第7節オカルトサイエンス

第1項

「カタカムナ文献」

それは、太古から密かに連綿と伝えられてきたと一部の人々に信じられてい

る謎の古文書である。昭和25年ころ、平十字という人物が、兵庫県六甲山

系の山中でと名乗る人物から筆写を許されたものだという。楢崎によれば、

平十字はカタカムナ神社の宮司と称し、文献は「カタカムナの御神体」として

固く秘匿されてきたものであった。そして楢崎はこの文献を解読した結果、こ

れは太古の日本列島―楢崎皐月およびその後継者の宇野多美恵氏によれ

ば10万〜数万年以前の日本列島―に棲息していた人類が残した、失われ

た超古代科学の書であり、彼がその「上古代人の直感科学」を自ら復興し、

「相似象学」とよばれる秘教科学〓オカルト・サイエンスの奇妙な体系へと導

いたのである。太古から伝わったとされる点ではこの「カタカムナ文献」は「竹

内文献」「上津文文献」、あるいは「富士文献」等のいわゆる偽書の流れに属

するものと考えてよい。だが、太古の歴史を伝える史書ではなく、太古の〈科

学〉を伝えているというところに、カタカムナ文献の著しい特色がある。このよ

うな文献の歴史的伝来の可能性に関する考証をまったく無視するわけではな

いが、とりあえずその驚異的な内容に関する考証の方に重点がおかれるだ

ろう。いずれにせよ、これを捏造という一言でもって切って捨てることはいとも

たやすいことである。実際、平十字なる人物については楢崎しか知らないし、

カタカムナ神社などという神社にしても現実に存在したかどうかまったく不明

のままである。

第2項

樋口清之氏も調査した金鳥山

この金鳥山は、高級住宅街として知られる阪急沿線の芦屋と岡本のちょうど

中間あたりに位置する標高500メートルの低い山で、一見したところ、この幻

想小説じみたストーリーの舞台としては、はなはだふさわしくないようにも思

われる。しかし、山の中腹には 神社があり、平安時代に編纂された「延喜

式」の「神名帳」にも掲載されていることからすれば、いずれ由緒ある古社に

はちがいない。この神社の社殿をとりまいて、巨石を環状に配置した遺跡が

鎮座している。いわゆる「磐境」である。それは社殿などの形式が現われる以

前の、神道の原初的段階における祭祀形式とされており、戦前には現国学

院大学の教授、樋口清之氏も実際に調査にあたったことがある。また磐境の

周辺からは銅鉾が、境内や山中からは土器や住居跡が発掘されており、い

ずれも弥生時代のものとみられている。磐境については、単なる原始神道的

な遺跡というよりは、何らかのオカルト的パワーと密接な関係があるとする確

信が、一部のエキセントリックな郷土史家たちの間には根強あるようで、なか

なか意味深長であるとこじつけられなくもない。昭和24年の12月から翌25

年の3月にかけての64日間、楢崎皐月は助手の青年数名とともに、この金

鳥山中の狐塚とよばれる塚の近くに穴を掘ってこもっていたという。それは

「大地電気」の測定という研究目的のためであった。ある夜のこと、「お前た

ち、なんのためにやって来たんだ?泉に妙なものを仕掛けるから森の動物た

ちが水を飲めなくて困っているじゃないか。すぐに取り除け。それから狐は決

して撃つんじゃない。兎ならあるから、ホレくれてやる」と腰に下げたものを投

げ出して行ってしまった。「妙なもの」とは微動量検出のために取り付けた装

置である。楢崎は言われたとおりに装置を撤去した。つぎの夜、またも漁師は

現われた。今度はすこぶる上機嫌。「お前さんたちは感心だ。穴居しなければ

本当のことはわからんもんだよ」とほめた上、お礼にと古い巻き物を取り出し

て見せてくれたのである。それは江戸時代の和紙に筆写したとみられ、80個

の渦巻状に、丸と十字を基本とした図象が記されていた。

第3項

平十字と「カタカムナ文献」の出現

猟師は平十字と名乗り、父はカタカムナ神社の宮司であると告げた。巻き物

は父祖代々「カタカムナの神の御神体」として伝わったもので、「開けたら目

が潰れる」と言われ固く秘匿されてきたものであるとのことであった。もっとも

以前にもこの巻き物を見せたこともあったのか、平十字は、「今までに刀のツ

バや定紋の絵だろうと言った学者があったが、そんなものじゃないんだ」と厳

然として語ったという。楢崎が巻き物を開けると、たしかに刀のツバの絵と考

えてもおかしくない丸と十字からなる奇妙な図象が渦巻状にひとかたまりとな

っていくつも並べられていた。これを見たとたん、楢崎にはふと「八鏡文字」と

いう言葉がひらめいた。それは戦争中のことである。楢崎は旧満州のにい

て、製鉄の研究にたずさわっていた。ある日彼は、満人職工たちの信仰に敬

意を表し、吉林の北山にあった道院、娘々廟に詣でたのである。日本人とし

てはじめて寄進したことから、道士に招じられ一服の茶をすすめられることに

なった。そしてつぎのような驚くべき内容の老子経古伝をあかされた。「上古

代の日本の地に“アシヤ族”という、高度の文明をもつ種族が存在し、『八鏡

の文字』を創り、特殊の鉄をはじめ、さまざまの生活技法を開発していたこ

と、そして後代の哲学、医学(易の思想や、漢方等)は、その文化の流れに展

開したものである」いま目の前にしている巻き物に描かれた不思議な図象こ

そ、蘆有三道士の語った「八鏡文字」なのではないか、楢崎はこのようにピン

ときたのである。そして彼は、この図象の筆写を請うた。平十字は快諾した。

もっとも、書き写すと簡単に言っても、なにぶん山中の穴居生活である。充分

な準備などあろうはずがない。平十字がでんと腰を据えて「御神体」を監視し

ている傍らで、食器を入れておくミカン箱を机がわりにして、小さなローソクの

灯を頼りに、手持ちの大学ノートにわけもわからぬ「丸の絵」を移すのはたい

へんな苦労であった。それから20夜というもの、楢崎が一巻の80個の渦巻

をすべて写し終えるまで平十字は通って来たというのである。以上がカタカム

ナ文献、正確には『カタカムナノウタヒ』とよばれる謎の出現過程として今日よ

く知られているところのストーリーである。そして楢崎は血のにじむような努力

の末、ノートに写し取った図象を解読していった。その結果、超古代の日本の

地に棲み高度な文明を築いた人類が、自分たちの把握した宇宙観あるいは

サトリ(哲理)を歌の形にした科学書であり、そこに日本語および日本文化の

原型ともいうべきものがあったことが明らかになったのだという。そして楢崎

はこの太古の根本人種を「カタカムナ人」とよんだ。このカタカムナ人の高度

な科学の概要は、楢崎皐月の後継者宇野多美恵氏が主催する相似象学会

の機関誌『相似象』(現在9号まで発行されている)に発表されている。その

中から、「イヤシロチ・ケカレチ」などの言葉で表わされる未知の微妙な環境

条件、通常の条件下における原子転換、生命の自然発生など、われわれに

とっても比較的わかりやすい一部分をつまんでみても、現行の自然科学の体

系とはおよそ相容れない内容を持っているようにみえる。ところでこのような

類の現象の可能性については、公認の科学では当然のことながら厳しく否定

されている一方、幾人かの孤立した“異端”科学者によって唱えられ、あるい

はある種の秘密結社や秘教団体によって継承されてきた錬金術やさまざま

な秘密的な原理と微妙に重なりあう。そしてこのような科学は、「オカルト・サ

イエンス」とよばれているものと、ほぼ一致するのである。

第4項

超感覚的知覚を超える〈カタカムナノサトリ〉

このような一般的な考察に加えて、楢崎によるならば、カタカムナ人は、われ

われにおいてはすでに退化している高度の直感力をもっていた。これによっ

てカタカムナ人は現象背後の“潜象”の作用を共振的に知覚し、それが彼ら

を「カタカムナノサトリ」とよばれる、われわれの知らない自然認識へと導い

た。楢崎はさらに「アメノミナカヌシ」や「クニトコタチ」をはじめ、もろもろの神

名、また「サヌキ」「アワ」などの国名は、実は神名や国名などではなくて、カタ

カムナ人の「物理」の用語から出た名称であるという。また日本語のカタカナ

文字も、実はカタカムナ図象が退化し固定化されたものであるというのだ。と

ころで直感とか潜象といった概念は、カタカムナをある意味で非常に難解なも

のにしている。まず以上のような表現によって、カタカムナ人は霊感のような

ものが発達していて、それによって超科学的な認識へと到達したという印象を

誤解して受け入れる人もいるだろう。もっとも、カタカムナ人がそのような超感

覚をもっていたという想定自体は誤りではない。だがいくら五感を超えた超感

覚があっても、それ自体では高度な認識は絶対に獲得しえない。このことは、

いわゆる超能力者とよばれる人々をすれば充分に明らかなことである。彼ら

の大部分はペテン師であるが、残りは確かにれわれにはない超常的な能力

をもっているようである。だが、彼らに共通して見受けられることは、彼らのカ

タル内容には恣意的な解釈と自己顕示欲がどうしようもないほど入り混じっ

ている。楢崎はこのような誤解を避けるため、〈直感知性〉という言葉を使って

いるこれはカタカムナ人が、超感覚的知覚に加えて高度の抽象的思惟力をも

っていることを意味する。要するに、カタカムナ人においては、後代の人間と

は知覚、思惟、意識の回路そのものがまったく異なっていた、と考えてもらっ

てさしつかえない。楢崎はカタカムナ理解への入り口のひとつとして、「相似

象」という言葉を用意している。現代人においては、カタカムナ人のような超

感覚によって直接に現象の背後にある潜象と共振する回路は切断されてい

る。だが、そのようなわれわれでも、現象として現われてくる相似性のうちに、

その背後の世界の影をほのかに捉えることは可能である。

第5項

宇宙は相似象・共通のパターンでできていた

楢崎皐月およびその後継者である宇野多美恵は、「カタカムナ文献」を解読し

たのち、カタカムナ文化を学ぶ「学会」を作り、『相似象』という名前の会誌に

研究成果を発表している。なお、『相似象』はこれまでに第1号から第10号ま

でが刊行されている。まず、「相似象」というのは次の二つの意味がある。一

つは「互いに似通ってくる性質がある」という意味である。たとえば、朱に交わ

れば赤くなるとか、夫婦の顔がだんだん似てくる、などのように、環境に似通

