第5節免疫学

第1項

眼が輝き表情豊かな子供たち

集めたすべての糞便から、回虫卵が見つかった。子供たちからも母親からも

100パーセント、日本で見るよりも生き生きとした黄金の卵が、顕微鏡の下

で輝いていたのである。私は修さんに、回虫の卵を見せてあげると誘ったが、

臭い部屋にはどうしても入ってこない。仕方なく、子供たちを部屋に呼び入れ

ると、ドヤドヤとたくさんの子供たちが入ってきた。「どうだい、きれいだろう。こ

れが卵だよ」「マタハ(太陽)のようだ。すごい!」「ビンタン(星)のようだ。きれ

い!」ここでは、回虫の卵が太陽や星に見えるようだ。私は本当にうれしくな

った。今まで回虫の卵を太陽や星にたとえてくれた人など全くいなかったの

だ。私はブル島の子供たちがますます好きになった。彼等は、回虫のほかに

鞭虫、鉤虫にも高率で感染していた。回虫の卵も美しいが、鞭虫の卵は、私

に言わせれば、寄生虫のなかで最も美しい形をしていると思う。東京の医学

生には、「ラクビーボール様」とか「岐阜ちょうちん様」などと説明しているが、

ブル島ではもちろんラクビーボールもちょうちんも知られていない。子供たち

に鞭虫卵を見せたら、これもマタハリやビンタンだった。顕微鏡の下から当た

っている光源のために、そう見えるのかもしれない。あるいは、インドネシア

語はひとつの言葉に多くの意味を持たせていて、みんなは違う意味で言って

いたのかもしれないが……。とにかく、回虫や鞭虫の卵を見たときのブル島

の子供たちの感動はすばらしかった。ツバをとばしながら早口でしゃべり、顕

微鏡の上と下とを覗き込む者、ウンコに「マタハリ」が入っていたと騒ぐ者、さ

っそく母親を連れてきて説明する者、彼等の眼は輝き、表情はみんな生き生

きとしていたのだ。彼等の姿はたしかにみすぼらしくて、身体には泥がついて

いたりして汚い。しかし、彼等の眼の輝きや表情の豊かさは、そんなものを吹

き飛ばしてしまうほどだった。さて、この調査で彼等は全員回虫に罹っている

ことがわかった。鞭虫も90パーセント以上、鉤虫も60パーセントくらいの子

供たちが持っていた。その他、原虫類では、アメーバ類やランブル鞭毛虫に

高率で罹っていた。大腸メーバに至っては、回虫同様、ほぼ全員の子供たち

が持っている。なかには、赤痢アメーバを持っている子供さえかなりいた。し

かし、彼等は元気いっぱいで、少なくとも外からは健康そのものに見えた。こ

うしてみると、ブル島の子供たちは全員が二種や三種の寄生虫に罹っていた

ということになる。ここでは、虫と共生していない子供は全くいないのだ。回虫

を持っていない子供が、もしブル島にいたら、その子供はこの集団では明ら

かに異常なのだ。しかし、なぜ、ブル島の子供たちはこんなに生き生きしてい

るのだろうか。感染症を研究しはじめた当時の私には、それは容易には理解

できないことだった。

第2項

アレルギーは文明病か

日本の木材運搬船が私たちを迎えにくるまでまだ二週間もあったので、すっ

かり仲良しになったブル島の子供たちの「健康診断」をすることにした。簡単

な血液検査や尿検査の他、聴・打診や血圧検査を行なった。私の部屋が診

察室に早変わりした。子供たちを診察してまず驚いたことは、日本の子供より

はるかに元気で、溌剌としていることだった。明らかに日本の子供より健康に

見えるのだ。しかし、この子供たちは全員寄生虫に罹っている。次に驚いたの

が肌だ。あの汚い川の水で毎日水浴びしている子供たちの肌は、すべすべし

て黒光りしていた。日本では見られるような、アトピー性皮膚炎の子供など全

くいない。さらに、喘息になっている子供や、「花粉症」に罹ってクシャンクシャ

ンとくしゃみをしたり、眼を真っ赤にした子供たちも全く見られなかった。要す

