第6節自然科学

第1項

サロス周期

「サロス周期」は古代エジプト人が発見 太陽と月が消えるとナイル川は氾濫

した人類はこれまでの歴史のなかで、たくさんの周期現象を発見してきた。お

そらくその発見までの歴史には、おどろくべき人類の挑戦と苦闘があったも

のと推察される。どれくらいの血と汗と涙とが流されているのか、想像を絶す

るほどである。今日のようにたくさんの知識・知恵の積み重ねのある時代に

は、容易に「そうか」、「なるほど」といえる出来事であっても、それがなかった

時代には、この自然界でくりかえし生じているものといえども、そのパターンを

同一のものとして認知し、そこにくりかえしの周期を定め納得するには、数え

きれぬほどの世代が交代し、今日では信じられぬくらいの長い時間の経過を

必要としたのであろう。だが、その過程をへてくりかえしのパターンが発見さ

れ、周期現象として人間社会のなかでしだいに共通の認識となり、ひとつの

社会的に確立した知識となっていったのであろう。まずここでは、そうやって

我々のの祖先が獲得した周期現象をすこし概観してみることにしよう。現代

人にとって自然現象の周期のかなりが、経験あるいは科学法則によって習得

され、いつ日食や月食が起こるか、何日後に台風がやってくるかという予測

は、その気になれば誰にでもわかるようになってきている。そして、天候の周

期からくる農作物の出来高予測、さらにそれが経済や社会におよぼす影響に

ついても、長い歴史からある程度の法則をみいだすことができるようになっ

た。しかし、私たちの先祖はどうであったか。古代の人類にとって、太陽や月

の動き、流れ星、大雨、強風、海水の満ち干きなど、森羅万象のすべてが神

秘的だったにちがいない。それゆえ、日本人の祖先たちも他の国々の祖先た

ちも、森羅万象を神として崇めたてまつってきた。たとえば、私たちは一日が

24時間という時の流れであることを知っている。太陽が沈み、月がのぼり、

また太陽が地上に姿をあらわす。この何でもない昼夜リズムも、の人々にと

っては脅威であったろう。とくに、「夜の闇の到来は、悪魔の悪しき意図のもと

に生じている」かの感じをいだいていたのであろう。ましてや、突如として大地

が暗黒になる皆既日食や月食などは、想像を絶する大事件だったのではな

いだろうか。それゆえ古代(自然界のあらゆる物事に霊魂が存在するという

信仰)では、それらをすべて神や仏として崇めたのであった。だが、ゆがて人

間はきわめて長い年月をいきるなかで、大脳を発達させ、言葉をもつそれを

もちいて観察し、創造し、工夫するうちに、自然現象を味方にするためのをつ

けた。歴史をつみ重ねることによって、過去にくりかえし生じた自然現象から

ある種の生じ方のパターン、すなわち法則性をみいだしたのである。西欧文

明発祥の地のひとつである古代エジプトでは「日」と「月」の神、「オシリス」と

「イシス」が天地を支配していると信じられていた。このオシリスとイシスが天

地から消えることは、おおいなる脅威であった。いや、恐怖といってもよかっ

たようだ。しかし歴史の経過のなかで、何回もそれらを経験するうちにこの日

と月の神が一定の周期をもって姿を消すことを知った。それによって、恐怖は

しだいにうすらいでいったのである。そして、おどろくべことにエジプトの民に

とって母なる河であるナイルの氾濫が、この両神が姿を消す周期と軌をおな

じくすることもエジプトの民は発見したのであった。おそらく、それを知ったとき

の人々の意識には、たいへんな自信が生れたことだあったろう。

 

第2項

自然界のサイクルが人間を生かしている

ナイル河は、日食・月食現象が起こる年の、太陽が東の地平線にのぼる直

前にシリウス星の出る季節にきまって氾濫した。エジプト人はこの周期を計

算し、ナイル河の氾濫が6585日(18年と11日)ごとに起こることを知った

のである。彼等はこれをサロス(くりかえすの意)周期と名づけ、太陽や月、そ

して惑星の位置や動きが、自分たちの生活と深いかかわりをもっていることを

記憶したのである。このサロス周期によるナイル河の水量の変動は、現代科

学によって実証され、当時の人々の計算の正確さを立証している。サロス、

すなわち「くりかえす」という概念は、ナイル河の周期的な氾濫だけではなく、

天と地に存在する万物が目にみえないスケールで流転し、そこには一定のサ

イクルが存在するという「周期思想」を生み出した。今日の人々にとっては、

何も不思議なことではないが、その当時の人々にとっては、一定のくりかえし

のパターンが存在することを意識のなかで納得することは、画期的な出来事

だったのである。やがて、彼等はその「周期思想」の上に天体の動きを知るこ

とで、地上に起こり得る未来の事象を予測することができるのだという結論に

達し、その技術を開発するとともに、その技術を身につけ、さらにそれを哲学

にまで高めていったのである。人間にとってそのひとつの認識が、しばらくの

あいだ大きな柱となって、多くのものごとを発見することにつながるのである。

いっぽうで「周期思想」は神の預言という形をとり「旧約聖書」や「ユハネ」の

なかで人類の未来を宗教的に暗示したのである。古代の人々から現代人に

いたるまで、人間の生活はすべて自然界の周期と密接な関係をもっていた。

いいかえれば、今日、に人類が存在するのは、宇宙や自然界のリズムあるい

はサイクルと融和し、おおいなる恩恵を受けてきたからにほかならない。とい

うよりは、人間を含めた生物はこの宇宙の呼吸にするべく誕生し、育てられた

といったほうがより正確であろう。農耕、漁業にはじまり、工業技術を創りだ

し、さらに高度先端技術を駆使した情報化社会となった現代にいたるまで、人

類の背景には宇宙と自然のサイクルが存在した。それらは「天空のハルモニ

ア」とよばれた天体の運行からヒントを得て、ピタゴラスがつくった「ピタゴラス

の音階」やゲーテの「ファウスト」や真言密教のように、芸術や宗教、哲学な

どの精神活動の根源となっていった。それらの伸展を助長したのも、宇宙の

リズムと自然界のサイクルをより深く人間が理解していったからである。だ

が、21世紀を目前にした現在、人類はこの自然界のメタポリズム(物質代

謝)のリズムとサイクルを破壊しようとしている。私たちは科学技術を信奉し、

ひとり人間のみの生活向上を考えてしゃにむに努力するあまり、いつのまに

か自然界のサイクル的秩序を無視するようになつてしまった。大気はフロンガ

スや排気ガス、煤煙で汚され、土地は農薬で汚染し、河川は工場からの廃棄

物で濁りきっている。森林が消え、海が汚れ、私たちの生活から季節感も失

われていった。大気の汚れは宇宙からのリズムを乱し、自然界の破壊・汚染

は、地球生態系を狂わせている。私たちの祖先が、気が遠くなるほどの長い

年月をかけて手に入れた叡知を、私たちはみずから放棄しようとしているの

ではないか。古代エジプトの民が、ナイルの氾濫周期を知って万物流転のサ

イクルを悠久の叡知としたように、我々も次代の人々のために、宇宙と地球

の自然界のサイクルやリズム、あるいはその呼吸や脈動をもっと深く科学的

に知り、それらと人類の活動との調和を守りつづけなくてはならないのであ

る。

 

