本能的にもつ()が生まれる仕組みがほぼ解明され、心の一部分

である(喜怒哀楽)といった感情の動きも、化学物質の働きとして分かり始め

た。さらに、脳内の一つ一つの神経の働きや、その連絡をする科学分子(ホルモ

ン・神経伝達物質)の役割が突き止められたりしているのである。素晴らしい技

術の進歩だ。このような脳内の化学物質の解明は、心の病いわゆる精神病の治

療にも光明を見出した。長い間、精神病の多くは発病の原因が不明でタブー視

され、数多くの悲劇を生んできた。しかし最近、その原因が脳神経と、そこで

働くホルモンや神経伝達物質の異常にあることが明らかになってきたのであ

る。例えば精神分裂病はドーパミン、うつ病はセロトニンという神経伝達物質

の過剰分泌によって起こることが、現在ではほぼ確実視されている。このよう

な脳内の化学物質の異状によって(心が病む)ということは、とりもなおさず、

心は脳に存在し、脳内の物質から心が生まれる(物質によって心が左右される)

ことの証左ではないか。本書はこの(心は脳から生まれる)という前提に立って

論を進めたいと思う。心が人間の脳から生まれることを納得していただけただ

ろうか。心は人間を対象とするあらゆる学問分野で研究されているが、本書で

は人間の脳と、そこで働く物質から解明してみたい。まず、人間の脳を概観し

てみよう。人間の脳は、脊椎(背骨)がある他の脊椎動物の脳と等しく、脊髄、

脳幹、大脳、小脳の四つの脳から成り立っている。この脳をさらに解剖して覗

いてみると、まず、背骨の中を通って細長く垂れている脊髄は、人間の場合、

他の脳と全身のあいだの連絡を主な任務としている。その脊髄の上部は肥大し

て脳幹となっている。脳幹の主要な役割は(生命を維持する)ことで、ここを事

故などで損傷すると、生命はたちどころに危険にさらされる。脳幹は人間の脳

の芯となっている脳で、下位から延髄、中脳、視床に分類される。さらに、こ

の視床の前底の部分は視床下部と呼ばれ、心の形成にとつって大変重要な脳で

ある。ここまで脳幹である。この脳幹の上に大脳が発達する。ただし人間の場

合、大脳だけが極端に巨大化していることが特徴だ。その大きさは、チンパン

ジーやゴリラなどの高等なサルの三倍、他の動物の十倍以上と、いちじるしく

巨大化している。重さで比較すれば、人間の脳は平均して約1400グラムで、そ

のうち大脳が約1000グラム(七割強)を占める。他の脳は脳幹が約220グラム、脊

髄は長いけれども細くて約25グラム、さらに小脳は約130グラムである。人間

の脳は大きく二種類に分類される。それは、動物の時代からあった大脳と、人

間になってはじめて発達した大脳である。人間になって新しく発達した巨大な

大脳は、大脳新皮質(ネオ・コルテックス)といわれる。この大脳新皮質は、人

間としてのすべての活動・行動を統括するとともに、心を最終的に創出する最

重要な脳である。この脳語らずして、心を語ることは出来ない。大脳新皮質の

後ろ半分は感覚系、前半分の前部が精神系、後部が運動系の役割を分担してい

る。大脳新皮質の働きについては、後で詳しく説明する。これに対して動物時

代からの大脳は、本能的な活動・行動を司る。しかしこの大脳は、大脳新皮質

が発達したため、その周辺部や内側へ追いやられている。大脳の周辺部へ追い

やられた大脳は、大脳辺縁系(リンビック・システム)と呼ばれる。大脳辺縁系

は多数の小さな脳の集合系で、ここからは感情の源である情動(喜怒哀楽)が生

じる。この大脳辺縁系には、心の創出に欠かすことの出来ない側座核といった

脳がある。いっぽう内側に追いやられた大脳は、大脳の底にあるので大脳基底

(ベイザル・ガングリア)と呼ばれる。大脳基底核は数個の比較的大きな脳で

作られ、全身の運動を力強く調整している。表情、態度のような運動系の感情

やムードも作る。しかし、大脳基底核は運動系の脳であり、表情などは生むが

心の創出には直接関係しない。なお脳幹から後部へ突き出した小脳は、運動を

正確・厳密に微調整する役割を担う脳である。ちなみに、上手に空を飛ぶ鳥類