わせる性質があるという意味である。もう一つは、「いろいろな現象のパター

ンが共通である」という意味である。たとえば、原子核の回転構造が、太陽の

周りを惑星が回転する太陽系の回転構造に類似しているなどの例が挙げら

れる。カタカムナ人の天然に対する直観は、カムの無限世界および、宇宙球

の巨大なものから、目に見えないアマ始元量の最小素粒子までを観て、そこ

には共通のパターンすなわち相似象があることを見抜いた。それを記してあ

るのが「カタカムナ文献」である。楢崎皐月や宇野多美恵は、カタカムナ人の

偉大さは、「天然に相似の象がある」ことを見抜いたことだとして、「カタカムナ

文献」を勉強する会の名称に「相似象」という名前を用いた。「相似象」とは、

天然宇宙のサトリということになる。

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第6項

天然は八種類の相似象から成っている

カタカムナ人が見抜いた基本的な相似象は、天然には「球」の相似象がある

ということだった。天然の大きなものは宇宙球から、恒星、惑星がすべて球で

あるし、ミクロなものでは原子、原子核、電子が球型である。水も丸くなる性

質がある。カタカムナ人は、このもとは天然のすべてのモノの素粒子であるア

マ始元量の微分量である「マリ」が球状であることにある、と観じていた。カタ

カムナ人は、アマ始元量の微分されたものを〈アメ〉といっている。〈アマ〉は始

元量全体の名称で、この素量は(アマから出た芽〈メ〉という思念)で〈アメ〉と

呼んでいる。また、〈アメ〉の個々の球状のものを〈マリ〉と呼んでいる。カタカ

ムナ人が、天然の相似象だけでなく、その他さまざまな相似象があるが、カタ

カムナ人はそれらすべて、アマ始元量の性質の表れたものであると直観して

いた。どんな相似象を見抜いていたかというと、およそ次の八種類だという。

●正反対称性とひずみ性

天然自然に存在するものには、すべて正と反(陰と陽)が存在している。究極

の正反は「カム」と「アマ」の関係である。次の正反は、アマ始元量の究極粒

子であるマリの正反である。マリの正反は、マリの回転方向の違い、すなわ

ち右回りか左回りかによって生じている。なお、すべて正と反が対照的に存

在しているが、まったくの対称ではなく、ややひずみをもった対称であるところ

に特徴がある。これを正反対称性とひずみ性といっている。究極粒子マリは、

完全な求形ではなく、ややひずみがある。そのために回転運動が生じ、さま

ざまな性質や変化が現われるのである。ヤサカノマガタマは究極粒子「マリ」

を表象しているが、完全な球ではなく、マガタマであることがひずみ性を表し

ている。マリの正反対称性の相似象として、現象界に存在するものはすべて

正と反が存在しているのである。たとえば、男と女、昼と夜、右と左、縦と横、

過去と未来、暑いと寒いなどである。

●旋転、巡回、ら旋の回転性

アマ始元量は、究極粒子マリが回転運動し、しかもら旋的な回転をしている。

この性質が、相似象でさまざまな現象として現われている。ミクロなもので

は、原子の中で、原子核、電子が自転し、電子は原子核の周りを回転してい

る。大きなものでは、太陽、地球、月は自転し、地球や火星などの惑星は太

陽の周りを公転している。太陽系全体も上位の太陽の周りを公転している。

さらに大きくは銀河系や星雲なども渦回転している。宇宙球においても、宇宙

球全体が旋転している。

●対向発生

正と反が対向すると新しいものが発生するという性質がある。究極はカムナ

とアマナの対向発生である。カムナとアマナが対向すると、さまざまのものが

発生する。すなわち宇宙においては、カムナとアマナの対向により物質や生

命体やさまざまな星が生成する。その相似象として、雌雄が交わるとこどもが

生れるという現象がある。インスピレーションも、人間の内部のアマナと宇宙

のカムナとの対向発生の結果である。

●同種反発、異種親和

究極粒子のマリにも正と反があるが、このマリには同種のものは反発し、異

種のものは親和するという性質がある。この性質は相似象として現象世界に

現われている。たとえば、磁石の同極同士は反発するが、異極同士はくっつ

くとか、人間も男女の異性間は親和するなどの現象である。

●統計的存在性

これは、マクロに見ると一定の固定したもののように見えるが、ミクロには絶

え物質の出入りや発生と消滅が起こっており、統計的に一定なものであると

いう性質。宇宙球は、一定の形をもった有限のものであるが、絶えずアマ始

元量が流入流出している回転流動体の統計的存在である。この相似象は、

人間や素粒子に見られる。すなわち、人間は、ミクロには絶えず細胞の新陳

代謝が起こって肉体は入れ替わっている統計的な存在である。また、電子な

どの素粒子も固定された一定のものではなく、これを構成するさらに超ミクロ

の素粒子が絶えず流入し流出している統計的存在であると推定されている。

●重合互換性

重合性というのは、異なるものが重なり合って共存するという性質である。ア

マ始元量には、左旋性と右旋性、膨張性と収縮性、粒子性と波動性などの相

反する性質が同時に存在する。また、物質にアマナという潜象界のヌシが潜

在するなどの例である。互換性というのはアマ始元量のマリがトキやトコロに

互換したり、イカツミ(電気)、マクミ(磁気)、カラミ(力)などに変換したりする

性質である。アマ始元量が現象世界の物質に変化することも互換性による。

●微分、統合性の周期性

アマ始元量には、分化して小さくなる性質とまとまって統合し大きくなる性質、

すなわち波動性や粒子性、膨張性や収縮性という相反する性質が同時に存

在する。この他に、それぞれには抗膨張性や抗収縮性という、それらに逆ら

おうとする性質も存在する。これらを「正反四相」という。現象界における相似

象としては、光が粒子としての性質と波動としての性質の二面性をもつなど

の現象が挙げられる。

●極限循環性

アマ始元量は、宇宙球に流入したのち、きわめて長い時間かかって流出する

循環サイクルをしている。この間、アマ始元量はさまざまに返遷する。たとえ

ばアマ始元量でできるさまざまな物質や生命体は、生成(発生)・成長・極限

(飽和)・崩壊(死)というように、誕生してから飽和の極限まで成長発展した

のち、崩壊して元の状態に還元するという、短期の循環サイクルをたどる。宇

宙におけるこれらの長期や短期の循環サイクルは、永遠につづくが、これら

はすべてアマ始元量の極限循環性によるのである。上古代のカタカムナ人

は、現象世界における万物万象の特徴はすべて、アマ始元量のさまざまな

性質が相似象で現われたものと捉えていたのである。凄い直観力といえる。

第7項

天然宇宙の物理(コトワリ)を表す「ヒフミ」の歌

第五首の歌

ヒフミヨイ マワリテメクル ムナヤコト アウノスヘシレ カタチサキ

解読の方法

ヤタノカカミ図象の横線を地平線とすれば、縦線は中央に人が立って見てい

ることになる。ヒガシの日の出るところを〈ヒ〉とし、そこから順に〈フ〉〈ミ〉〈ヨ〉

〈イ〉と〈マ〉〈ワ〉〈リ〉ながら〈メ〉〈ク〉〈ル〉ことにより、〈ム〉〈ナ〉〈ヤ〉〈コ〉〈ト〉と

文字をつくった。それと同時に〈ヒフミヨイ〉の図象の半球は「正」を、〈ムナヤ

コト〉の図象の半球は「反」を意味し、宇宙のすべてのものは、天体から極微

の世界まで正と反の旋転(自転)と循環(公転)の動きによる球の性(マリの

性)によって抽象されることを表している。なお、ヒフミヨイムナヤコトは、潜象

から現象の発現する物理を示し、それが、おのずから、一から十までの数を

表している。〈◎ヒ 〈ヒ〉は、ヒトツという数の最初の思念を示すとともに、あら

ゆる現象の存在とその根源に潜在するチカラに関係した思念があることを示

している。要するに〈ヒ〉は太陽(アサヒ)の陽をさすヒビキであり、数をヒフミと

数えるときの最初のヒであり、すべてのものの「根源、根元、始源」を表す思

念である。〈◎フ 〈フ〉は、ヒ、フ、ミ、のフ(フタツ)であり、ものが増えるとか太

るの意味もある。ここでは「あらゆる現象の根源のフタツのもの」という思念で

ある。ここでいうフタツは、ヤタノカカミのカミとカタカムナのカミの「フタツのチ

カラ」を意味する。〈◎ミ (究極粒子一個)〉の三個集合した程度のマリ(極微

の粒子状の素量)を表し、アマ始元量の実質の意味である。

第8項

「マリ」から五種類の「素量」ができる

五種類の「素量」というのは、次の五つである。

「イカツミ」……電気素量

「マクミ」………磁気素量

「カラミ」………力の素量

「トキ」…………時の素量

「トコロ」………空間の素量

これらの五種類の素量は、究極粒子「マリ」の複合粒子である。これらはいず

れも雌雄 (正と反) の配偶構造をもつ。

●「時間」も「空間」も「トキ」と「トコロ」のマリからできている。

この「トキ」と「トコロ」のマリは、相対的で互換性がある。また、「イカツミ」「マ

クミ」「からみ」にも互換することができる。

●「イカツミ」「マクミ」「カラミ」の三個の素量でできたものを「ミツゴ」という。

物質や生命体は、「モコロ」という素粒子からできている。「モコロ」は「ミツゴ」

か ら構成されている。

第9項

●「モコロ」には「生命質系モコロ」と「物質系モコロ」がある。

「物質系モコロ」は一 個の「ミツゴ」から成り、「生命質系モコロ」は八個の「ミ

  ツゴ」から成る。

●物質や生命体は、ともに「生命質系モロコ」と「物質系モコロ」からできてい

る。

生命体は「生命質系モコロ」が多く、物質は「物質系モコロ」が多い。

コメント

カタカムナ文献が難解なのは楢崎皐月氏が得ることができた情報は直感知

覚によるものであるので、言葉なり、理論で説明することが、出来ないという

ことである。解読をするには、楢崎皐月氏と同じぐらいの感性のレベルに到

達することが第一だと思われる。しかし、我々のレベルではとても到達地点に

はほど遠いが、実際に遺跡なり、古墳等の現地に行ってみることである。そし

て現地の波動(リズム)を感じる以外に方法はないようにも思えるがどうであ

ろうか。

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第9項

日本刀が上代ほど良質なのはなぜか?