第3項

「輪廻転生」は人間の生死サイクル

 生命の転生は「3000年周期」とされる

人間にとって「死」は生の終わりなのか、それとも新しい生命の入り口なのか

は永遠の疑問であり、誰もが関心のあるテーマだ。それゆえ、人類の精神活

動の歴史のなかでもそれは、メインテーマであった。くりかえされるとすれば、

その周期は?それによって心がまえもちがってくるだろう。「この世とあの世

は地つづきだ」というのは丹波哲郎さんの映画「大霊界」のキャッチフレーズ

だが、人間が死後の世界を経てふたたび現世界へもどってくる「輪廻」の思想

は、大昔からあった。古代エジプト、ギリシャ、ローマ、インド、そしてわが国で

も万葉の次代に、すでに輪廻転生という思想がもたらされた。万葉の歌人大

伴旅人は、「この世にし 楽しくあらば 来む世には 虫に鳥にも 我はなりなむ」

と、転生のあこがれをうたっている。古代エジプトでは、人間の魂は不滅であ

り、肉体は滅びても魂はつぎつぎに生まれてくる他の動物の肉体に宿り、

陸、海、空に凄む動物の身体を一巡したあとで、ふたたび人間の身体にもど

ってくると信じられていた。この魂が一巡する周期は3000年とされた。私は

知らないが、おそらくこの周期の意味づけがあるのであろう。いずれにしろ、

この思想をもとに「人首鳥神」などの神像が創造された。死んでから他の動物

に生まれ変わるという思想は古代インドにもあり、バラモン教の聖典である

「ヴェーダ」には、生前に悪事をはたらいた者は、その報いとして虫や犬、豚、

植物などに転生すると記載されている。また、古代ローマでも、死者の魂は善

良なものと邪まなものにわけられ、善良な魂はレテ河(現世と未来を結ぶ川

〓三途の川)の水を飲んで過去を消し、望むままの人間(あるいは動物)に

生まれ変わるが、邪な魂は冥府のなかに永遠に閉じこめられると考えられて

いた。わが国でも死者の魂は死後も幽明両界をさまよいつづけ、49日後に

冥界へと旅立つとされ、この魂も生前の所業によって、さまざまな生物へと流

転すると信じられている。輪廻とはもともと古代インドの 語「サムサーラ」(とも

に流れる)の訳で、水の流れのように生きるという 生という意味あいがあり、

流転、転生と同義語だといわれている。つまり、生物は己れの業(カルマ)に

よって永遠に生と死をくりかえさなければならない。というインド思想の原理

が輪廻であり、この輪廻のサイクルから解放されることを仏教では「解脱」と

呼ぶのである。

第4項

輪廻思想は「現代サイクル理論」へとつながった

霊魂の周期は宗教的な理解だけではなく、古代ギリシャでは哲学的な輪廻

思想としてもとらえられた。ピタゴラスの定理音楽理論の解明で知られるピタ

ゴラス(紀元前582〜493年ころ)は、輪廻転生の神秘を研究した哲学者と

しても有名だが、彼の影響を受けたプラトン(紀元前427〜327年)はその

編書「ファイドロス」のなかで「高尚な人の魂は死後イデアの世界にふたたび

戻るが、堕落した者の魂は人間や動物の肉体に転生する」と語り、輪廻思想

をあらわした。プラトンのこの説は、ヘラクレイスト(紀元前540〜470年こ

ろ)の「万物はすべてその反対なるものによって生成する」という原理を受け

ていたもので「死者は生者から、生者は死者から生成する。ゆえに死者は、

ふたたび生者となるために、かならずどこかに存在しなければならない」とい

うものである。そして、この輪廻思想は、彼の説く自然学説とともに弟子のフィ

オラオスに受け継がれて「地球円運動説」となり、さらにコペルニクスの「地動

説」へと結びつく。ピタゴラスが数理をもとに宇宙の本質を解明しようとした学

問は、生命の輪廻も知ろうという哲学につながり、さらに宇宙と人類のかかわ

りを「マクロコスモス「と「ミクロコロモス」の対比で解析していこうという「現代

サイクル理論」へとつながった。古代の賢人たちが掘り起こした叡知の泉は、

渇れることなく現代にまでとうとうと流れつづけ、自然科学や社会科学の花を

咲かせた。宗教、哲学、あるいは政治、経済、文化活動など、現代社会のあ

らゆる分野へと古代人の知恵は生かされている。だが、ピタゴラスがプラトン

が知ろうとした「人間とは何か」の問いに答えられる人はいまだにいない。「知

らず、生まれ死ぬ人、いずかたより来たりて、いずかたへか去る」「方丈記」の

なかで鴨長明が述懐したこの言葉は、そのまま現代に生き続けているのだ。

地球上のあるゆる生物のなかで、ホモ・サピエンス(知をもつ動物)といわれ

る人間だけが悩みをもつ。この悩みは太古からつづけられた人類の命題であ

る。おそらく今後も、何人も解き得ないであろう。しかし、そのテーマは人間の

メインテーマとして、永遠に語りつがれるのである。

 

第5項

生命体はその中に宇宙を取り込んでいる

階層構造をもつ宇宙には、四つの力と五つのエネルギーが基本的な形態と

して存在し、それらが全体と個との関係を演出し、変化を生ぜしめている。そ

のうち、重力と電磁気力とが、宇宙空間のはなれたところの存在に重力波、

電磁波として作用し影響をあたえることができる。太陽や月から地球は、その

ふたつの力によって影響されているのである。また、影響している。それらに

よって地球上で朝夕作用が生じたり、水の大循環や風雨が生じせしめられて

いるのである。太陽光線そのものも電磁波の一種なのである。そして、今日

でもこの宇宙は息をしており、高速で膨張をつづけている。およそ大爆発から

140億〜150億年を経過していると考えられている。そのなかで、いまから

約45億年前に太陽系(地球のいる銀河系)が誕生し、そのなかで生物が約

35億年前、地球誕生後約10億年後に登場したのであった。おそらく、後述

のように、生命体そのものの誕生の秘密のなかにこの宇宙全体の特質がひ

そんでいると考えられ、今日でもそれゆえ、あらゆる生命体がなんらかの形

で宇宙(とくに太陽、月を中心とする太陽系の惑星)の影響を、重力波や電磁

波をとおして受けていると考えられているのである。とくに、そのなかでも定常

的に存在する重力場や電磁場と定期的に変化する状態は生物の仕組みの

基本としてとりこまれている。たとえば、すくなくとも今日の地球の電磁場と重

力場に対応した仕組みが、生命体の組織としできているし、地球周辺のオゾ

ン層を通過してくる、太陽光線の紫外線量に対応できる形の皮膚組織をもつ

生命体のみが、今日生き残っている。また、ときどき太陽光線から強い電磁

波が、太陽を離脱して地球周辺の電離層に衝突してオーロラが発生するが、

もしこのオーロラが生じなければ、この地球上の生命体はその電磁波で滅ぼ

されてしまう。まさに、地球周辺の電離層がこの地球の電磁気的バリヤーと

なって、地球上の生命を守っているのである。それは同時に、その電離層で

守りきれないような電磁波の干渉を受ける生命体は、すでにこの世のなかに

は存在していないということである。

 

第6項

「バイオリズム」の3周期を発見した学者たち

狭義の意味のバイオリズムとは、PSI学説にたいしてもちいている。P−Phy

sical(身体)、S−Sensitivity(感情)、I−Intellectual(知性)の頭文字をと

ったものである。それぞれについて好調、不調の波が一定の周期をもってあ

らわれるというのが、バイオリズム理論である。1906年、のちに大ベルリン

市衛生局長、ドイツ科学アカデミー会長となったウィルヘルム・フリーズ博士

が、ベルリン大学で耳鼻科講師をしていたとき、発見したものである。それ

は、患者の発病に関して男性は23日、女性は28日周期で起こるということ

であった。おなじころ、ウィーン大学の心理学教授ヘルマン・スオボタ博士

が、虫刺されの傷みとはれ、熱病や心臓病の発作に23日と28日の周期を

発見した。男性のスタミナ、精力といった肉体面を支配する周期は23日、女

性特有の感情面の周期は28日であるとした。さらに1928年、オーストリア・

インスブルック大学工学部のアルフレッド・テルチャー博士が、この二つの周

期の存在を確認したうえに、記憶力や推理力に影響をあたえる33日の周期

を発見したという。また同時期、アメリカ・ペンシルベニア大学のレクスフォー

ド・ハーシー博士も、鉄動員の仕事の能率と事故防止のための記録調査か

ら、その三つの周期の存在を確認している。つまり、身体が23日、感情が

28日、知性が33日の周期をもつということである。その理由は、いまだ解明

されていないが、月の周期との関連性が深いと思われる。

 

第7項

 

脳には1年周期の「年輪系」が存在する

日本人の脳の音の処理の特異性を論じて注目された、東京医科歯科大学の

角田忠信氏は、その後の研究で脳の働きが月齢とおなじ時期に可逆的な状

態にかわり、そのことから脳内に地球の公転と一致する1年周期の年輪系の

あることを発表した。この年輪が誕生日の日にきりかわる。そのあまりにの精

密さに「人間の脳には地球の公転と正確に一致する1年周期の年輪様変化

が生じる」と結論した。さらに、「こうした仮設が成立するためには、1秒という

時間を正確に検知するシステムが人の脳のなかに存在しなくてはならない」

と述べている。そこから氏は、太古の人々がもっていたであろう宇宙環境と同

期する小宇宙ともいえる脳の予知機能、脳センサーの実験にはいるのである

が、詳細は「続日本人の脳」角田忠信著、大修館書店を参照されたい。

 

第8項

企業の寿命が「30年」とされる理由

一般的にみると企業の成長過程は、創業期、成長安定期、安定停滞期、整

理期、残存期があり、人間のライフサイクルにほぼ似ている。日経新聞社か

ら出版された「会社の寿命」によると、企業の寿命は30年だとされ、日経ビジ

ネスが調べたデータがそれを裏付けている。このデータは、総資産額からみ

た上位100社を対象に、明治29年から昭和57年にわたって調べたもので、

登場した企業はのべ413社。このうち一期(10年)で消えた企業は194社、

三期(30年)となると、309社が姿を消しているのである。いかに企業の消

長が激しいかがわかるだろう。また、長期間にわたる調査の結果だけに、30

年寿命説には説得力がある。戦前の花形産業といえば石炭であり、戦後も

鉄鋼、造船、繊維、化学などがこれにつづいていた。それが自動車ゃ家電業

界にとってかわられ、さらにいま、時代はハードのエレクトロニクスから、ソフ

トの情報産業へとうつろうとしている。一時は燎原の火のようにブームになっ

たベンチャー・ビジネスも、いまはほとんど鳴りをひそめ、優良企業として根づ

いているのは京セラなどごくわずかになっている。また、脱本業がさけばれ多

角化経営にのりだす企業が続出した時代もあったが、これもいまでは本業を

基軸にしながら事態をひろげる「拡本業」というべきビジネス路線が主流にな

っている。重厚長大から軽薄短小へ、そしてふたたび重厚長大へと時代はめ

まぐるしく動く。おそらく企業の寿命は、30年よりさらに短くなっているかもし

れない。とくにベンチャー・ビジネス、あるいはニュー・ビジネスとよばれる企

業は浮沈が激しい。フォローウインドに乗り切れなければ、わずか数年で寿

命がつきる。また、波に乗ったと思っても、大企業からのプレッシャーによって

併合、吸収されてしまうこともある。パソコン・メーカーのソードや居酒屋のつ

ぼ八などがその例であろう。

 