の脳は、その大部分を小脳と大脳基底核が占めている。この二つの脳は、運動

選手にとっても重要な脳である。脳はよくコンピュータにたとえられる。コン

ピュータが電線と半導体の回路で作られると同様に、脳も電線と化した細胞・

神経の配線とその回路によって作られているからだ。人間の脳の場合、神経の

数は数百億に達し、その配線は兆を越える。神経はなぜ生まれたのかその進化

の道筋をたどってみよう。地球上の生命は、約三十五億年前、原始の大海中に

単細胞の微生物として誕生した。そして約十二億年前、細胞同士で情報交換が

出来る多細胞生物に発展し、菌類、植物、動物と進化してきた。このとき、多

細胞生物の中でも植物は太陽エネルギーをそのまま利用できたし、菌類は寄生

生物であったので、食べ物を求めて動く必要はなかった。これに対して、太陽

エネルギーを直接使えない動物は、食べ物を求めて動かなければならなかっ

た。動くためにはまず収縮運動をする筋肉を発達させ、そして筋肉に指令し、

間違いなく運動させるための情報連絡用の電線・神経が必要となったのであ

る。海の中ではじめに現れたサンゴのような原始的な動物には、まだ筋肉も神

経も発達していない。細胞間の連絡をする化学物質(ホルモン)を分泌する細胞

(ホルモン分泌細胞)があるだけである。クラゲのような腔腸動物担って初めて

筋肉が出来、ホルモン分泌細胞から原始的な神経が生まれてくる。しかし、こ

の最初の神経は単なる電線で、情報をいずれの方向へも流してしまう原始的な

ものであった。このため、腔腸動物の行動の自由度は小さく、たまたま近くに

きた餌をとるといった受動的な活動が出来るだけである。腔腸動物がイカ、タ

コのような軟体動物、昆虫、エビのような節足動物いわゆる無脊椎動物に進化

すると、本格的な神経細胞の原型ができあがってくる。神経細胞の細胞膜の一

部が長く伸びて、神経電線(神経繊維 軸窄ともいう)となったのである。この

長く伸びた神経繊維を持つ神経を(無髄神経)という。無髄神経の末端には特別

な接続部(シナプス)ができ、情報を伝える電流(神経電気)がそのシナプスへ方向

を持って流れるようになる。その結果、情報伝達のスピードが上がり、自由度

も大きくなり、動物としての能動的な行動が出来るようになったのである。そ

して、さらに脊椎動物に進化すると、無髄神経は(髄鞘)という優秀な絶縁被覆

を被るようになり、その効率が百倍もあがる。この髄鞘をもつ神経を(有髄神

)という。情報伝達の速度で比較すれば、ホルモン分泌細胞では毎秒数セン

チ、無髄神経では毎秒約一メートルであったものが、有髄神経では毎秒百メー

トルにもなった。ホルモン分泌細胞、無髄神経、有髄神経、この三つが動物の

進化に応じて発達した神経のタイプである(厳密にはホルモン分泌細胞は神経で

はないが)ここで重要なことは、脊椎動物に進化してもホルモン分泌細胞やむ髄

神経が体内や脳内に残っていることだ。例えば人体では、筋肉(骨格筋)を動か

しているのは有髄神経だが、内臓を支配する自律神経系は、無随神経系によっ

て構成されている。神経細胞は、情報を敏速に伝えるための手段として、細胞

内の化学物質を利用している。このような神経情報を伝達する物質を神経伝達

物質(ニュートランスミッター)と呼ぶ。神経伝達物質というと馴染みが薄い

が、ホルモンといえばご存知であろう。ホルモンとは、細胞間で情報の伝令役

をする物質の総称であり、神経伝達物質はそのホルモンの一種である。用語の

説明をすれば、本書では、ホルモン分泌細胞の伝令役を(ホルモン)、神経細胞

の伝令役を(神経伝達物質)と表記することにしたい。ホルモン系、神経系の情

報伝達の仕組みを簡単に説明しよう。神経細胞は、その源をたどればホルモン

の分泌細胞から始まる。細胞から分泌されたホルモンは、血液の流れにのって

体内をまわり、全身の細胞に情報を伝達する。このとき体内には、特定のホル

モンに反応する細胞(標的細胞)があり、レセプター(受容体)と呼ばれる情報の入

り口から受け入れる。ホルモンはレセプターによって標的細胞に結合し、情報

を伝え、細胞を活動させるこれがホルモン系の情報伝達の仕組みだ。レセプタ