鉄の不思議さといえば、日本の鉄もまた不思議である。たとえば日本刀の場

合がそうだ。「鉄―一塊の鉄が語る歴史の謎」(立川昭二)によると、慶長の

関が原の戦いのあたりを境に、それ以前の刀は古刀、江戸時代のものは新

刀江戸末期のものは新々刀、明治以後のものは現代刀とよばれており、時

代が下がれば下がるほど、刀の質は悪いものが多くなってくる。しかも、さら

に上代刀となると一段と優れている。それは素人が見ても一目瞭然だという

のである。吉川英治の「宮本武蔵」の空の巻の「かたな談義」の中にも、古刀

のさびは薄い膜にしかなっていないのでとることができるが、近世の新刀とな

ると地金の芯まで腐りこんでいるのでダメだということが書かれてある。だが、

昔に遡れば遡るほど優れた日本刀があるというのは、話半分だとしても考え

てみる必要がある。すでに上代に高度な冶金技術が開発されていたのだろう

か。まず第一に考えられるのは、良質の日本刀には、なにか特別の成分が

混ざっているということであろう。第一次大戦のころ、この材料をめぐって面白

い噂が流れたことがある。ドイツの研究所で日本刀を分析してみたところ、モ

リブデンやタングステンが混ざっていることが発見され、さっそく鉄工業に応

用された、と。だがこのうわさは誤りであって、ドイツでも日本でも、これを裏

付けるような研究論文はひとつも発見されなかったという。さらにまた、日本

刀の科学的研究で有名な工学者・国一が多くの日本刀の成分を分析した

が、やはりタングステンやモリブデンは含まれていなかった。俵博士の弟子で

ある岩崎航介は―出雲地方に残る伝統的技術たたら製鉄に注目し、日本独

自のこそ、世界で最も優秀な鋼であることを明らかにした。その理由は、原料

である出雲産の真砂砂鉄が不純物の少ない純良なものであること、製錬用

の燃料として木炭を使用しているが、この木炭は硫黄分が含まれているコー

クスなどとちがって、やはり不純物がないこと、そして重要なことは、製錬温

度が低いので、炉の壁からの不純物が入りにくいこと、以上三点をあげてい

る。それが時代が下がるにつれて鉄器の大量生産技術の発展とひきかえ

に、質の良い鉄を求める技術力が低下し、なまくらな刀がはびこる結果となっ

たわけである。

第10項

餅鉄を材料とする「縄文式冶金法」

このような日本に独自の製鉄の技術が存在していたという説は、教科書的な

定説―鉄の技術は弥生時代の紀元前三世紀に朝鮮を経由して大陸から伝

わり、紀元一世紀ころ九州に鉄器文明がめばえ、やがてそれが中国や近畿

に伝わっていったという考えとは反しているので、マユツバと考える人が多い

だろう。だが、歴史学会はどうかしらないが、科学史学会では、主に飯田賢一

東工大教授を中心に、日本に土着の鉄文化があったことを主張する動きが

強くあるようである。その根拠とされるのが奈良の正倉院の中に納められて

いるの銘のある無装刀で、この刀は都に呼びせられた刀工が朝廷の命をう

けて作ったものなのである。この刀工の故郷である舞草はどこにあるのだろ

うか。地元の金属学者で郷土史家の新沼鉄夫氏によると、舞草は現在の岩

田県一関市の舞川の近くであるという。確かに舞草神社というのがあり、近く

のバス停には「舞草の鍛冶跡」という立札があるのだ。新沼氏の「岩手の製

鉄歴史」によると、舞草の白山獄(観音山ともいう)を調査したところ、磁鉄鉱

石がみつかり、これが舞草刀の原料になったことは間違いないだろうという。

また鎌倉時代になると、舞草や出羽国の工人が遠く島根県まで技術指導に

出かけ、「正宗」などを作っており、現在その地は出羽と呼ばれている。この

ことに関しては、鉱業史の草分けである西尾 次郎の報告(「科学史研究

1956」にくわしい。古来、日本の製鉄の原料といえば、たたら砂鉄というの

が通説のようになっていた。だが岩手を中心とした古代東北の製鉄の原料は

砂鉄ではない。それはとよばれる天然の鉄鉱石なのである。これはじつに大

きなちがいである。砂鉄を原料とする大和朝廷の冶金法を弥生式とよぶな

ら、餅鉄を原料とするこちらは縄文人の血をひく縄文式とでもよぶべきもの、

飯田氏はいう。餅鉄は「べいてつ」あるいは「べんてつ」とも読み、非常に純度

が高く磁性にとむ磁鉄鉱石で鉄黒色を呈し金属的な質感をもつ。新沼氏がこ

の餅鉄を発見した経緯はなかなか興味深い。量は少なくともよいから自然の

状態のものをなんとか入手したいと常に頭から離れたことがなかった。昭和

48年11月23日夜、夢に高橋亦助が現われた。官営釜石鉄山が廃山後、

田中長兵衛がこの設備の払い下げを願い、一民間人の手によって釜石鉄山

の成功をみたが、その時の高炉再興に貢献した高橋亦助という高炉主任技

術者は、夢枕に白髪の老人が現われて鉄鉱石装入についての指示を受け、

49回目の出銑にようやく成功した。その高橋亦助翁がモーニング姿で現わ

れ、「甲子町の〇〇沢に行けば餅鉄がたくさんある」この夢を最初は気にしな

かったが、三日も続けて夢に出た。早速甲子町の友人にそうした沢があるか

どうかを尋ねた所、よくわからないが親戚の山なので案内してくれるといわ

れ、12月2日に現地へ行って調査の結果、念願の餅鉄を入手することがで

きた。このときの餅鉄はたいへん良質のもので、サイズはにぎりこぶし大から

粉状のものまであり、普通の石によってでも簡単に破砕でき、たやすく低温

還元できるものだという。しかし残念にも餅鉄は現在ではほとんど残っていな

い。7〜8年ほど前に餅鉄ブームがあって、根こそぎ持ち去られてしまったの

である。新沼鉄夫氏によると、また、明神平というところには、カキの貝殻の

ついた鉄滓(かなくそ)が散らばって落ちており、別名かなくそ平ともいう。こ

の地点は海抜数百メートルほどの峠で、一日中強い風が吹いている。古代

東北の縄文人はそこに浅い盆状の野焼炉をあつらえて火をおこし、その中に

餅鉄とカキの貝殻(媒溶剤となる)を入れ、数時間かけて還元鉄をつくる。こ

れを鍛いて彼らは釣り針や矢じりを作ったのであるという。この明神平で採取

したスラッグの科学分析を行なった新日本製鉄釜石製鉄所研究所の報告に

よると、理想的ともいえるかなり高純度の磁鉄鉱石で、イオウやリン、アルミ

ニウムなど不純物をほとんど含んでいなかったということである。要するに、

見かけの上ではまるで人工物といっても決していいすぎではないのだ。だか

ら、この餅鉄自体が古代製鉄の産物であるとする考えもあった。たとえば、地

元に運搬する途中にころげ落ちた還元鉄塊が、水流の中でけずられ、川原

石のように表面がすべすべしたものになった、などというのである。

第11項

竹内文献とヒヒイロカネ

そのような考えの中で、極端にファナテックで興味深いものがあることを、気

鋭の若手古神道研究家、大宮司郎氏から教えてもらうことができたので、ここ

に紹介しよう。それは、世界の鉄冶金の発祥地がこの日本だったという説で

ある。約10年ほど前のこと、超古代文献といわれる「」を研究していた大宮氏

は、この岩手にただならぬものを感じ取り、とにかく野外調査をやってみようと

いうことで釜石の地を訪れた。そしてこの釜石に住むある郷土史家から、そ

の昔、酒井勝軍が餅鉄の調査にやってきたことを耳にした。さらに奇遇にも、

釜石の近くの藤井部落というところでFさんという人に出会うことができたので

ある。このFさんは酒井勝軍が岩手を訪れたとき行動を共にした最後の生き

残りだった。酒井勝軍(1874〜1940)は、日本ユダヤ同祖論者として戦前

の日本をにぎわし、また天津教の教組、竹内巨麿と知りあって「竹内文献」の

熱狂的なプロパガンダをしてまわり、日本各地の巨石遺跡をピラミッドの一種

であると主張した奇想人としてかり有名な人物である。それでは酒井は、いっ

たい何のために、この岩手まではるばる餅鉄の調査にやってきたのであろう

か。どうやら彼は、この餅鉄を自然物ではなく、人工物の「ヒヒイロカネ」と見

込んでのことらしい。Fさんの記憶によると、酒井は大きな餅鉄を所持してい

る家を訪れてはそれをヒヒイロカネと認定し、神宝として大切に保存するよう

にと指導してまわった。その中には100キロ近くもある立派なものもあったと

いう。ところでこのヒヒイロカネとは、天津教の擬古文書として有名な竹内文

献の中に出てくる謎の古代金属で、絶対にさびることがなく神鏡や宝剣の材

料となったといわれるものである。これを次のように解釈している。越書の越

とは、古代中国の越という国をさしているのではない。じつは日本のの国、つ

まり越前越中越後方面を総称した地方にあった文献をさしたものである。そこ

で越の古文書(すなわち竹内文献を指すのであるが)をひもとくと、はたしてヒ

ヒイロカネという金属の名前が出てくる。またコンの字のつくりの方をとりだし

てみると「昆」になり、これは日と比の合成字であって、やはり「ヒヒ」と読め

る。それは東京の日比谷公園を昆野公園と書くことができるのと同じ理屈で

ある。またヒヒとは「日に比べる」ことであり、ヒヒイロカネすなわち日のように

「赤きこと朱の如し」金属であるということになるのである。このヒヒイロカネの

物理的特徴はすこぶる変わっていて、酒井によると、比重は金よりも軽い程

度、純粋なものは鉄より軟らか、逆に合金にすると硬くなり、玉を切るような

刀にすることができる。また表面を拡大鏡で眺めてみると、あたかも炎がゆら

めいているように見え、さらに手をかざすとまるでエネルギーが風のように放

射されているのを感じるのである。この放射は、時により冷ややかに、また時

により暖かく感じられる。しかし金属自体は常に冷ややかで外気が暑かろうと

寒かろうと影響を受けることはないのである。それに、磁気力を拒否する力を

持っており、磁石を近ずけると、それを征服してしまうという。なかなか微妙で

わかりにくい表現であるけれども、大宮司郎氏はこれに関連するような、なか

なか興味ある体験談を語ってくれた。大宮氏はFさんから餅鉄をいくつかいた

だくことができたのだが、それが一度磁気を失ってしまったことがあるという。

餅鉄は磁鉄鉱だから磁気を持っているのは不思議ではない。しかしそれが磁

気力を失って、しばらくしてからまた磁気を取り戻したというのは尋常ならざる

ことだ。ところで、餅鉄の色は「赤きこと朱の如く」とは反対に、黒っぽい色をし

ているはずである。これについて酒井は、ヒヒイロカネには赤い色と黒い色の

ものと、じつは二種類あるのだと弁明している。自分は黒い色の実物しか見

たことがなかったが、赤色のものがあることは確信していた。そしてついに、

ある会社の重役某氏から泥朱色をしたヒヒイロカネをただひとつだけ手に入

れることができた、というのである。酒井勝軍はそのほかにもヒヒイロカネに

ついて、いろいろと奇想天外なことを語っている。たとえば、ヒヒイロカネの製

造はすでに5万年も前に、飛騨の高山ではじめられており、「総合平面ピラミ

ッド」のある松森社の玉垣の下の石垣の中に、このヒヒイロカネと花崗岩との

混合石を発見した。そしてこの花崗岩は、ヒヒイロカネの放射のため永久に風

化されることがないので、そのまま残っていたのだという。また大宮氏の話に