第9項

30年で変化する「陰陽周期律」の思想

「人間の一生を支配するのは、運であって知恵ではない」とは、ローマの哲学

者キケロの言葉だが、なるほど人生には運という目にはみえない要素が大き

く作用する。入学試験や入社試験は、実力のほかに運が必要だといわれる

し、サラリーマンの立身出世も、努力のほかにツキがなくてはかなわない。企

業の経営者として成功するには、すぐれた経営感覚と洞察力、それに人並み

以上の運がものをいう。それでは、その運が周期的なものであれば、その周

期律なり周期そのものを観察によって知ることができるし、みずからのために

活用三度チャンスがある。それにもかかわらず、人生に差が出るのはなぜ

か。それはいまがチャンスだと知る力である。それは不断の問題意識と努力

によるものだ」と語ってくれた。まさしく、チャンス、好運をどうつかまえるべき

かを教えてくれているのである。さて、この運のことをよく「めぐりあわせ」とも

いうが、いいかえればこれは「幸運の周期」のことである。古代中国の賢人た

ちは、人の運命の起伏、盛衰を「陰陽五行思想」のなかでとらえ、人生の周期

律を考えだした。四柱推命や九星術などがそれである。日本で流行している

「六星占術」という占いも根拠をたどれば、こうした陰陽思想が発祥した運命

周期律によるものであろう。陰陽思想とは、天地間の森羅万象は陰と陽の二

種の気から成るとした古代中国の学説で、万物組成の元素である「木火土金

水」の五行を基本とした吉凶占いに用いられている。つまり、木・火を陽に、

金・水を陰に、土をその中間として、これらの消長によって、天地の変異や人

事の盛衰を占うものである。中国最古の経典といわれる書経に、「木から火

を、火から土を、土から金を、金から水を、水から木を生ずるを相生といい、

木は土に、土は水に、水は火に、火は金に、金は木に剋つ、これを相剋とい

う」の記載があり、陰陽家がこれを人間の性にみたてて、男を陽、女を陰と

し、相生の者があえば和合して幸福になり、相剋の者が対すれば不和となっ

て災難を招くとした。また、人の運勢だけでなく方位や行事の吉凶、この五行

によって占ったとされている。陰と陽、つまり禍福は交互にやってくる。文字ど

うり「糾える縄の如し」である。そして、この陰・陽の周期は30年のサイクルで

くりかえされるという説がある。この説は、人間として生れ一人前になるまで

の前半生と、結婚して子供をもうけ、育てていく後半生を30年ずつにわけた

もので、人間はこのゼネレーションをくりかえしながら、陰、陽の時代を生きる

という考え方である。いいかえれば、前半の30年が恵まれなかった人は、後

半の30年にに運がむき、前半よかった人は後半はツキのない人生を歩むと

いうものだ。人間社会は「地球という生命活動」の上に成り立っている今日、

人類の活動は、この母なる大地「地球」を破壊するまでに巨大になってきてい

る。明らかにこの悠久の大地のリズムすなわち、それのもつ周期を無視した

人類の活動は大自然の反逆をまねくことになる。私はこの地球上で生じてい

ることの多くには「風が吹けば桶屋がもうかる」式の明確な因果関係があり、

天・地・人それぞれ千の念があり、それらがおたがいに縁で結ばれていると

教える仏語の「一念三千」の縁起説のように「すべてのものがすべてと関係し

ている」といったホロニックな考えを指示する立場である。それは近代物理学

の成果であるアインシュタインの相対論も同様に我々にそのことを教えてい

る。「場(全体)は粒子(個)を規定し、粒子(個)が場(全体)を形成する」と。そ

して、この世の中の物理的環境は多くののものが、太陽の回りの地球のよう

に周期的なサイクルを描いているし、なんらかの「波動現象」として理解され

るものが多いのである。そして、そのサイクルには寿命があるし、成長・衰退

がある。とするならば、この世の中の出来事は多くが周期をもった波の重なっ

てできた複合波として理解することが本来できるはずなのである。しかし、今

日の我々の知的水準は残念ながらその因果関係やこの宇宙全体の構造を

知り尽くす段階からほど遠いところにいるのである。それは我々の認識の水

準の浅さであって、そこに因果関係なり、波としての現象が存在しないという

ことはないのである。それゆえ、人間社会のなかのすぐれた人材の投入によ

って、我々人間の活動をふくめ、この地球上での出来事は「変化の波とその

周期」という形式でより理解を深めることができるのである。まだ宇宙全体や

太陽や月のレベルまで人間活動の悪影響はおよばないが、すくなくともこの

地球というひとつの星は確実にその呼吸や、血液循環のリズムに狂いが生じ

はじめているのである。それゆえ地球の生態系のリズムを正しくとらえ、その

細胞である人間の活動を修正していかなければならないのである。それは今

日「ガイアの恩恵」という考え方が強まり、ヨーロッパなどでの政治勢力として

「環境派」とよばれる勢力が台頭してきていることを考えても理解されるので

ある。フロンガスを2000年までに全廃することを多くの国、企業が決定し、

多くの先進諸国が発展途上国の森林などの砂漠化を防止するべく環境保存

基金つわ拠出しはじめている。それらを正しく進めるためにも、この宇宙の

場、リズム、その呼吸や循環を正しくとらえることが何よりも重要なのである。

 

第10項

「音楽の基本テンポは心泊と同じ」が意味するもの

いずれにしても、今日の科学水準では、そのへんを厳密に記述することはま

だむずかしいが、生命体はこの地球生態系の物理的条件としての周期現象

をたくみにとらえ、それより下位のミクロレベルの物質(固有周期をもつ)を動

員して体組織を形成して、命をきずいているのである。そのなかでも、人類と

いう種は脳組織を高度に発達させ、ついには言語機能をもち独自の思考方

法と意志伝達のメカニズムを形成し、この地球上で文明、文化を形成し地球

生態系の頂点に立っている。そして、じつにさまざまな活動をくりひろげてき

た。その活動は一見すると、人間あるいは、人間社会独自のシステムであ

り、よりマクロな環境の周期的条件や、逆に非周期的条件に左右されないか

の感じをいだかせるのである。人間および、人間社会の営為、行動には「明

確な周期」などないように思えるが、そのもっと深奥において、きわめて大きく

マクロ・ミクロの物質的階層の周期の影響を受けているのである。原理的に

は、それらは解明されるべきものであるが、しかし、今日まで人類が築いてき

た科学の到達水準では、そこまで足をふみいれることはむずかしいし、まだ

それにたいしての問題意識をもちはじめているだけにすぎない。だが、これか

ら先の人類の研究活動は、こういった分野を主たる研究テーマとして取り組

まざるをえなくなってきている。医学分野でも、かってギリシャのヒポクラテス

が、「太陽の黒点がふえると地球上に疫病がふえる」と語ったが、その当時あ

まりそれ以上の話題にならなかった。だが、今日では太陽の電磁気活動がこ

の地球上の生命体の活動に強く影響していることが解明されているのであ

る。ところで、音楽では通常心臓の鼓動数をモデラートとし、それよりも速いも

のをアレグロ、そして遅いものをアンダンテとしている。音楽のテンポの基本

は、人間の「心拍と脈拍」なのである。ということは、人間の生物的肉体その

ものと同様に、人間の心理、精神もなんらかの形で自然環境からの影響を受

けてできあがっていることを物語っている。それは、人間という小宇宙(ミクロ

コスモス)は肉体のみでなく、その精神をふくめてこの大宇宙(マクロコスモ

ス)の反映であり、かつその精神の肥大によって、逆にマクロコスモスにおよ

ぼす影響がしだいに大きくなってきていることを示している。自然科学分野に

おけるこれからの「周期の研究」をすすめるに際して、生物のもつさまざまな

能力を徹底して調べることが重要である。

 

第11項

ヒトの「仕事」を変えた「貨幣」の誕生

今ヒトはこの地球上において、環境に適応し、受け身の進化を行なう立場か

ら抜け出した唯一の生きものである。ヒトは新しい行動を次々に開発し、それ

によって周囲の環境を自分たちに都合のいいように作り替え、こうして出来た

新しい生活環境の中で、さらにそれに応じた新しい行動を生み出してきた。言

い方を変えれば、それだけ「仕事」の意味が複雑になってきたと言える。もち

ろん、そのいちばん根本の部分には、他の生きものと同じように、自分自身

の遺伝子を最大限に残したい、そのためにより都合のいい環境を作りたい、

という欲求があったはずだ。しかし、やがてそれは、巣に生きるためのもの以

上に、「遊び」の要素を重視したものへと急速に変貌していった。現在、私た

ちの周囲を見回してみても、ヒトが生きるために最低限必要な「仕事」というも

のを見つけることのほうが難しいほど、ヒトの「労働」は生き物としての基本か

らかけ離れている。にもかかわらず、すべての人間がその職業をまっとうして

いる限り、ヒトの社会の中で生きていくことができるのは、ひとえに「貨幣経

済」という人類史上の大発明があったからに他ならない。貨幣の誕生によっ

て、初めてヒトはどのような仕事にも値段をつけ、その値段に等しい他の仕事

の産物と等価交換ができるようになったのである。たくさんの貨幣を入手する

ことさえできれば、ヒトは、自分の遺伝子をより確実に、安全に残すためのど

のような手段をも講じることが可能となる。この、「貨幣」というワン・クッション

があるために、ヒトの労働はヒト以外のすべての生物の労働とは意味の違っ

たものとなった。さらに言えば、貨幣を集めることそれ自体が一種のゲームと

化してしまったので、仕事の本質はなおさら理解しにくくなった。だが、それな

らそれで、「生物学的な仕事」と「貨幣の収集」を同じことと考えればいいので

ある。したがって、私たちヒトにとっての「よい仕事」とは、同じ労力を投入する

場合、少しでもその対価を多く得られる仕事ということになる。そして、同じ労

力と同じ対価を得られるならば、本人にとつて少しでも楽しみの大きい仕事と

いうことになるわけだ。ただし、楽しさという、きわめてあいまいな価値基準を

標準化する方法など、今のところどこにもないわけだから、これについて科学

的に書く事は、不可能だろう。多少なりとも定量的で、かつ定性的な記述がで

きるのは、「時間」という切り口から見たヒトの「仕事」という問題についてであ

る。

第12項

グンタイアリに休息はない

「働き者」の代名詞といえば、アリだが、定住地を持つ営巣性のアリは実際の

ところ、私たちが思うほどには仕事熱心ではない。多くの働きアリの行動を観

察していると、けっこう適当にさぼっている者が多いというのだ。そのなかに

あって、グンタイアリは同情したくなるほどハードな人生を送っている。中南米

に分布する有名なグンタイアリは、そもそも巣を作らない。彼等は大きな群れ

をなして日中は密林の地上をただひたすら行軍し、行く手に出会う生き物は

手当たり次第にかみ殺して食べてしまう。うっかりしていると、かなり大型の

動物でも、グンタイアリの兵隊アリに全身を噛まれ、蟻酸によって体がしびれ

て動けなくなり、そのまま食われてしまうという。彼等は夜になれば、女王を

中心に、適当な木のうろの中などで休息するのだが、このときも兵隊アリは、

お互いの体を鎖状につなぎ合わせてうろの入り口をふさぎ、外敵の侵入を防

ぐのである。昼間は獲物を求めて戦い、夜は仲間と手足をつなぎ合い、空中

に張り渡された生きた壁となって過ごすのだから、ほんとうに休む暇もなく働

いていることになる。兵隊アリに戦士の休息などないのである。

 

労働の平等が達成される社会とは?