るに、アレルギー病に罹っている子供はひとりもいないことが、この診察では

っきりしたのである。後日談だが、このブル島の子供たちの血液を日本に持

ち帰り、いろいろ分析してみたところ、血清IgE値がとても高い、という結果が

出た。当時は、「なぜブル島の子供たちにIgE値が高くなるのか」私たちには

理解できなかったが、このことが、「寄生虫がヒトに感染すれば、IgE値を高

める」「このIgEが、ヒトがアトピーや花粉症に罹るのを防いでいる」という私

の研究成果につながったのである。言ってみれば、ブル島で子供たちの健康

調査をしたことが、私の生涯の研究テーマを決めてしまったのである。アレル

ギー病は、文明病といわれている。「花粉症」「喘息」「アトピー」などのアレル

ギー病は現在急速に増えている。そのなかで、特に増加しているのが、日本

と旧西ドイツの子供たちである。ところが旧東ドイツの子供にはアレルギー病

が少なく、ほとんど増えていない。旧東ドイツの子供たちも旧西ドイツの子供

たちも同じ民族である。公害も旧東ドイツのほうがひどい。食品添加物や農

薬の規制も旧西ドイツに比べると、旧東ドイツのほうがはるかにゆるかった。

にもかかわらず、なぜ旧東ドイツの子供たちには、アレルギー病が少ないの

だろうか。最近のハンブルク大学医学部の研究で、その原因がつきとめられ

た。旧東ドイツの子供たちの「血清IgE値が高い」ことが、「アレルギー病の発

症を抑えていた」のである。つまり、旧東ドイツの子供たちは、旧西ドイツの子

供たちに比べて、回虫などの寄生虫に、より多くの割合で感染しており、その

結果血清IgE値が上昇し、そのことが花粉症やアトピーなどのアレルギー症

状の発現を抑えていたのである。ブル島の子供たちも回虫の寄生のおかげ

でレルギーになっていなかったのだ。しかし当時の私は、もちろんそのことに

は全く気付いていなかった。

第3項

自然淘汰され、免疫力を持つ人々

プル島の子供たちは、たしかにアレルギー病に罹らず元気にしているものが

多かったが、彼等が全く病気に苦しんでいないといえば、それはもちろんウソ

である。特に出生直後の子供がよく死んでいる。その原因のほとんどが破傷

風によるものだ。そして、新生児の時期の死亡率もかなり高い。その原因は

下痢症とマラリアだった。しかし彼等がある程度成長すると、あまり死亡する

子供は見られなくなる。そして、元気で溌剌とした子供が目立ってくるというわ

けだ。ただし、元気で溌剌として見える子供たちもいろいろ検査を行なうと、日

本人の子供たちの正常値よりもかなり低い数値ばかりだった。特に血液検査

では貧血の傾向が強く、蛋白質の不足が目立った。ブル島の子供たちが貧

血傾向にあるのは、食餌の蛋白源の不足とともに、多くの子供がマラリアに

感染していたことによる。かなりの子供から「三日熱マラリア原中」が検出さ

れたのだ。なかには、「熱帯熱マラリア原中」に感染していながら、比較的元

気にしている子供も見られた。マラリアには、三日熱マラリアと熱帯熱マラリ

アの他に、四日熱マラリアと卵型マラリアの計4種類が存在する。このうち熱

帯熱マラリアだけが悪性のマラリアで、日本人などの場合、発熱して五日以

内に適当な治療を施さないと死亡することがある。しかしブル島の子供たち

は、マラリアの薬など飲まなくても割合に元気にしている。その理由は、熱帯

熱マラリアに対してある程度の免疫を獲得しているということの他に、回虫な

どの寄生虫が、熱帯熱マラリア原中に対抗できる「体性」を子供たちに作って

いるという事実を、最近わたしたちの研究グループが発見した。

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