よると、酒井は岩手で古代神鏡を発見したと報告している。この神鏡は中国

伝来の神鏡とは無関係の、神武天皇以前の我が国のオリジナルなもので、

その裏面には、

フタハシラ

ミツノエ ミツノト

カムタカラ

と神代文字で刻まれているということである。

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第12項

鉄冶金文明が青銅器文明より先行

酒井勝軍の主張するヒヒイロカネ伝説は、なかなか異常であって面白いが、

ただそれだけのことなら、ことさらここに取り上げる必要はないだろう。しかし

ながら単なる妄想とは思えないフシがある。微妙な回路を経て、どこか現実と

からみあってくるところがあるのである。それは鉄冶金文化の先駆説である。

いや先駆説というよりは、鉄冶金先駆への確信といったほうがよいだろう。興

味あることに、天津教の教組・竹内巨麿の出身地である富山の隣、古越前

(石川県にあたる)でも製鉄遺跡が数多く発見されている。金沢大学の吉岡

金市学長の発表によると、14C半減期測定(学習院大・木越研による)から、

そのうちのいくつかは縄文時代後期のものとみられるという。これは弥生時

代に製鉄技術が大陸から導入されたとする定説をくつがえすものとして注目

をあびている。ここで鉄の歴史についてふれておかなければなるまい。という

のは多くの歴史家や読者が次のような固定観念を持っているからである。人

類はまず紀元前4000年ころ、古代オリエントで冶金術をおぼえた。最初は

金のみであったが、その後1000年間に銀、鉛、胴、スズ、それから合金の

青銅の冶金術を開発していった。やがて青銅器時代に入り、それが成熟期を

すぎてからはじめて鉄の冶金術が発明された。鉄器の前には青銅器が先行

していたのである、と。だが、このような先入観は、冶金というものについて全

く無知なところからおこる、と考えなければならない。ここに、歴史の専門家か

らは完全に無視されたが、冶金学者や製鉄史家からは圧倒的に指示されて

いる異端の学説がある。それは鉄冶金学者で製鉄史の研究家であるドイツ

人、ルードウィヒ・ベック説だ。すでに1880年代、彼は大著「技術的・分化史

的にみた鉄の歴史」第一巻で、青銅器が鉄器に先行するという通説に対する

批判を大々的に展開し、また人類が最初に使用した鉄は隕鉄だったとする俗

説もしりぞけている。このベック学説は、日本では1964年に科学史家、中沢

護人氏によって初めて岩波新書「鋼の時代」にて紹介された。日本に伝わっ

てくるまで、なんと80年もかかったことになるわけだ。それではベックの論点

を紹介することにしよう。一般に青銅器が鉄器に先行するとされる理由は二

つある。ひとつは、青銅のほうが鉄よりもずっと簡単に溶かせるということ。そ

してもうひとつは、ふるい遺跡から発掘されるのは圧倒的に青銅器が多いと

いうことである。しかしながら、青銅はさびにくく、鉄はさびて土にかえってしま

いやすい。だから青銅器が多く残っているだけのことで、第二番目の理由は

偏見でしかないのである。また、青銅が貴重な金属として王候の宝物庫に大

切に保存されたのに対し、鉄は卑しいものとしてそのような配慮がされなかっ

たという傾向があったことも、それにますます拍車をかけることになる。では

第一番目の理由、青銅の方が鉄より融点がずっと低いということに関しては

どうだろうか。高い温度をつくりだすというのはなかなか容易なことではない。

だから低い温度で溶ける青銅の方が精練しやすく、先に技術開発されたと考

えたくなるのは当然だろう。そして第二番目の理由に対する反論も単なる屁

理屈となってしまう。けれども、青銅というものについて、ちょっとよく考えてい

ただきたい。じつは青銅という金属があるわけではない。青銅は銅とスズの

人工的な合金であることを忘れてはならないのである。つまり青銅を製造す

るには、それより先に銅とスズの単独製造が前提となっていなければならな

いのだ。青銅は700度くらいでも溶ける。けれどもその原料となる銅を酸化

鉱からとるためには、約1100度もの高温が必要となるのだ。では、鉄のほう

はどうなのか。銅よりも低温で溶けるのか……、というと残念ながらそうでも

ない。純粋な鉄の場合、その融点は1539度とされている。また最も融点の

低い、炭素を含んだ銑鉄でも1200度くらいで、それでも銅よりは高い。しか

しながら鉄に関しては古代には超技術といえるものがあった。超技術という

と、なにか特別の高温を出す特殊炉みたいなものがあったなどと想像してし

まうかもしれないだろうが、そうではない。わざわざ「鉄に関しては」と限定し

たのには理由がある。この超技術は、鉄を低温で還元してしまう技術、溶かさ

なくても還元してしまう技術なのである。それはどのくらいの温度かというと、

約700度、ほぼ青銅の融点と同じである。この温度で鉄は還元され、ちょう

どワタアメや海綿のような状態になる。今度はこれをたたいたり、焼きもどしを

くりかえして鍛えれば、道具として使用できる鉄ができあがるのである。先ほ

どあげた岩手の餅鉄などは鉄分の含有量が高く、低温還元には非常に優れ

た鉄鉱石なのだ。石でたたいて粒状にし、これを木炭で熱するだけでよいの

である。そして、この低温還元の長い伝統によって培われた技術がのちに出

雲へ伝えられ、あの有名なたたら製鉄となったというわけだ。この低温還元技

術は古代ギリシアでも知られており、アリストテレスの書の中にも、黒海南岸

地方で川底から砂鉄をとって鉄を作ると書かれている。またここと近いダマス

カスから日本刀とよく似た刀剣が出ているのである。だが、やがてこの超技術

は滅びてしまい、現在ではアフリカ奥地の原住民の間で細々と伝えられてい

るだけなのだ。

第13項

自然食運動家・桜沢如一の陰陽無双原理

東洋の実用弁証法とはなにか? それはひとことで言えば、自然界のあらゆ

る事象を、その外見や印象にとらわれずに直視するための方法、精神的指

導原理なのである。ここではすべてのものは「陰」と「陽」という対抗する二つ

の根源的な力性の現れとして見られる。だがこれは二言論と考えてはならな

い。二言論のかたちをとっているが、絶対一言論なのである。無双原理を修

得するためには、まず陰と陽というこの二つの事相にのみ、意識的に注意を

集中することをおぼえなければならない。陰とは、宇宙のあらゆる事象のう

ち、「拡張」的性質をもつものをさす。陽とは、宇宙のあらゆる事象のうち、「収

束」的性質をもつものをさす。単純に言いかえれば、陰は拡張力であり、陽は

収縮力である。また陰と陽は親和的傾向をもち、陰と陰、陽と陽は反発的傾

向をもつ。さらに陰がきわまると陽が生じ、陽がきわまると陰が生じる。この

性質は、陰と陽がそれ自体として独立に存在しているのではなく、互いに融

合・重合しあっているところからくるのである。

体内のカリウムとナトリウムのPU原理

このPU原理は実用的な指導原理なので、いろいろと応用ができる。たとえば

体内におけるカリウムとナトリウムの関係をみとみよう。野菜や果物などカリ

ウム分の多いものばかり食べ、塩などナトリウム分を摂らないでいると、塩欠

乏症になる。全身がだるく疲れやすくなり、無気力におちいって精神状態が

不安定になる。はなはだしい場合には昏睡状態になり植物人間と化してしま

うのである。これは、体液の中に溶けているナトリウム分と細胞内にあるカリ

ウム分によって、細胞内の水分の量がコントロールされているからだ。非常

に薄い細胞膜をはさんで、外側にはナトリウムが流れ、内側にはカリウムが

溶け込んでいる。この細胞膜は特有の性質をもっており、ふだんはナトリウム

ヤカリウムを通さない。水だけが通ることができる。そこで、体液中のナトリウ

ムの濃度が極度に低くなったり、細胞内にカリウムが多くなったりすると、平

衡をとり戻すために水分が細胞内に引き込まれる。そして細胞はちょうど水

におぼれたような状態になってしまうのである。少しこみ入った説明である。し

かし、これをPU原理で説明すると、じつに簡単明瞭なものとなる。ナトリウム

は陽性元素の代表、カリウムは陰性元素の代表のようなものだからだ。この

両元素は対抗しあっており、カリウム/ナトリウム比が5以上になれば体は

水びたしの陰性になり、無欲無気力の不活発性を示す。また、5以下になると

体は陽性になり活発となる。しかしそれも度を越すと高血圧となるから注意さ

れたい。ただしこれらの病状について一般には水分代謝よりも、神経活動電

流の不調によって説明される。ナトリウムイオンによって神経の電気が発生

し、カリウムイオンとのバランスによって調整されるのである。ナトリウムとカ

リウムの陰陽の性質は分光学的にも証明されるという。ナトリウムを燃やす

と橙色を発し、カリウムを燃やすと紫色を発するからだ。PU原理によると、発

光スペクトルの色は次のように分類されているのである。

←―陽―――― ――――陰―→

赤―橙―黄―白―緑―青―藍―紫

しかしながら、以上のことから、ナトリウムは陽の要素をもち、カリウムは陰の

要素をもつというふうに還元してはいけない。絶対的な陰や陽というものはあ

りえない。カリウムなども摂り方によっては陽の働きをすることがあるし、生体

内でナトリウムがカリウムに転換してしまうという特殊なこともありうるのだか

ら。以上のPU原理の陰陽観に対して、易学や漢方を少しでも知っている人な

ら、「それでは反対ではないか、つまり陽が拡張性で、陰が収縮性ではない

か」といぶかしく思うにちがいない。事実、桜沢はそのような批判を浴びてい

る。そのことについての太田竜氏の弁明はなかなか傑作で、太古の易は桜

沢の説く陰陽観をもっていたのが、武力統一体王朝の御用儒家哲学によっ

て、その反対にスリかえられ変質されたのだという。このように革命家反革命

かと図式的二元論に還元してしまう太田竜氏特有の思考法は、それなりに魅

力はあるし、表層的な論理手続きはとっているので、ある程度の説得力もあ

る。しかし残念ながらオカルト・サイエンスとしてのPU原理とは遠くへだたった

ところにあるものでしかない。どちらが陰でどちらが陽かそれは視点のとり方

によるのであって、桜沢個人にしてみれば、本当はどちらでもかまわない。表

面的に収束しているのは、じつは見えない拡散的な力が働いているからであ

り、また表面的に拡散しているのは、見えない収束的な力が働いているから

だ。ただPU原理を現代語に訳出するさい、現代は科学的物質的時代なの

で、表面的な分類法を採用するにすぎない。だからあまり言葉の次元にこだ

わってはならないのである。

生命自然発生の実験

生命の自然発生というと、1864年のパスツール対プーシェの大論争が思い

出されよう。それは当時のパリの社交界まで巻き込んで大変華々しいものと

なり、結局パスツールが勝利。それ以来、生命の自然発生を論ずるのは、ま

ったくのナンセンスということになっている。しかし、それから100年近く経っ

た1958年、「パスツールの勝ち」の軍配に対してささやかな物言いがつい

た。日本で岐阜大学教育学部生物学主任の千島喜久男(1899〜1978)