ヒトの場合、労働とは、単に賃金を得るための行動ということで比較的簡単に

片が付くだろう。などと言うと、経済学の専門家からお叱りをこうむるかもしれ

ないが、少なくとも貨幣経済というものが成立しているからこのかた、ヒトが働

くのは、「金をかせぐため」というのは事実である。貨幣という形で、労働の価

値を客観化?する方法を発明したことは、ヒトに限った場合、問題の本質を覆

い隠すのに絶大な効果を発揮したと言ってよい。つまり、私たちはいったいな

んのために働くのか、という問題が、すべて金の問題にすり替えられてしまっ

たのである。もともと、人間の基本的労働には、それほど大きな価値の違い

などというものはなかったはずだ。ヒトがまだ前経済時代、狩猟採集生活の

みを行なっていた頃には、マンモスを直接狩る人間も、石を割って槍の穂先

や矢尻を作る専門職(がいたとすれば、だが)も、その革をなめして衣服を作

る、おそらく女たちも、皆、自分の属する集団が生きていくためには必要不可

欠な仕事をこなしていたわけであり、それぞれの立場は平等であった。その

働きの多寡をなんらかの方法で量り、獲物の分け前をそれによって変える、

などということはまずなかっただろう。今日でも、狩猟採集をおもな生活の手

段としている原始的部族においては、この平等の原則が貫かれている。

 

アリの世界にも「リストラ」「能力主義」がある

現在では、原生人類と直系ではないということがほぼ確かになったようだが、

ネアンデルタール人の段階で、すでに彼等は、現役の狩人としては役に立た

なくなった老人や身体に傷害のある者にも平等に分け前を与えていたとい

う。もっとも、それでほんとうに皆が満足し、納得していたのかどうかとなると、

たぶん怪しいのではないだろうか。同じ槍作り、壷作りでも、かならず製品の

クオリティには差があり、すでに人々は十二分にその違いに気づいていたと

思うのだが。ところが、ヒトが農業を始め、余剰食料を蓄え、貨幣というものを

使い初めてから、劇的に情況が変わってしまったのである。あるいは、このと

き初めて、ヒトは、同じ仕事(およびその結果としての製品)の中にもクオリテ

ィの違いがあり、それを客観的に評価する方法がある、ということを強く認識

するようになったのかもしれない。クオリティの差が生みだしたものが、現代

で言えば、「能力主義」であり、「リストラ」である。この能力主義やリストラが

人間の世界だけのものかと言うと、実はそうではない。たとえば、ハキリアリ

である。ハキリアリには、働きアリ(ワーカー)と兵隊アリ(ソルジャー)がいる。

働きアリは、ひたすら巣の中に、畑の壌となる植物を運び込み、一部の者

は、その運搬ルートの清掃に従事して、運搬の邪魔になりそうな小石や枝な

どを徹底的に排除する。兵隊アリはこのルートの側面を守り、外敵が植物の

運搬の邪魔をするときには寄ってたかってこれを追い払う。さらに、巣の中で

は、栽培担当のアリが、運ばれてきた植物を噛み砕き、発酵させ、菌糸をうえ

つけ回るとともに、古くなった培養床を運びだす。そのため、ハキリアリの巣

の近くには、巣から出される大量の培養床などのゴミを捨てる場所があり、そ

れ自体が大きな塚となって盛り上がっている。ところが、このゴミ捨て場所へ

向かう行列をよく見ていると、事故によって足や触角、ときには腹部などを失

ったハキリアリが、まだ元気に生きて働いているにもかかわらず、仲間に担ぎ

上げられ、あるいは追い立てられて行くのを目にする。彼等はもはや巣の維

持に役立たないため、ゴミとみなされて文字どうりポイ捨てされているのであ

る。アリとはいえ、その社会は徹底的に、彼等の農耕をスムーズに遂行する

ために進化を遂げたものなのである。アリの世界にも「リストラ」「窓際族」と

いったものがあるとは、まことに身につまされる話である。

 

コメント

アリの習性の研究にも面白い報告がある。働きアリの行動を見ていると、一

生懸命にエサを運ぶアリもいれば、ただブラブラして何もしないで遊んでいる

ようなアリもいるので、全体の何パーセントぐらいか調べてみると約5パーセ

ントであった。効率よくなるように、他のグループのよく働くアリとぶらぶらアリ

を入れ替えてみると、全員がエサを運ぶかと観察すると、やっぱり5パーセン

トのアリはぶらぶらするアリがいるのである。今度はぶらぶらアリばかりあつ

めてみると95パーセントの働くアリと、5パーセントのぶらぶらアリの割合に

なるのである。何もしていないように見えるだけでどうもぶらぶらアリは見張り

をしていたり、ほかにエサがないかと情報を収集しているのではないかと思え

るという報告がある。アリの世界にも自然の法則が働いているのである。会

社人間に当てはめると仕事は出来ないが宴会部長と言われる人達がそうで

ある。その職場の雰囲気を盛り上げたり、活気ずけることが必要なのであり、

リストラで対象にはなるがその人達を全員リストラで排除すると、その会社は

崩壊する。つまり全体のバランスが崩れるのである。といってもぶらぶら社員

が5パーセント位はよいが、10パーセントを越えるとやはり会社は倒産する

ことは間違いのない事実である。

 

第13項

「効率」を数値化するアロメトリー式とは?

たとえば、ネズミからゾウにいたるまで、哺乳類の体重とその代謝率(単位時

間あたり、動物がどれだけのエネルギーを消費するか、という尺度)を調べ、

それをグラフにしてみたとしよう。もし、動物の代謝率が単純に体重に比例し

て大きくなっていくものなら、そのグラフは45度の右上がりの直線となってい

くはずだ。そして、もしネズミの体重が100グラムでゾウの体重が10トンだっ

たとしたら、ゾウは一日あたりネズミの10万倍の餌を食べ、10万倍の酸素

を呼吸によって消費すことになる。ところが、実際には、このグラフは、動物の

体重が重くなるにしたがってしだいに右下がりのカーブを描いていく。つまり、

動物の体重と代謝率は単純な正比例の関係にはないのである。考えてみれ

ば、そうでなければちょっと困ったことになる。もし、先のネズミが一日10グラ

ム(体重の10分の1)の餌を食べ、ゾウもその比率に従うとすると、ゾウは一

日に1トンもの餌をたべなければならないわけだ。それだけの餌を確保するこ

とは実質的に不可能だし、ゾウは不眠不休で毎分屋久94グラムの餌を咀嚼

し、飲み込み続けねばならない。したがって、体が大きくなればなるほど、む

しろ相対的に動物が必要とする餌の量は減っていく。言い変えれば、肉体の

エネルギー効率は向上し、単位体重あたりより少ない餌で生きていけるよう

になるのである。そこで、登場するのが「アロメトリー」の概念である。実際

に、どのようにしてその公式が割り出されていったのか、という問題は、この

際あまり本筋とは関係がないから省略するが、最終的に明らかになったの

は、動物の代謝率は体重の増大に直線的に比例するのではなく、体重の4

分の3乗(075乗)に比例して増大していく、という事実だつた。4分の3乗、

といっても、別にそんなに難しい話ではないからご安心していただきたい。代

謝率が体重の4分の3乗に比例する、というのは、体重の3乗倍が代謝率の

4乗倍になる、ということである。したがって、体重が2倍になったとき、代謝

率は2の3乗、すなわち8の4乗根(電卓の√のキーを2回続けて押せば良

い)=約1・68倍になる。体重が3倍になれば、代謝率は約2・28倍。体重

が10倍になれば代謝率は5・62倍。体重が100倍で代謝率はやっと31・6

倍。体重の増加の割合より、代謝率の増加の割合のほうがはるかに小さいこ

とがよくおわかりいただけるだろう。つまり、これが「アロメトリー」なのである。

生物界においては、代謝率に限らず、さまざまな生物の特性が、このような

アロメトリー式で表すことによって、初めて現実と合致する記述が可能になる

のではないか、というのが本川教授の持論である。

 