ーとは、ある()だけを受け入れる(鍵穴)のようなものであり、鍵穴にぴたりと

はまった物質だけが情報を伝えられる。ホルモンには主としてタンパク質を、

酵素によってわずかに分解したペプチド(小型のタンパク質)が使われている。

なぜ、ペプチドが使われるのかといえば、それはタンパク質が生命の根源物質

だからだが、詳しくは後で説明する。しかし、このホルモンによる連絡は、肝

心な情報の伝達速度が遅く、しかも拡散的であり、動物の速やかな行動に追い

つけなかった。このためホルモン分泌細胞は、前項で述べたように、神経の電

線を作って無髄神経となり、さらに有髄神経へと進化したのである。神経系の

情報伝達の仕組みはどのようになっているのか。前項で脳をコンピューターに

たとえたが、この比喩は厳密には正確ではない。脳の神経細胞は、コンピュー

ターの電線のように直結はしていないからだ。神経細胞の接続部には、約一万

分の一ミリという極小の隙間があいている。この接続部を (シナプス)、隙間を

(シナプス間隔)と呼ぶ。そして、この隙間の伝令役をするのが神経伝達物質で

ある。情報を伝える神経電流が神経電線の末端までくると、その刺激によっ

て、シナプスから神経伝達物質が放出される。神経伝達物質は、シナプス感覚

を泳いで標的細胞のレセプターに結合し、それによって神経電流が再び発生

し、情報をつぎの神経細胞に伝えるというわけだ。このように、ホルモン分泌

細胞が神経に進化すると、神経伝達物質の作用はシナプスに局限される。シナ

プスだけなら、神経伝達物質は情報をそれほど必要とせず、むしろ小型で化学

的に安定した分子がよい。したがって神経伝達物質としては、ペプチドを分解

したアミノ酸(有髄神経)と、アミノ酸をさらに分解したアミン(無髄神経)がつか

われている。人間の脳の基本的な仕組みについて理解されただろうか。ここで

興味深いのは、このような脳、神経、神経伝達物質のそれぞれがある対応関係

をもっていることだ。さきほどの説明では省略したが、人間の脳にはアナログ

型とデジタル型という二つのタイプの異なるコンピューターが同居していると

いえる。脳幹、大脳辺縁系、大脳基底核などがアナログ型の脳で、大脳、小脳

はデジタル型の脳である。この違いは、それぞれの脳で主に活動する神経の違

いから生まれてくる。無髄神経と有髄神経の差である。無髄神経と有髄神経で

は、その情報伝達に大きな違いがある。優秀な絶縁被覆を持つ有髄神経は、そ

の情報伝達が早く、デジタル的であるという特徴をもつ。それに対して、髄鞘

をもたない(正確には一層の薄い被覆をもつが)無随神経のそれは遅く、アナロ

グ的だ。さらに、それぞれの神経伝達物質の性質からも、アナログとデジタル

の違いが生まれる。神経伝達物質としては、有髄神経ではアミノ酸、無随神経

ではそれを一工程分解したアミンという分子が使われている。これらの分子の

大きな相違は、アミノ酸はまったく無毒な分子であるが、それが分解されてア

ミンになると、猛毒になってしまうことだ。この違いの意味に着いてここで一

言すれば、有髄神経の作用はその複雑な回路によってデジタル的に行われると

いうことである。いっぽう無髄神経の作用は、神経伝達物質の性質とその作用

量に依存して、アナログ的に行われるということだ。さらに人間の脳内では、

視床下部(そして脳下垂体)を中心にホルモンが分泌されているが、これはいっ

てみれば超アナログであり、ホルモンの性質にさらに依存している。人間の脳

の優秀性は、これら二つのタイプの脳コンピューターをさまざまな意味で共用

しているところにある。人間の脳は、アナログ型コンピューターの上部にデジ

タル型コンピューターを付け加えた構造になっており、このように二つのコン

ピューターをマッチさせることは、現在のコンピューター技術でもまだ成功し

ていない。そして心は、このアナログ型とデジタル型の二つの脳コンピュータ

ーの有機的な「共同作業」の中から生まれてくるのである。

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