が、バクテリアの自然発生に成功したという発表をしたのである。その方法

は、消毒したスライドとカバーグラスの間に無菌処理したカエルその他の血液

をのせ、パラフィンで封じる。そしてそれを何日も連続して観察するというもの

である。はじめは血液中の微細な顆粒や細胞破片がブラウン運動をしている

のが見られた。まず、これらのものが徐々に腐敗菌に変わっていった。次に

赤血球の原形質の中にウイルス様の小顆粒が生じ、やがて腐敗菌に成長

し、球菌から桿菌に変わった。同様に白血球の中にも菌が発生した。ついに

不活性下で親なしの桿菌が発生したのである。この菌が発生するまで約一週

間、千島喜久男はその過程を位相差顕微鏡写真に撮影することに成功した。

パスツールの「不自然状態における生物自生の否定」は真実であるが、私の

いう「自然状態における生物自生の肯定」もまた、真実であると私は確信す

る。これはもはや、処理過程における汚染だとか、空気中からの芽胞の侵入

などの疑問を許さない。簡単、確実、明瞭な方法である。この点でもパスツー

ル説の一般化は行きすぎであることを強調したい。千島博士はこのように述

べている。この反響は大きかった。最も喜んだのは桜沢如一である。彼はす

でに1943年に「パストゥールの審判―人類の大恩人の犯罪」という講座用

テキストで、生物自然発生説についてふれている。中世紀の僧や学者の一

部は間違って、大自然を瓶の中や壷の中だと思ってしまったのです。これは

大きなまちがいであります。それを否定したパストゥールの実験も論説も同じ

くまちがっています。パストゥールは第一、僧や論敵の学者らが「大自然を瓶

や、壷の中と取り違えていること」を指摘しませんでした。第二、細菌の起源

については一言もふれず、また考えもしないのです。パスツールが否定した

のは、フラスコの中も大自然も同じように考える中世のインチキ自然発生説

であり、その中では細菌が発生しないことを立証したものの、それはアリスト

テレスなどが考えていた本来の生物自然発生説とはまったく別物なのだ、と

いうのである。だから千島が学問的に同様の結論に達したことは桜沢にとっ

て願ってもないことであった。そして1963年の夏、千島はパリに渡り、桜沢

如一とともに講演の壇上に立った。終了後、「私の原子転換説とあなたの新

血液論とは、原理的にはまったく共通している。おたがいに真理のためにが

んばりましょう」と、握手を求めてきたフランス人がいた。それはルイ・ケルヴ

ランであった。1970年に入ると、千島の生命自然発生の説を公に支持表明

する人々が急激に増えている。この年の5月には科学技術庁の顧問、斎藤

憲三が木灰から微生物が発生したことを発表した。この実験は工業技術院が

追試、確認している。そして、1973年には生物学界の大御所が千島支持に

まわる。当時、岐阜大学学長だった今西錦司氏(1902―)は雑誌「展望」4

月号の「生物学を斬る」という対談で、「千島さんは立派な人よ。執念をもって

いる人や。その執念深さに僕はほれこんだのかも知れないけど……。バクテ

リアやウイルスは自然発生すると、千島氏は唱えているが……僕がこうした

仮説は成り立つと思う」と、このように語ってのけたのである。しかしながら、

血液による千島喜久男の実験も、木灰による斎藤憲三の実験も、単に結果と

しての「生命が湧いた」という事実を強調するばかりで、何の説明にも至って

いない。悪くいえば、単なる固定観念でしかないかもしれないのだ。だから、

熱に強い細菌芽胞もあるというふうに考えるべきだと、逃げられればそれっき

りである。われわれが本当に知りたいのは、そもそも生命現象というものを、

いったいどのように見るべきか、ということなのではないだろうか。そして、こ

こにまた、楢崎皐月が登場する。「物質と生命の自然発生・新血液理論と楢

崎皐月氏」と題する記事が「健康日本」1971年8月号に掲載されているの

だ。これは千島喜久男全集発刊にあわせて組まれたもので、そのリード文に

は千島・楢崎の両者の間には交流があることが記され、本文は「新理論に期

待する楢崎氏の見解」として楢崎自身が執筆している。それによると、千島の

新血液理論は最も優れたエントロピーを人々に増大させて疲労させ、知識を

混乱に導くだけの現代物理学、ひいては宗教学一般とは性質がまったく反対

の、物と心と生命とを統一する原理に基づく科学になる可能性があるという

のである。だが、そのためには、これだけでは不充分であり、さらに一歩、進

めなければならない。新理論は血液からビールスへ、生命の微小性を告げて

いる。その生命の微小化が、原子量子の段階まで、さらに欲を言えば時空の

微粒にまで進めるとともに、時空の微粒から量子原子微小体、さらに血液に

至るまでの、生命の可逆性を、扱って貰いたい。これらの機序が験証されな

い限り、科学者たちは頑強に、抵抗を示すであろう。しかしながらじつを言う

と、それでもこのような験証の手続きは非常に能率の悪いものであり、本来

なら感受性の鈍い石頭の科学者たちがやるべきであろう、と楢崎はいうので

ある。

第14項

海神族のメッカ〓彦島八幡宮

その遺跡都は、彦島八幡宮境内にある宮ノ原遺跡である。いまは、せっかく

の資料も散乱してしまい、わずかな土器片細石器片が残されているにすぎな

いのだが、それは明らかに海神族特有の「土器」であることが吉田教論らの

古代言語学研究グループの手によって再認識されている。しかも、同じ「曾畑

式土器」といっても、宮ノ原遺跡出土のものは最も古く、BC7千年ころのもの

であることが判明したのである。これは、重要な意味を持つ大発見であった。

細線刻文様と深いを特徴とするこの土器は、従来からBC5190±130年、

つまり、約7000年前の縄文早期のものとみられ、北海道から九州西海岸を

経て南西諸島まで広く分布していることがつきとめられていた。その事実を踏

まえて、梅光女子大学の氏は、かなり前から「日本海水人」(海洋部族)文化

説」を唱えてきていた。この国分説に代表される通り、海洋族がかなり広い範

囲にわたって行動し、日本列島の原文化形成に大きな役割を果たしてきたこ

とは、かなり前から認識されていたのであるが、その根拠地がどこなのか、い

ままでまったくわかっていなかったのである。しかし、最も古い「曾畑式土器」

の出土が確認されたことで、彦島が海人族のルーツであることが判明したわ

けである。宮ノ原遺跡は山麓から伸びた砂州の上にあるのだが、何度も地盤

沈下しながら、そのたびに新しい文化を築いてきたことが地層の重なり具合

から確認されている。そして、問題の土器は一番下のBC7000年代にでき

たとおもわれる地層から出土しているのである。最も古くから海人族が住んで

いたところ、それが彦島なのであった。といって、いうまでもないことである

が、「その海人族と杉田丘陵を築いた部族が必ずしも同一の部族であったと

は限らない」といわれればそれまでである。両者を関連づける物証が、まだ

発見されていない以上、その点についてはなんともいえない。しかし、両者の

存在年代がほぼ一致するうえ、古代の海人族(海洋部族)は、かならず部族

の根拠地となる生活拠点の近くに神殿を築くのを常としており、世界共通の

習俗といってよい。その習俗からみても、同じ彦島のなかにある杉田丘陵と

宮ノ原遺跡の主たちが無関係だったとは、とうてい考えられないのである。さ

らに、もう一つの根拠がある。

「日子王の島」〓彦島

杉田丘陵と宮ノ原遺跡は、やや南にずれた東西一直線上に並び、彦島の

「太陽の道」と、ぴったり一致するのである。彦島八幡宮境内にある宮ノ原遺

跡に立って日の出を待つと、杉田丘陵の山頂から太陽が昇るのが見える。し