目次へ

体の大きな生物ほど怠け者

{4分の3乗}というアロメトリー式で表現されるのは、哺乳類の代謝率だけで

はない。単細胞生物も変温動物も、式の係数が違うだけで、4分の3という冪

数(累乗)は変わらないのである。つまり、この世の生き物はすべて、体が大

きくなればなるほど代謝率が低下するという宿命を背負っており、その低下

の割合はあらゆる生物を通じて一定である、という大法則が存在したわけ

だ。これを、別の言葉で言いなおせば、すべての生き物において、体の小さ

い者は相対的に大量の餌を食べる必要があり、休むことなくあくせく働かね

ばならない。逆に体が大きくなればなるほど相対的に労働量は減り、ゆった

りと余裕を持った生き方ができるようになる、ということだ。どうやら、アロメト

リーという概念こそ、生物の「仕事」を考えるにあたっての切り札となりそうで

ある。本川教授自身、アロメトリーによって企業というものを分析することを試

みている。たとえば、ハツカネズミとゾウを比較すると、体重ではゾウはハツカ

ネズミの10万倍にも達するが、単位体重あたりのエネルギー消費量はネズ

ミの5・6%にしかならない。ネズミの18分の1である。なぜ、こんなにエネル

ギーの消費量が小さいのかと言えば、直接的には、ゾウの体が大きいという

こと、つまり、容積が大きいということ自体が原因である。物体の表面積は長

さの2乗に比例するが、容積は長さの3乗倍に比例する、という事実を思い出

していただきたい。したがって、体が大きくなればなるほど、動物の体の表面

積は相対的に小さくなっていく。表面積が小さくなれば、体の表面から逃げて

いく熱もそれだけ少なくなり、体温を多角維持することがそれだけ楽になる。

より少ないエネルギーで体温を保ことができるようになるということだ。よく使

われるたとえで言えば、風呂桶一杯の湯は冷めにくく、コーヒー・カップの中

のコーヒーはすぐ冷める、というのとなんら変わりはない。ということは、体の

大きい生き物ほど、個々の細胞の代謝能力=熱の生産力は低くてかまわな

い、ということだ。すなわち、「体の大きな者ほど余裕がある」という単純にし

て明快な事実が明らかにされたわけである。そういう意味において、ヒトの体

はネズミの体より怠け者と言っていいだろう。もっとも、生物の時間感覚も代

謝レベルに大きく関連しているようだから、ネズミもヒトも、それぞれの主観的

な時間の感覚に均してみれば、どちらも人生の長さを同じように感じていると

言うのだが。

第14項

生物学的に見た零細企業のメリット

この結論は、多細胞生物の一個の生物と同様に見なしうる「企業」においても

まさに真実である。社員数はほんの数人、資本金は会社設立当時に準備さ

れた法定最低金額のみ、という零細企業は、社員の福利厚生にあてる資金

の余裕などあるはずもなく、社長みずから率先して販売実績をあげるために

走り回らなければならない。しかし、これが大手企業になると、社員一人一人

があげなければならない平均売り上げは逆にぐっと小さくなっていく。辣腕営

業マンが高い業績をあげる一方、窓際でお茶をすすっているおやじもいれ

ば、外回りと称して喫茶店でとぐろを巻いて競馬新聞ばかり読んでる奴もい

る。総じて大手企業になればなるほど、その内部では、遊んでいる人間の数

が多くなる。それでも資本の額が大きく、余裕があるため、そう簡単に倒産す

ることはない。しかし、だからといって、大企業ばかりが何につけても有利な

のかというと、けっしてそうとは言えない。零細企業はともかく数が多い。簡単

に潰れもするが、また、有限会社なら300万円の資本金を一時準備さえでき

れば簡単に作れる。生き物でいえば、世代交代が早く、増殖率がひじょうに

大きい、ということに等しい。こういうタイプの生物は、環境が変化していくと、

それに応じてたちまち新しい適応型が出現し、次の時代を担っていく勢力とな

る。時代の流れに敏感な経営者が、新しいトレンドに乗った新製品を開発し

て、見事ひと山当て、たちまち会社が急成長をとげていくのと同じことだ。これ

に対し、大企業は組織としての慣習が大きく、小回りが利かないだけに、時代

の大きな変化に乗り損ねたら大変である。恐竜と同じ運命をたどることにな

る。下手にに多角経営などに乗り出した場合、逆に自分の首を絞め、死期を

早めることがひじょうに多い。進化生態学において、「r−K戦略」と呼ばれる

基本概念がある。この理論によれば、生物が進化するにあたって、二つの基

本戦略の選択肢があるという。体を小さくし、繁殖率を高め、世代交代を早め

て行くのが「r型」の生物であり、体が大きく、寿命は長く、繁殖率はごく低いと

いう方向を選んだのが「K型」の生物である。どっちが決定的に有利というも

のではない。これら両極の間にもさらにいくつもの中間階層があり、そのすべ

てがからみ合い、相互作用を及ぼし合って、地球生態系という巨大システム

を作り上げているのである。企業の消長も、生物の適応戦略も、その根本に

おいてはまったく同じ法則に支配されていることが、ここからもよくわかるだろ

う。

 

第15項

「キノコ栽培」を行なうアリの謎

ヒトと、ヒト以外の動物の食事における決定的な違いというものはあるのだろ

うか?もし、何か一つ、強いてそれをあげるとするなら、ヒトは食料確保のた

めに自ら食べるものを栽培し、貯蔵することを知っている、という点があげら

れるだろう。ヒトの農耕の歴史がいつ始まったのかはいまだによくわからな

い。最近の研究では、ニューギニアの山地で、すでに紀元前8000年〜

7000年には焼畑農耕が始まっていたのではないかとも言われ、中国では、

揚子江下流域において、紀元前4000年代から稲作が始まっていたのは、

どうやら確実らしい。日本でも、縄文前期後半、つまり、今から5500年前か

ら1500年続いたと言われる青森県の三内丸山遺蹟からは、クリやイヌビエ

などを意図的に栽培していたと思われる痕跡が見つかっている。少しうまいも

のを、安定してたくさん食べたいというヒトの飽くなき欲望は、自然界に存在

する植物の中から、よりうまいもの、より多収穫のものを撰びぬき、それを組

織的に栽培するという方法を必然的に採らせた。さらには、肉質のよりすぐれ

た野獣を飼育し、増殖させてその肉や毛を利用するという方法も採用するよう

になった。農業および畜産は、今のところまぎれもなくヒトだけが持つ行動様

式であり、かつ、ヒトが地球生態系を本格的に圧迫し始めた最初の経済活動

でもある。巨大テクノロジーを白眼視する人々も、なぜか有機栽培農法は自

然にやさしい、「政治的に正しい」テクノロジーであるなどという奇妙な思い込

みを持っているようだ。しかし、農業というものはそもそもそれ自体が、どう弁

解しようとも地球の本来の植生に対する破壊的な侵襲行為である。ヒトは森

林や草原を切り開き、そこに生殖質(種子イモ累などの栄養体)だけが異常

に巨大化するよう何千年にもわたって人為的な淘汰圧、つまり品種改良を加

えてきた。モンスター植物だけを植え付け、それ以外の植物の侵入を徹底的

に排除し続け、人工的に進化を加速させてきたのである。それだったらなだし

も、完全な集中管理を行なう大規模集約農法によって、より少ない面積でより

高い収穫をあげる農業を目指したほうが、よほど地球のためになるのではな

いかと思われるのだが。ところが、生命の歴史とは実に驚くべき実験に満ち

ているものだ。この地球上には、私たちの農業と結果的にはまったく同じもの

を生み出した生き物が存在するのだ。たとえば、その有名な例が、中南米に

分布するハキリアリとよばれるアリの一種である。膜翅目アリ科フタフシアリ

亜科に属するこのアリは、その名のとおり、巣から遠征しては木によじ登り、

自分の体をコンパスのように使っては花びらを、ぐるりと丸く切り取って巣に

持ち帰る。このときのハキリアリの行列は、あたかも緑のパラソルをかざした

アリたちのパレードのように見えるため、別名これをパラソルアリとも呼ぶが、

大きな巣になると、ひと晩でコーヒー園のコーヒーの木が丸坊主にされるとい

うから、あまりありがたい虫ではない。彼等がいったい何のためにこんなこと

をするのかと言うと、驚いたことに、彼等はそれを巣に持ち帰って細かく砕き、

これを苗床として、その植えに特殊なキノコを植え付けるのである。集めてき

た木の葉はあくまでも肥料にすぎず、ハキリアリの本当の主食はこのキノコ

のほうなのである。また、このキノコもハキリアリの巣以外の場所では育た

ず、ハキリアリの数が増えて巣分かれが起こるときには、羽化した女王アリと

雄アリの体にその胞子がついて次の新しい巣へ運ばれていくという。ヒトがム

ギやイネを育て、ヒトの移動とともにそれらの植物が伝播していった過程とま

ったく変わらない。行く先々で彼等は、農業という独自の文化を伝え、食料を

安定確保して自分たちの繁栄をはかる。どこにあるのかわからない餌を求め

てさすらうよりも、農業を行なうほうが効率的なことは明らかである。いったい

どのような淘汰圧が働いて、彼等はこのような行動を身につけ、遺伝形質と

して子孫に伝えていくまでになったのか。現時点では、それはまだわからな

い。たまたま、そのキノコが栄養たっぷりでおいしいということに気づいたハキ

リアリの祖先がいたとして、それを組織的に栽培し、それに依存して生きてい

くような方向に彼等が進化するには、いったいどれほどの偶然や試行錯誤が

なければならないのだろうか。こういう例を見ていると、ほんとうに私たちは進

化というものについてまだ何も知らないのだということを痛感する。

 

第16項

セックスを隠すために「家」が必要だった

ヒトの住処というのは、どうやら他の動物とはまったく違った意味を秘めてい

ると思ってよさそうだ。そこで、注目されるのが、ヒトの来歴である。ヒトはまだ

森の中に住んでいた時代から、積極的に後ろ足で立ち上がり、サバンナへ進

出していこうとする傾向を見せていた。いったん森から離れれば、彼等には身

を隠す場所もなく、草原を疾走する大型肉食獣にとっては手軽でおいしいお

惣菜のようなものである。どうしても彼等は、夜間、安全に眠る場所を必要と

した。とりわけヒトは巨大な大脳新皮質を持ち、この脳を休ませる深い睡眠

(ノンレム睡眠)をとらなければならない。そのためにも、天然の洞窟のような

場所はヒトの祖先にとってきわめて価値のある「不動産」だったにちがいな

い。それに、何よりヒトは、他のすべての類人猿に比べても、恒久的なオスと

メスのペアを基本単位とする家族のつながりがとびぬけて強い。森林性の類

人猿たちよりはるかに過酷な生活環境の中で、オスとメスがともに自分の遺

伝子を最大限に残すためには、メスはオスの力に頼るしかなく、オスはとくに

自分の子供を生んでくれるメスを守るしかないのである。ヒトには発情期とい

うものがなく、メスがいつでもオスを迎え入れられるのは、メスがセックスとい

う報酬でオスを自分と子供のもとにつなぎとめるための戦略に端を発するの

ではないか、という説もある。このような性向を持つ生物は、必然的に、広い

洞窟などで大きな群れが雑居するよりも、家族単位で分かれて住める住居を

求めるようになるだろう。つまり、ヒトが「家」を持ちたがるわけが、セックスに

あるのである。ヒトは哺乳類の中で、もっともセックスに対する禁忌が少なく、

発情期がない例外的な生き物である、と言われるが、実際には、発情期の有

無という点に関しては、他の動物と人間の間を結ぶ生き物がある。それが、

あらゆる類人猿の中でもヒトにもっとも近いと言われるボノボ(ピグミー・チン

パンジー)である。ボノボの社会では、セックスは単に生殖のためではなく、

群れの中での固体間の緊張を緩和し、コミュニケーションを円滑にするため

の手段として活用されており、日常的に互いの性器をこすり合わせたりする

あいさつが行なわれている。ヒトの性行動も、このような段階から進化し、そこ

にヒトの好奇心や快楽を追求する性向が加わって、今日の複雑多様なセック

ス文化が形成されたらしい。しかし、それでもヒトは、ボノボのように人前でお

おっぴらにセックスをすることには抵抗を示す。おそらくこれは、メスがセック

スをオスに対する報酬として利用し、家族という単位が形成されていく段階に

おいて、他の固体との間に無用の軋轢を引き起こさないよう、特定のペア

が、他の固体のいない場所で交尾行動を行なうようになった名残であろう。ヒ

トが自分の持ち家を欲しがる根本的原因はここに求められるのかもしれな

い。

 

第17項

30万年前からヒトは「家」を持っていた

こうして、ヒトは可能な限り家族単位で安全な隠れ家を持つことに強く執着す

るようになった。そして、天然の洞窟が不足した場合には、100%人工のシェ

ルターを作ろうとさえ考えるようになったのである。現在知られている限り、世

界最古の「家」、すなわち天然の洞窟以外の住居は、すでに30万年も前に

登場していた。この時代、ヒト科の代表と言えば、いまだホモ・エレクトゥスで

あり、理屈の上ではネアンデルタール人が現われていたはずだが、その確か

な化石はいまだ見つかっていない。30万年前のものと言われるフランスのテ

ラ・アマタ遺蹟では、長径8〜10メートルほどの楕円形の住居跡が10ケ所

ほど発見されている。これは、当時としては大都会と言っていいものだったろ

う。住居は長軸に沿って二列に柱を並べたもので、これを中心に枝を立て掛

けて壁を作り、その上に動物の皮などをかぶせて裾を石で押さえてあったら

しい。床には炉が切られ、火を炊いた跡もはっきりと残っていた。この構造自

体は、日本でも奈良時代まで現役のものとして用いられてきた竪穴式住居と

たいした違いはない。ホモ・ エレクトゥスといえども、建築家としてはなかなか

馬鹿にできない能力を持っていたというわけである。しかし、ヒトの作る家屋

は、ただ単に家族がいっしょに過ごす洞窟の代用品のレベルにとどまらなか

った。やがて、ヒトは宗教的な礼拝所や天体観測施設として、巨石を集めた

建築物を作り始め、さらにそれは王の墓や神殿となり、高層ビルや東京ドー

ムや発電所といった、今日のありとあらゆる巨大建築物へと進化を遂げてい

くのである。「住む」という機能から離れた建築物を、これだけ多様に作り出す

能力を持つのは、さすがヒト以外にはいない。だが、相対的な大きさに限って

言えば、ヒトの作るどんな高層ビルもはるかに及ばないものを作り上げる生

物も、自然界にはけっして珍しくはないのである。

 

第18項

 

地球最大の建築物とは?

月面からも見ることのできる地球上で唯一の建築は万里の長城である、とい

う言い回しが以前あったが、現代では、もちろんそんなことはあるまい。砂漠

や草原の中をまっすぐに突っ切るアメリカの州間高速や大規模な運河など

は、万里の長城などよりよほど人工的な構造に見えるにちがいない。しかし、

生命が作り出した構造物ということで言えば、地球にはこれよりはるかに巨

大なランドマークがある。それはサンゴ礁である。なかでも、オーストラリア東

岸のクイーンズランド州沖合に横たわるグレート・バリア・リーフは、全長

2072キロで、地球上にある生物を起源とする構造物としては間違いなく最

大のものだ。その総面積は、20万7000平方キロに達し、日本列島の半分

以上ある。サンゴというのは、ご存じのように、「さんご虫」と呼ばれる小さな

生き物が集まって作り上げたものだ。個々のサンゴ虫は直径1ミリから数ミリ

程度の小粒のイソギンチャクのような姿をした生き物で、体から石灰質を分泌

し、その周囲に外骨格を作る。無数のサンゴ虫が集合して、この外骨格が巨

大に成長したものを、私たちはサンゴ礁と呼んでいるわけだ。サンゴ虫一匹

の大きさから考えると、全長2000キロを超える巨大なサンゴ礁を作り上げる

のは想像を絶する大事業だが、グレート・バリア・リーフが形成されるまでに

は、数十万年かかっているという。100平方メートルそこそこの家を3、4カ月

で建ててしまう人間とは、スケールが違うのである。ただサンゴは、あくまで

も、無数の小さなサンゴ虫の集合体である。たしかに個体群としての規模は

大きいが、それは社会ではない。個々のサンゴ虫は都心の大型マンションの

住人と同じで、隣り同士に交渉はなく、互いに関心を示さない。ヒトは子育て

のために存在する「裸のサル」ダーウィンの「種の起源」(1859年)以降、私

たちの人間観を大きくゆさぶった自然科学関連の本を選ぶとすると、その面

白さにおいて群を抜くのは、デズモンド・モリスの「裸のサル」であろ

う。1967年に発行されたこの本は、ヒトがその進化の歴史を通じて営々と積

み上げてきた、あらゆる文化的装飾を徹底的に剥ぎ取り、「裸のサル」とし

て、ヒトの本質を容赦なく暴きだした。つまり、どれほど豪華な文化で覆い隠

そうとも、ヒトのあらゆる行動の根底に存在するのは、他の動物とまったく変

わらない、一匹のサルとしての行動原理だと言うのである。ヒトのオスは他の

同性の個体と絶え間ない闘争を繰り返し、自分の地位の高さを誇示し、より

よいメスを獲得し、自分の子供を産ませようとする。メスは、より強く、生活力

があり、確実に自分を保護して子供を育てさせてくれるオスをつかまえよう

と、あらゆる努力を展開する。よい仕事、よい給料、よい身なり、よい家、よい

食事、その他、私たちが目指すあらゆる生活目標は、つまるところ、よりよい

つがいの相手を得るための方策にほかならない。そして生れた子供によい教

育を施し、よい会社に就職させ、よい結婚相手を得させようとする親の努力

も、せんじつめれば、努力して得た自分の子孫を確実に繁栄させようとする

親の本能的欲求の表れ以外の何物でもない。もちろん、「裸のサル」でモリス

が展開した主張のすべてが他の研究者に受け入れられたわけではない。そ

の跡の生態学の進展にともなって、動物行動の原理に関する私たちの基本

的認識そのものが大きく変わってしまった部分も少なくない。なかでも、もっと

も重大な変化は、ヒトは誰の利益のために行動しているのか、という問いに

関する部分であろう。1976年に発表された、リチャード・ドーキンスの「生物

〓生存機械論」は、生物学史上屈指のパラダイムの転換を象徴する本であっ

た。この本のおかげで私たちは、生物は「種」という単位のために行動してい

るのではない、ということに、初めて目を見開かされたのである。すなわち、こ

の新しい生命観によれば、進化の真の主役は、「種」でもなければ「個体」で

もなく、その個体が乗せている「遺伝子」そのものに他ならない。そして、私た

ちのあらゆる行動形質は、最終的には、ただただ、自分と同じものを少しでも

多く増やしたい、という遺伝子のプログラムを実現するためにのみ進化してき

たというのである。この最終目的のためなら、遺伝子は、今、自分が乗ってい

る個体の寿命を縮め、あるいは死に至らしめることさえ厭いはしない。これ

が、有名な「利己的遺伝子」説である。そして、この考え方にもとづくことによ

って、これまで説明の困難だった、生物のさまざまな自己犠牲的な行動にも、

ほぼすべて合理的な解釈が与えられるようになったのである。現在の生態学

は、ちょうど、この新たなパラダイムを学会全体が受け入れようとする過渡期

にあると言ってよい。

 

第19項

「少子化」をヒトは自ら選択した

この理論が私たちの生命観に与えた衝撃は、たいへん深刻なものだった。ヒ

トは、ヒト遺伝子の「増幅装置」としてのみこの世に存在する、と断定されたの

である。私たちの存在目的は、自分の遺伝子を持つ子供を、少しでも多く、確

実にこの世に残すことにあって、食べることや、自分の家を持つことなど、人

間の行なう仕事のすべては、この一点に集約されてしまうというのだ。では、

どんな生き物も、よりたくさん子供を産む方向に進化してきてしかるべきだ

が、少なくともヒトはその方向に進んではいない。先進国に限っていえば、む

しろ子供はより少なく、結婚する年令もより遅くなり、結婚を人生の最大の目

標と考えない人間がしだいに増えていく傾向にある。もっとも、その代わり、

先進国においては、親から子供への「投資」の量がとてつもなく膨大なものと

なってきている。親が子供に対してしてやることは、ただ単に食わせ、寝か

せ、おむつを易えてり、大きくなったら義務教育を施し、などという単純もので

は、もはやあり得ない。日本の例で言えば、七五三の晴れ着作り、幼稚園の

PTAでの母親のファッション・ショー、お受験、大学の入学式典から卒業まで

のつきそいというように、今や、かっての「育児」という概念は、親子一・五(つ

まり、なかば重なった)世代一丸となっての「人生」という新しい概念に取って

代られつつある。子供を持った親の多くにとっては、もはや、子供の人生は自

分の人生となかば融合した生涯最大の「仕事」なのである。聞くところでは、

中国でも、一人っ子政策が都市部において定着した結果、高所得層の一人

っ子は、「小皇帝」と称されるほど家庭の中で優遇されているという。このよう

に文化的な背景も手伝って、自分の遺伝子の継承者が、もはや一人の子供

だけという時代となれば、否応なく、親は労力のすべてを、その子供の生存

確立向上のためにつぎこむしかなくなるのである。とりあえず今のところ、私

たちの文化の骨格は、いまだ生物学的欲求をもとに組み立てられているらし

い。それだけ、「子孫を残す」ことは重要な「仕事」となってきたわけだが、厳

密にいえば、それは、子供を「作る」という部分と「育てる」という部分に分けら

れる。今、私たちにとってより重要なのは、「育てる」という部分のほうである。

 

第20項

 