かも、関門海峡を越えて北九州市門司区の(別名山ともいう)とも重なるので

ある。風師山とは、昔から地元ではアマテラス信仰につながる太陽神を祀る

山として知られている。山頂には巨大な岩があり、その周辺にも人工的な積

み石と見られるものがあって、と呼ばれる太陽神が祀られているのである。こ

の山が、日の神(太陽神)の子である王の神殿がある杉田丘陵と一直線上に

重なり、さらに宮ノ原遺跡が重なる。これは、ただの偶然なのだろうか。超古

代の世界では、こういう太陽信仰、巨石崇拝は日本各地にあり、いまも「」「」」

「」「」「」というような名称が残る土地には、必ずといってよいほど見られる形

である。杉田丘陵の神殿を築いた部族と宮ノ原遺跡の海人族は、おそらく同

一部族なのではないだろうか。宮ノ原遺跡に生活拠点を置く海人族が、杉田

丘陵を祭祀の場とし、太陽信仰巨石文化を象徴する大岩を中心とする神殿を

築いた。二つの遺跡をワンセットのものとし、彦島全体を海人族の王国とみる

のが最も自然なのではないだろうか。それでこそ「日子王の島」、すなわち、

彦島といえよう。日子王が率いる彦島族は、その島を根拠として日本列島を

自由自在に走り回ったに違いない。時には海岸部から内陸に進出し、川伝い

に上流へと遡り、新しい移住地を開拓しただろう。魚撈と狩猟・採集を主たる

生活手段とする部族だからこそ、移動を繰り返し、各地に生活の跡を残し、さ

らに新天地を開く行動を繰り返したに違いないのである。そして、彦島はとは

いわないまでも、事実上、その中心地となり、メッカとなったのである。それ

は、宮ノ原遺跡の存在年代をみれば、縄文時代の後期前半になるまで続い

たようである。しかし、そこで、プッツリと途切れてしまう。彦島に弥生時代人

が住んでいた形跡はない。不思議なことだが、弥生遺跡が一つも発見されて

いないということは、彦島は無人の島と化したということであり、彦島族はどこ

かへ去ったと考えるほかになくなってくる。いったい、彼らはどこへ行ったの

か。

第15項

大和言葉はヘブライ語で読める

イギリス商人のマクレオドが、「日本人と日本国家の起源がユダヤ(イスラエ

ル)に由来するのではないか」という仮説、すなわち、「同祖論」を発表したの

は、今から110余年前のことだった。それ以来、多くの人たちによって、この

仮説は繰り返し主張されてきたのであった。これは、史学論争というような形

では一度も表に出てこなかったものの、常に日本における古代史の闇の部

分を照らすものとして注目されてきた。とりわけ、にほんの史学関係者に大き

な衝撃を与えたのが、イスラエルの研究者、ヨセフ・アイデルバーグの手にな

る「大和民族はユダヤ人だった」という著書である。それによれば、日本固有

の風俗や習慣・祭り・言語とみられてきたものが、ことごとくユダヤに発してい

るとされ、天皇制神道すらもユダヤに由来するというのである。以下、その論

旨を列挙してみよう。

神武天皇の尊称について

神話のなかで日本民族の創設者とされている神武天皇は、古代日本語では

「神倭伊波礼比古命」と表記され、「カム・ヤマト・イワレ・ビコ・スメラ・ミコト」と

音読される。これは本来、どういう意味なのか。日本語で説明しようとしても、

うまくいかなかった。ところが、ヘブライ語で読むとストレートに意味がわかる

という。

カム〓創立とか、設立を意味する「KUM」に発する。

ヤマト〓ヘブライ・アラム語の「YA−UMATO」に発し、神の民を意味する。

イワレ〓アラム語でヘブライを意味する「IWRA」が少しなまったもの。

ビコ〓ヘブライ語の「BEKHOR」で最初に生まれたという意味。

スメラ〓アラム語で「SHAMRAI」、つまり、サマリアのという意味。

ミコト〓古代ヘブライ人が使った言葉の一つ、セム語系シリア語の「MALKI

OTO」で、皇帝の意味。これらを連続して意訳すれば、神武天皇の尊称とさ

れる長ったらしい古代日本語は、「サマリアの皇帝、神のヘブライ民族の高尚

なる創設者」という、論理的一貫性のある言葉であったことがわかるのであ

る。なお、これについては別の解釈がないわけではない。

「天孫民族〓バビロニア起源説」を説いたドイツ人学者エンゲルト・ケンペル

が、元禄時代に来日した折り、スメラミコトのスメラは、3000年前のサマリア

に由来するものではなく、さらに古い5000年前のシュメール、バビロニア時

代の言葉に由来すると述べている。古代バビロニアのセム語で神を意味する

「SUMER」と、天降るものを意味する「MIGUT」が一つになったものと解釈し

ている。すると、天降った神という意味になるらしい。いずれにしろ、意味不明

の大和言葉がユダヤ系か、または、シュメール文明に連なる同じ系統の言語

に基づく表記であったことが判明したことになる。

三種の神器の謎について

天皇の皇位継承時に授与される「三種の神器」の一つに「八坂(ヤサカ)」と

いう曲がった形の宝石がある。いわゆる勾玉である。これが、いままで何故、

ヤサカと呼ばれるのか、そして、何故、独特な曲がり方をしているのか、不明

であった。しかし、ヘブライ語の方言に「YA・SAKHA」という神への信仰を意

味する言葉があり、宝石の独特な曲がり方もヘブライ文字の「Y」を示してお

り、神を意味する「YA」を指すのに使われたということである。つまり、ユダヤ

の信仰を象徴する道具であったということになる。そういえば、もう一つの神

器に鏡、すなわち、にも似た話がある。驚くべきことであるが、この鏡の裏側

にユダヤの古語が刻まれているという噂があるというのである。これは確認し

たわけではないのでなんともいえないが、小矢部全一郎が、その著「日本お

よび日本国民の起源」のなかで、はっきりと述べている。かすかに「エイエ、ア

セル、エイエ」と書かれているというのだ。この言葉は「旧約聖書」の「出エジ

プト記」に出てくる有名な言葉である。ユダヤ人たちがエジプトから紅海を渡

り、シナイ山に至った時、神がモーゼを呼ぶのである。「汝の名は誰である

か」モーゼは誰に呼ばれたのかわからぬままに、「我は在りてある者なり」と

答える。その言葉が「エイエ、エセル、エイエ」なのである。その言葉が鏡の裏

側に刻まれているというのである。これは事実だろうか。事実だとすれば、天

皇家は何故、これを公開しないのだろうか。

 第16項

伊勢神宮の「ユダヤのマーク」について

ところで、天皇家の祖神とされるを祀る伊勢神宮の参道を歩いた事がある人

ならば知っていることであろうが、参道の両側に立つ石灯篭の台座にビデ大

王の紋である「カゴメ」が彫ってある。それは現在、イスラエルの国旗に採用

されているマークである。それが何故、伊勢神宮にあるのか。しかも、その反

対に、イスラエルのヘロデ大王の記念門には、日本の天皇家の紋章である

「十六菊紋」に似た紋が大きく刻まれている。これはヘロデ大王の紋としてい

まに伝えられているのであるが、両者の間になんらかの相関関係があるのだ

ろうか。その謎は、「伊勢」という名称の由来を明らかにすれば解決される。も

ともと「IWUS」というエルサレムを記念する言葉があり、それが「イセ」という

言葉になってしまったことが考えられるのである。「出雲(イズモ)」という言葉

も同じ。それはエドムを記念する言葉ではないかと思われる。そして、アイヌ

人と遭遇したとき、大和の人々は彼らをエビスと呼んだが、それもエブス人の

なまったのかもしれない。

伊勢音頭のほんとうの意味

ところで、その伊勢には、いまも古代ヘブライ語の聖歌が残っているといった

ら、驚くに違いない。それは誰にでも広く知られている「伊勢音頭」のことだ。

「なあんだ」などと、がっかりしないでいただきたい。そのはやし言葉を聞いて

みよう。(右がヘブライ語訳)