「私」についてのモデル

私たちはいつまでも、「私」とは何だろうか、問いつづけます。たぶんだれにも

共通な答えなど、ないのだろうと思います。私たちはそれぞれに、「私」が何で

あるかについて固有のモデルを持っています。そして生きていく過程で、モデ

ルをバージョンアップしていきます。それがまた生きている証でしょう。ワーグ

ナーは「自然から生れて自然にもどる存在」というモデルを大切にしていまし

た。「私」について深く考えようとするとき、自然の一員という原点から始める

のは見通しを良くするかもしれません。ところが自然そのものも、時代によっ

てとらえ方が大きく変わっています。そうすると、「私」についてのモデルは、

その時代の自然についての科学のパラダイムの影響を深く受けていることに

なりそうです。複雑系の時代に生きる私たちは、自然についての科学からど

う学んで自分のモデルを作ろうとしているのでしょうか。ここ30年ほどは、自

然科学のパラダイムがこれまでになく大きく変わった期間です。その流れをざ

っとつかみながら、「私」を見直すヒントを探しましょう。パラダイムの変化は三

つに分けることができそうです。年代でいうと、60年代まで、80年代まで、そ

していまです。60年代までは安定した平衡状態とその近くの状態が、研究の

中心でした。そしてエントロピーの法則が、基本的な見方を定めていました。

外の世界と物質やエネルギーのやりとりのない孤立したシステムでは、秩序

はつねに失われていき、ついには熱平衡(熱的な死)の状態にいたる。これ

がエントロピーの法則です。エントロピーは無秩序さの度合いを表しているの

で、これはエントロピー増大則とも呼ばれます。エントロピーは多くの人たちの

心をつかまえています。私がこのことばにはじめてふれたのは、高校生の頃

で、哲学者のバートランド・ラッセルのエッセイからでした。確か時間の一方向

の流れをエントロピーの法則と結びつけて、議論していたように思います。エ

ッセイを読みながら、神秘的な気持ちにとらわれてしまったことを、いまでもよ

く覚えています。もし私が理系に進まなかったら、その神秘のままの気持ちで

エントロピーに接しつづけていたのではないか、と思われます。こわいことで

す。「秩序はつねに失われる」というのは、私たちの多くの体験とも合ってい

て、いさぎよい表現でもあるので、これをもとに「私」のモデルを作ってみたく

なります。でもその前提が、孤立したシステムについてのみ成り立つ、という

ことであるのを、はっきりとさせておきましょう。物質やエネルギーが出入りし

だすと、エントロピーでなくて、自由エネルギーという量を導入して、自由エネ

ルギーはつねに減少する、と言い換えなくてはなりません。このときエントロ

ピーが減っていく、つまり秩序が増えていくことも可能になります。いまから思

うと、60年代は自然科学のパラダイムの大きな転換期でした。それは世界規

模の大学紛争やベトナム戦争とも重なった時期です。世の中の動きが自然

科学のパラダイム転換に大きく作用したのではないか、と考える研究者も多く

います。60年代の過渡期から70年代にかけて、はっきりしてきたのが、自

己組織パラダイムです。それまで静的なシステムを中心にして研究してきた

流れが、動的なシステムに大きく移ってきたことを反映しています。平衡から

遠く離れた、物質やエネルギーが流れつづけるようなシステムでは、動的な

秩序が生れてくることができる。エントロピーの法則を基礎にして、秩序形成

の理論を提出したのがプリゴジンでした。新しい秩序は、エネルギーをミクロ

な世界に散逸させながら持続していくので、散逸構造と名付けられました。流

れのあるシステムでは、動的な秩序が自己組織される。そしてその秩序は、

たまたま生れた小さなゆらぎが発展してできる。このゆらぎと自己組織のパラ

ダイムは、歴史的な変動期のなかにいる私たちを励ましつづけてくれました。

「ゆらぎ」ということばは、熱力学の専門用語から日常用語になっています。

静的なシステムでは、ゆらぎが生れても消えてしまいます。これはちょうど大

量生産の安定した仕組みでは、ゆらぎというものが不要だったことに対応しま

す。ところが動的なシステムでは、ゆらぎこそが新しい秩序へつながっていき

ます。生産の現場でも、安定した仕組みがすでに役割を終えて、差異や創造

性が中心となるような、新しい段階を模索しだしました。この動的な状態で、

ゆらぎがかぎをにぎっている、と主張されだしたのです。自己組織の議論のな

かでゆらぎとともに生れたのが、ホロンでした。自己組織をもっと詳しく調べて

いくと、部分でありながら全体としての面を持っている、そうした要素の集まり

が自己組織を可能にしていることに気がついたのです。全体と部分の両方の

性質を持つという意味で、ホロン(全体子)ということばをケストラーが与えま

した。清水博さんは自己組織の理論をさらに発展させて、環境に合わせて関

係を自ら変えていくような要素が自己組織を担っていると考えました。そして

そのような要素をあらためてホロン(関係子)と定義しました(清水1992)。こ

れらのホロンも、多くの人たちに深い影響を与えています。そして90年代の

いまです。自己組織の理論は90年代に入って、さらに深まりを増してきてい

ます。カオスやフラクタルの理論がこれに大きく寄与しています。この二つに

ついて、少しコメントしておきましょう。

 

第21項

まずカオスから

これまでの世の中のすべての過程は、決定論的な過程と非決定論的な過程

に分けられてきました。決定論的な過程では、最初の状態が定まると、未来

をすべて予測できます。ニュートンの方程式で書かれた世界がそうです。この

ために未来の星の動きを予測できるのです。これに対して、非決定論的な過

程は、確立でしか表せなくて、未来を予測できません。ゲームやギャンブルの

世界はこちらです。ところが決定論的な過程であっても最初の状態のほんの

少しの違いが、先にいって無限に大きな違いになってしまうような過程がある

ことがわかってきました。観測にかからないほどの微細な違いが、あとで大き

な違いを引き起こす。これではいかに決定論的な過程であっても、未来を予

測できません。これがカオスの世界です。この世界に気がついたことで、決定

論的な過程と非決定論的な過程のあいだの境目がなくなってしまいました。

最近では株価や為替相場などの経済の世界も、カオスの世界に属している、

と考える研究者も出ています。つぎにフラクタルについて。全体のパターンを

部分に分けていっても、またもとと同じようなパターンが現われるのは、海岸

線や山岳や雲あるいは乱流などに共通に見られる大きな特徴です。これを

自己相似とか入れ子構造といいますが、数学的に表現するとフラクタル図形

ということになります。数学では長い間、部分に分けていくと単純になるような

対象をあつかってきました。ところがフラクタルはこれと違って、部分に分けて

いってももとと同じく複雑なままなのです。これをあつかうには、これまでとち

がった数学が必要になります。コンピュータの性能が進んできて、ようやくそう

した数学も可能になってきました。実はカオスもフラクタルは、密接に結びつ

いていて、カオスをとらえ直していくとフラクタルになるのです。カオスとフラク

タルが引っ張り役になって、複雑系の理論がいま大きく発展してきています。

そして自己組織する動的な秩序の詳細が調べられてきました。秩序構造の

分類学も始まりました。なかでも注目されているのが、生命という秩序が広く

調べられだしたことです。その成果の第一歩が、生命の秩序を「カオスの縁」

として位置づける試みです。これを理解するために、ここでも少しコメンをしま

しょう。マセティカという数学の分野の革命的なソフトウェアを生み出したので

有名なウォルフラムは、以前に計算機で、一次元のパターンの時間発展の分

類をやっていました。そして大きく四つに分類できることに気がつきました。第

一はいずれ均一になるもの、第二は周期的になるもの、第三はカオス的にな

るもの、そして第四が複雑なものです。その研究は詳細は単行本として出版

されました。アメリカのサンタフェ研究所のラングトンたちは、生命の特徴を計

算機を用いて研究していて、生命は複雑であることに特徴があり、その複雑

性はウォルフラムの分類の第四に一致し、それが実は第二と第三の境界に

位置していると主張しました。もっと文学的に表現すると、生命はカオスの第

三世界で誕生して、進化しながら秩序の第二世界の境界に浮かび上がって

きた、というわけです。同じくサンタフェ研究所で活躍しているカウフマンも、

独自のモデルを用いて、カオスの縁の研究を進めています。これと同じような

概念がいま注目されています。それは「自己組織臨界状態」です。複雑系が

進化していくと安定とも不安定ともいえない、臨界状態にたどり着く、というの

がポイントです。水と氷が融解点で共存している状態も臨界状態の一種で

す。臨界状態ではどんな大きさのゆらぎも可能になるのです。私たちが生き

ているかぎり、健康であったり風邪を引いたり、ときには重病になったりする

のも、臨界状態であることの現れなのです。どうも生命という状態は、ときに

安定でときに不安定であり、いろんなゆらぎが起き続けている、無常と表現す

るのが適切なもののようです。この方向の研究が進んでいくと、「私」につい

ての新しいモデルが生れてきそうです。それは臨界状態としての私の生命

を、いとおしむ方向につながっていくでしょう。

 

第22項

生物の一員

社会人文科学の分野では、人間が他の生物と違う、というところから話は始

まります。人間は文化を持っている、人間は意識を持っている、人間は自分

のことを考える自由を持っている、などなど。でも生物と同じ地点にまでもどっ

てみると、もっと見晴らしがきくかもしれません。生物学も他の学問と同じく、

その時代のパラダイムがあります。いまは遺伝子のレベルで生物を統合的に

理解していこう、という基本的なパラダイムになっています。長い進化の過程

さえも、遺伝子が自分とおなじ情報を持った遺伝子を増やそうとする、遺伝子

の利己主義の展開過程だ、として研究されてきています。しばしば生物が示

す助け合いの行動も、実はそのほうが、遺伝子が自分の仲間を増やすうえで

都合がいいからだ、という具合に理解されているのです。遺伝子のパラダイ

ムが進んできて、いまやその極に達しました。ヒトの遺伝子のすべてを分子レ

ベルで明らかにしようというのです。そのための研究が、アメリカでも日本でも

進められています。また人間以外の多くの生物種の遺伝子の構造もどんど

ん調べられています。そして違った種の遺伝子を比べて、進化の過程を追求

する研究も発展しています。遺伝子の構造が広範囲にわかってきて、さまざ

まな画期的なことが明らかにになりつつあるのが現状です。そのうちの一つ

をここで手がかりにしましょう。それはチンパンジーとヒトの遺伝子を比べてた

結果です。それによると、チンパンジーとヒトでは95パーセントまで、遺伝子

の持っている情報が一致するのです。遺伝子で見るかぎり、ほとんど区別で

きないくらいです。だから多くの性質をおたがいに共通に持っているとしても、

不思議ではありません。チンパンジーと似ているだけでなくて、ヒトが進化の

過程で生れてきた以上、多かれ少なかれ多くのの生物と共通している面を持

っているのはむしろ当然なのです。ここに私たちを生物の一員として論じてい

く根拠があります。見通しのきかない複雑系の時代に入ってきて、あらためて

人間を生物としてとらえ直そうとする関心が広がってきています。少し古くなり

ますが、たとえばタイム誌の1992年1月20日号では、男と女の違いがどれ

ほど生物としての違いに由来しているかという話題をカバーストーリーにして

います。少し紹介しましょう。それによると、男と女に見られる行動の違いのう

ちで、脳の違いに関係している場合も少なくないようです。脳は右脳と左脳に

分けられ、右脳が身体の左半分を制御し、左脳が身体の右半分を支配して

います。このことをまず確認しておきましょう。いまここに男のほうが女よりも

左利きが多い、というデータがあります。先ほどの関係から、それは男のほう

がより多く右脳(直感や感情をつかさどる場所はおもにここにある)を使って

いるからだ、ということになります。また女は言葉を話すときに左脳(言語をつ

かさどる場所はおもにここにある)だけでなくて、同時に右脳も使っているとい

う観測があるそうです。そうすると、女の子のほうが生れてから話はじめるま

での期間が短く、また女のほうが語彙も豊富なのもうなずけます。細かいこと

はともかく、生物としての存在に根ざした特徴が私たちの深層にあるのは確

かなようです。メデアには性の違いが存在していて、たとえば私はたまたま男

のメデアを持っていた、というわけです。情報時代はメデアがかぎをにぎる時

代です。力仕事がなくなっても、男と女の違いはなくなるのではなく、むしろメ

デアの違いとして情報時代を彩っていくのでしょう。それでは生物が生きてい

くうえでの原動力は何でしょうか?はっきりしているのは食と性の二つです。

私たちはいま豊富な食料に恵まれていて、食の問題は解決済みになってい

るように見えます。お金さえあれば好きな食物が手に入ります。でも本当に問

題は解決したのでしょうか?私にはとてもそうは思えないのです。私自身との

関係を見るための最後の作業として、食について入力と出力の両方から考え

てみましょう。

 

第23項

食からの出発

まず食の入力の面から調べていきましょう。つまり食べ物を運んでくる面で

す。必要な物を必要なだけ食べる、というのが゛生物のあり方だとすると、私

たちはここからはるかに退歩してしまっています。量の点からいきましょう。太

りすぎが文明のようにいわれますが、単純に食べ過ぎである場合がほとんど

です。中年になるとお腹が出るというのを、運命のように思っている人たちも

多い。必要以上に食べているだけなのに。このことは大きな問題をはらんで

います。もっとも身近な自分の身体のあり方さえも、運命としてしかとらえられ

ないとすると、自らの範囲を超えた世界はもっと運命的なものとしてしか受け

取られなくなるはずです。そうすると環境への能動的な働きかけも、できなく

なります。太りすぎは身動きが不自由になるだけでなくて、精神的な病気でも

あるのです。体重を自分でコントロールするというのは、食をめぐる最初の課

題でしょう。多すぎたら減らし、少なすぎたら増やす。どれほどの重さが暮らし

にとって最適かは、自らの調子を注意深く見ていればわかるはずです。都心

の電車に乗っていると、以前にくらべて太っている人がずいぶん減ってきてい

るようです。こんなとき少し大げさですが、時代は能動的な方向に向かってい

るのかもしれない、とさえ感じます。つぎに食べ物の中身を考えてみましょう。

私たちは本当に必要なものを食べているのでしょうか?栄養のありそうなも

のを食べていて、実は不可解なものを食べなかったり、逆に毒をそれと気づ

かないで食べているのかもしれません。こうしたことが長年続くと、慢性的な

病気にもつながるでしょう。もっと劇的には死にいたります。食料が豊富だか

らといって、問題は少しも解決されていないのです。このことを歴史のなかの

一つとの例で示しましょう。北極の地にはイヌイットたちが住んでいて、アザラ

シやセイウチなどを食料にしています。彼等にとっては食料は豊富です。とこ

ろが同じ場所に探険にでかけた、イギリスの海軍軍人のフランクリンとその隊

員たち129人は、3年ほどのあいだに全滅してしまったのです。彼等は北海

航路を発見するための探険の途中でした。150年ほど前の出来事です。イヌ

イットたちが生き延びているのに、なぜより文明のすすんだイギリス軍人たち

が死に絶えたのでしょうか?彼等はイヌイットにならって、トナカイ、アザラシ、

セイウチ、シロクマをつかまえました。性能のよい銃を使って、食料は足りて

いたのです。しかし彼等は食べ方を知りませんでした。彼等は故郷にいるの

と同じ食べ方をしました。肉は焼いたり煮たりして食べ、内臓はみんな捨てて

しまう。ところがイヌイットたちは違っています。肉は生で食べ、もちろん内臓

も食べます。そうすることでタンパク質や脂肪だけでなく、ビタミンもたっぷり摂

取します。イギリス軍人たちはビタミンCをとることができないために、つぎつ

ぎと壊血病にかかってしまいました。これがついには全滅につながったので

す。だがら食料が豊富にあるからといって、安心できるわけではないのです。

何をどのように食べるか?ここをまちがうと、フランクリン隊ほど劇的でなくて

も、死にいたる病にとりつかれてしまうでしょう。私たちは食べ物に気をつけて

いるようでいても、大きなまちがいをしているのかもしれません。良質のタン

パク質があるからといって卵を食べ、コレステロールがあるからといって卵を

食べるのに躊躇する。鉄分が多いのでホーレン草を食べ、結石の原因になる

のでホーレン草を敬遠する。極めつけはイワシが体にいいというので朝から

晩までイワシだけを食べる、といったところです。イワシを酢大豆に入れ替え

ても、豆乳に入れ替えてもよいでしょう。情報が豊かになって、かえって本質

が見えなくなってしまいました。必要なものを食べることからすると、私たちは

急速に退化しているように思えます。なによりもすべてばらばらにする要素還

元主義の流れに食べ物も取り込まれてしまい、栄養も要素としてしかとらえら

れないのです。この食品はタンパク質がどれぐらいで、ビタミンがいくらといっ

た具合に。しかし食べ物こそ、要素の足し合わせで全体になるのではなく、全

体がはるかに大きいような複雑系なのです。イヌイットはアザラシのすべてを

食べることで、全体の複雑系をそっくりとらえています。栄養素に分けてしま

っては、食べ物でなくなるのでしょう。私たちは量と質の両方の面から、入力

としての食を見直さなくてはなりません。食は選びとれるはずなのです。それ

を運命としてしか受け取れないとすると、情報時代にいていつしかアニミズム

の時代にもどっていることになるでしょう。今度は出力のほうから食をながめ

てみましょう。私たちは出力の面からも、困難に出会っています。私が小中学

生の頃、それは昭和20年代の後半ですが、食べ物の価値というのは、それ

がどれほど多く栄養を含んでいるかで定まると学びました。タンパク質という

ことばは輝いていて、肉や魚、あるいは卵やチーズが基調なものに思えたの

ものです。またビタミンを含んだ食べ物や、炭水化物や脂肪も適当にとらなく

てはならないと教えられました。いまから思うと、そこにはあきらかな特徴が

見られます。それは食べ物を私たちの身体にとっての入力成分としてとらえ

ている、という点です。食べ物が食道から胃腸を通るあいだに消化され吸収

されるところまで詳しくながめます。どんな栄養がどこで吸収されていくか、と

いう身体にとっての入力をめぐる話がいつも主題です。ところがいま先進国で

問題になっているのは、いかに栄養が十分に入力されていくかではありませ

ん。栄養が不足しているということではなくて、ばらばらにした栄養で見れば、

それぞれをとりすぎていることにより大きな問題があります。また栄養たっぷ

りの肉や魚ばかりをとっていると、消化はよいけれど、そのぶん排泄される便

の量が少なくなり、恒常的な便秘の状態に陥ります。入力はどんどんあるの

に、出力のところでつまずいているのです。また栄養が足りないための病気

が減ってきて、今度は栄養のとりすぎのための病気が増えてきました。たとえ

ば糖尿病や痛風など。ここで注目したいのはとくに出力の面です。つまり排

泄をめぐる問題です。出力がうまくいかないための病気がいま急増していま

す。腸の末端部にできるガンの多くはそうした病気の一種だと考えられていま

す。すぐに排泄すべき出力分をずっと保持していては危険なのです。本格的

な情報時代を迎えて、私たちはいっそう多忙になってきています。そうした私

たちをおそっている満性病の多くも、入力よりも出力がうまくいかないほうの

欠陥が大きく作用しているようです。いま必要なのは入力の質とともに、いか

に出力をスムーズにするかです。かっては消化が悪く敬遠されていた、植物

繊維しか含まれないような食品がむしろ重要性を増しています。ヒジキやコン

ブなどの海藻類、ゴボウやイモなどの根菜類、またマメの類など。こうならべ

てみると、かって私たちの先祖たちがいつも食べていたものばかりです。人間

は牛と違って腸のなかに適当なバクテリアがいないために、植物繊維は腸の

なかで消化しません。それどころか腸のなかでふくらんで、便の量を増やして

しまいます。胃腸に負担をかけ、あげくのはてに出力を増やす。栄養をより多

くとろうとする目から見ると、とても評価される食べ物ではありません。ところ

が栄養が足りてきて気がついたことは、入力とともに出力もスムーズにいか

ないと体の健康が保たれないということなのです。先ほどは入力について自

らコントロールできることが重要だといいましたが、同じことは出力についても

当てはまるでしょう。つまり出力もコントロールできるはずだし、またそうでは

なくてはならないのです。ところが入力の始め、つまり口の仕組みや衛生に

気をつけるほどには、出力の終わり、つまり肛門の仕組みや衛生には気をつ

けないことが多い。そうでない例外的なケースもあります。ヨガの極意の一つ

に、水を入れた洗面器のなかにおしりをつけて、肛門から洗面器の水をすい

あげる、という技があるそうです。肛門を口にしてしまっている。ここまでいか

なくても、肛門とそれにつながる部分を意識のうえにのせることは大切です。

情報産業などの先端の仕事に携わっている人たちに、どうも便秘や痔疾で悩

んでいる人たちが多いようです。太りすぎと同じく、これらも自らコントロール

できる病気のはずですが。出力が大事なのは、食べ物だけでなくて産業社会

そのものにも成り立でしょう。食の延長で考えておきましょう。産業社会の現

段階をながめると、入力から出力に重点が移りつつあるということが特徴の

一つです。大量生産でなんでも作り、それを私たち生活者が大量消費する。

これはとにかく栄養のある食べ物をどんどん食べる方式そのものです。ところ

が大量消費は私たちの空間を肥満させてしまいましたどんなに新しい製品を

身の回りに集めても、私たちには以前ほどの感激がありません。それどころ

かモノが多すぎて、モノにとりつかれて身動きができにくくなってしまいまし

た。そして肥満のための病理現象も広がってきました。ゴミの大量の発生と自

然環には二つの面があります。一つは文字通り、排泄に気をつけていく面で

す。これは環境型社会を求めていくこととつながります。廃棄物の処理に関

係した静脈産業が大事になってきた、という指摘もありますが、すべての産業

が動脈と静脈の両方の発想と技術を持っていくことがもっと重要なのだ、と私

は考えています。出力のもう一つの面は、まわりに向かって自己表現を積極

的にしていくという面です。本質的情報を大事にしていく方向です。情報産業

やサービス産業がこれから向かうのは、こうした方向なのです。ある人にとっ

ての本質的情報は他の人からすると、なんの役にも立たない情報に見えるで

しょう。

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