(ササ、ヤットコセー)  汝ら喜べエホバは仇を沈めた

(ヨーイヤナー)    エホバは憐れみかし

(アーリャーリャー)   われエホバをほめ奉る

(コレワイセー)    彼呼びだしかつ救えり

(コノナギイド モセー) 彼立てたり指導者モーゼを

しかも、それは伊勢音頭だけでなく、民謡という形で日本各地に残る俗謡の

はやし言葉となって、数多く残されているのである。酒の席についた時、意味

も知らずに手を叩き、「アーコリャコリャ」というようなはやし言葉を口にしたこ

とはないだろうか。「コリャ」とはエホバの御声であり、「コーオリヤ」となると、

エホバを待ち望めという意味になるらしい。いくつか、他の例もみてみよう。

(ハリャーリャー) ハレルヤ エホバを賛美せよ

(ホッチョイセー) 引っ張り出せ仇人を

(ドッコイショー) 打ち砕け、生き残れる仇を

(エンヤラサー) 我推挙奉る、主権者を、我エホバを讃えまつる

(ヨイサマカショ) 主権者の光輝は清掃せり残徒を

こういう例が枚挙にいとまがないほど数多く、うっかり民謡も歌えないほどで

ある。

ひい・ふー・みーの数え方について

日本では数を数えるのに昔から「ひい・ふー・みー」と数える習慣がある。これ

がなんと天照大神が天の岩戸に隠れてしまった時、裸踊りをして笑いに紛れ

て誘い出した時に歌われた歌詞(祈りの言葉)であったらしい。「HI FU MI YO 

ITSU MU NANA YA KOKONO TOWO」となり、それをヘブライ語で直訳する

と、「誰がそのうるわしめ(女神)を出すのやら。いざないに、いかなる言葉を

かけるやら」ということなのだそうだ。いったい、これらの事実はなにを意味し

ているのか。

第17項

彦島の海人族はどこへ行ったのか

日本列島は、世界的な民族移動の中継点となり得る島であり、東西南北から

渡ってくる者、そして、渡っていく者のスクランブル交差点になっていた可能

性が考えられるだろう。まして、海上交通の要衛をしめる彦島は、もっとその

可能性が高い。日本列島を中心として、世界の移動ルートが収束し、また分

散する。陸路と海路とを問わず、移動ルートがループ状になって交錯している

のである。日本列島は、決して「FarEast」(極東)と呼ばれるような世界の果

てでもなく、世界の文化の吹き溜まりでもない。世界の中心であり、文化の発

信地であると同時に、それぞれの文化の中継点として機能したのであった。と

すれば、彦島を中心とする北九州や山口県西部一帯のペトログラフを刻んだ

謎の部族も、いつのころか、中国大陸や朝鮮半島ばかりか、広い太平洋を渡

ってアメリカや南洋諸島をはじめ、世界各地に移動したことも十分に考えられ

る。彦島の海人族に限っていえば、彼らはBC6000年ころまでは確実に存

在したことが確認されているので、もし移動の可能性を論じるとすれば、その

後のことになる。積極的な開拓精神によるものなのか、それとも、やむを得な

い事情が発生したことによって、故郷をすてなければなにないことになったと

いう場合考えられる。縄文人の人工は早期から前期にかけて急増し、中期に

入ってピークに達するが、その後、西日本と中部・東海・関東各地方によって

地域差がみられるものの、かなり目立った形で減少しているのがわかる。東

北 地方を除けば、他の地域では軒並み二分の一とか、三分の一に減少して

いるのである。この減り方は尋常ではない。これは、縄文中期まで上昇し続

けた気温が、その後、急激に下がり始めたことによって、生活環境が激変し

たためだろうといわれている。いかに農耕や牧畜を営み、食料保存技術を確

立していたとしても、多くの部分を狩猟採集に依存していた縄文人にとって、

気温の低下による自然環境の悪化は死活問題となるからだ。当然のことなが

ら、より豊かで快適な生活環境を求めて移動せざるを得ない。日本列島にお

ける急激な人口減少は、おそらくそういう集団的大移動によるものだろう。食

料危機による滅亡、というようなことは考えられないからだ。長い時間をかけ

て、縄文人たちは新天地を求めて大移動の旅に出たのではないだろうか。で

は、どのくらいの気温低下だったかというと、アラスカにおける植物の花粉分

布調査によれば、100年間に三度くらい下がったことが確認されている。そ

れは、ちょうど日本列島が縄文後期に入るころと同じ時期のデータである。わ

ずか三度と笑ってはいけない。いまも20年から30年の周期で冷害に襲わ

れる東北地方においては、気温が一度上がると冷害は100年に一度の割合

になるが、逆に三度下がると6年に一度という頻度で冷害が発生するという

試算結果が出ているほどだ。現代においてさえ、そういう結果を招いたという

ものであれば、当時の人々にとっては、想像もできないほど大きな影響を与

えるものであったに違いないのである。そういう異変が日本列島だけでなく、

全地球的規模において発生したらしい。日本列島における縄文後期から晩

期における人口減少と時を同じくして、地球全体の気温低下による世界的な

民族移動が発生しているのである。インド・ヨーロッパ語系統の部族たちが一

斉に南下したのを皮切りにして、北辺に住む住人たちは、次々に暖かい土地

への集団大移動を開始したのであった。この時、東アジアにおいては、大陸

における北方騎馬民族の南下によって、中国古代の文明が滅ぼされている。

その一波が日本列島に流入している可能性を否定できないとしても、日本列

島から流出した可能性についても否定できない。彦島の海人族、いや、日本

列島の縄文人たちが、この流れと軌を一にして大移動した可能性は高い。あ

る者は新天地を求めて太平洋の海流・黒潮に載ってメリカへ渡り、他の者

は、ひたすら南へ向かい、小笠原海流や季節風を利用して南洋諸島へ移動

した者もあったろう。直接、朝鮮半島や中国大陸へ渡り、西へ、南へ移動した

者もあったかもしれない。どちらにしろ、彦島を中心とする西日本の縄文人た

ちは、世界的な民族移動の波に乗って世界各地へ散っていったのではない

だろうか。その正確な足どりは把握できないが、結果的に見れば、当時、最も

文化的ボルテージの高かった日本列島から旅立った人たちが、世界各地に

縄文文化を伝播せしめる役割を担ったのであろう。その人たちこそ、勃興しつ

つあったメソポミヤ、エジプト、インダス、そして黄河の古代世界における四大

文明を開花させ、完成させる役割を担う世界最初の人類となった人々だった

のではないだろうか。

目次へ

第18項

「ノアの箱舟」伝説は日本列島誕生の記憶か

となると考えられるのは、BC12000年前、「縄文的大海進」によって日本列

島ができあがったことではないだろうか。最後の氷河期が終わり、徐々に地

球が温暖化し始めたのが21000年〜18000年前ころである。それから

6000年後のことだ。地球の温暖化が進むにつれて、海面の水位も徐々に

上昇したであろう。140メートルも上昇したのであるから、同時に水温も少し

ずつ上がったはずだ。それが気象変化を引き起こさないはずはない。斬新的

変化が進行した結果として、ある時に劇的な変化が発生することは十分、考

えられる。たとえば、日本列島が大陸から別れる瞬間を想定してみよう。日本

列島が大陸と地続きであったころ、日本海は大きな湖のようなものであった。

だから、気象情況はいまとまったく違っており、完全な大陸型の乾燥した寒冷

気候に支配されていた。それが一変する時がくる。いまの九州と朝鮮半島の

間から暖流・黒潮が日本海に流れ込み、温暖化しつつあった日本列島がま

すます暖かくなり、海洋性気候の支配領域に入ってしまう。それは、ある日、

突然に訪れたのではないかと思われる。つまり、海面の水位上昇は徐々に

進行し、ひたひたと九州と朝鮮半島をつないでいた地面に這い上がっていっ

たはずである。かっては陸地であつたところが少しずつ、少しずつ、海面下に

沈んでいったのだろう。だが、ある日、徐々に上昇した暖流黒潮が堤防を決

壊させて怒涛のように暴れる川の水と同じように日本海に流れ込んだ。最後

の堤防のように流れを阻んでいたところが決壊した瞬間、奔流となって黒潮

が日本海に流れ込む。日本海の水位は急激に上がり、水温がぐんぐん上が

る。それが日本列島の気象情況を急変させてしまうのである。雲が沸き立

ち、広大な範囲に渡って豪雨をもたらしたに違いない。シュメール人となった

西日本の縄文人たち、とりわけ、彦島を本拠とする山口県西部、北九州の縄

文人たちは、それを目の前にして現認したのではないか。海面の水位上昇だ

けでなく、長期にわたって降り続く豪雨によって地上世界は大洪水に見舞わ

れるのである。それは、興味深いことに伝説のムー大陸とアトランチス大陸が

海に陥没して消え去ったという年代とぴったり一致する。ちょうど12000年

前のことである。

第19項

ユダヤ人は「祖国・日本」に戻った

洪水伝説はメソポミヤを中心とするバイブルランドだけでなく、アジア、ヨーロ

ッパ、南北両アメリカ大陸、アフリカ、オーストラリア、南洋諸島に至るまで世

界各地に残されておりながら、日本だけにないというのはおかしなことであ

る。これは、どう考えても不思議なことである。その謎は、洪水伝説の発祥の

地が日本だったと考えれば氷解する。海面下に沈んでしまった集落を捨て

て、縄文人たちはもっと高い陸地に生活の場所を移動したであろう。その時

から日本の縄文時代が開幕したのであるが、人々は、それ以来、ずっと洪水

伝説を記憶し、語り伝えてきたことだろう。そして、数千年ののち、再び寒冷か

する時を迎え、世界的な民族大移動が始まった時、日本列島の縄文人たちも

世界各地に散って行った。大洪水の記憶は、その人々によって世界各地に

伝えられたのである。そうとしか、考えられない。ユダヤ人が「旧約聖書」に書

き残した「ノアの洪水」も、その原本となったウトナピシュティムの洪水伝説

も、メソポタミアのジウスドラ伝説も、もとはといえば、シュメール人となった西

日本における縄文人たちが伝えたものだったのではないか。ユダヤ人が「メ

シア(救世主)が東の国から現れ、必ず救ってくれる」と語るのは、だから、当

然のことなのである。彼らは東の国、すなわち、日本列島が自分たちの故国

であることをぼんやりと記憶していたからにほかならない。そして、ユダヤ人

は先祖の国、日本に戻ったのである。

第20項

ワトキンスが発見した直線状のネットワーク

それは1921年のある暑い日の午後のこと、一人の男の眼前に突如として

現れたのである。その男はアルフレッド・ワトキンス「1855〜1935」。イギリ

ス南部ヘレフォードシャーではよく知られた名士で、製粉業社長、治安判事、

州会議委員、学校の理事長と、さまざまな名誉ある職を兼ねていた。彼はパ

イオニア的な写真家で、英国写真協会の会員でもあり、またいくつもの写真

装置を発明した。ワトキンス式露出計というのもそのひとつで、広く使用され

たものである。ヘレフォードの博物館には今なお、彼の撮った素晴らしい田園

風景の写真が保存されているのだ。まずは彼の劇的な体験を、イギリスの作

家ジョン・ミッチェルの「ザ・ビュー・オーバー・アトランチス」をとおして見てい

ただこう。1920年代はじめのある暑い夏の昼さがり、アルフレッド・ワトキン

スはヘレフォードから20キロほど西にあるブレッウォーデンの丘を馬で横切

っていた。高い丘の頂上で彼は馬をとめ、眼下に広がる風景にしばし思いを

めぐらした。と突然、一瞬のうちに、彼はおそらく数千年もの間、イギリスの誰

もが見なかったようなものを見た。長い長い年月のバリヤーがとけてなくな

り、そこに先史時代の地層が出現したのである。彼は太古の遺跡や聖地をつ

なぐクモの巣状の直線がクッキリ浮き出ているのを見た。マウンド(塚)、古い

石碑、十字架や古い四つ辻、先史時代の由緒ある教会、ご神木、堀や聖なる

井戸などがクモの巣のような網目状の直線上にみごとに並び、それはじつに

驚異的な眺望であった。この超現実的な体験があって以来、彼はすっかり直

線上のネットワークにとりつかれてしまう。さっそく地図を求め、知っている限

りの遺跡をマルで囲んでいった。

第21項

「古代の直線路」レイ・ライン

もっともイギリスの考古学研究者フランシス・ヒッチングがくわしく調べたところ

によると、この話は少しばかりちがっているようである。そのころすでに一部

の考古学研究家の間では、地図上で任意の二つの古代遺跡を結んだ直線を

延ばしていくと、他の遺跡もその直線上に載るということが噂になっていたの

である。そのような話に対してワトキンスは、かなり心霊的な感受性の持ち主

であったようであるが、なかなか慎重だった。遺跡が一直線上に並ぶのは、

古代の人間の国土計画によるものなのか、それとも偶然の一致でしかない

か、あるいはとんでもない妄想による誤りかもしれない。証明が必要であると

彼は考えた。国土測量部地図283番のアンドゥーバー地域を求め、そこにあ

る教会51個所をマルで囲んでみた。その結果、五つのの教会が一直線上に

並ぶ例を四つ見つけることができた。だがそれだけで結論を出すのは早すぎ

る。彼はまた対照実験として、地図と同じ大きさの白紙にランダムに51個所

の点を書いて検討した。四つの点が一直線上に並んだのがたった一例、や

はりなにかがある。こう彼は確認した。そして1921年6月30日、突如として

一つの幻視的光景が66歳のワトキンスを襲ったのである。その日彼はブレ

ッドウォーデンの村はずれで、車の座席に腰をゆったりと沈めてぼんやりと地

図を広げていた。と、みるみる地図の地形線や記号が変化していった。地図

の裏側からにじみ出るように、血管のような網目状の線が右往左往し、丘の

頂上から教会へ、マウンドから堀へ、聖なる井戸から四つ辻へと走っていっ

た。そしてその線のうちいくつかのものはさらに延びていき、隣の地図にまで

続き、山の頂上や高い崖で終わったのである。3年後、ワトキンスはその発

見の成果をまとめあげ《古代の直線路》という本を出版、この直線を「レイ・ラ

イン」と名づけた。直線上にLEY,LAY,LEE,LEGHなどの綴りで終わる地

名が数多く見つかったからである。イとは《オックスフォード大辞典》によると、

「牧草地や草原にするために用意された」土地とか、「未開墾の」「耕されてい

ない」という意味をもつという。彼は先史時代のブリトン人の姿を想像した。そ

のむかし、旅人たちは道しるべとして自然の目標物、山や高い丘を選び、そ

の間の最も短い道すなわち直線路を通った。一つの山頂から他の目印が見

えないときは、かわりに石柱やマウンドを目立つように道すじに置いた。さら

に山の斜面にはケルンを積み、尾根には刻み目を入れて旅人にわかりやす

いようにした。ワトキンスは、レイ・ラインを、ローマ人がイギリスを侵略する以

前に建設された通商路であると考えたのである。事実、レイと古い道路や忘

れられたような小道が一致しているところがよくあった。

第22項

ダウジング「水脈占い」によるレイ探索

しかしながら、ワトキンスは結局のところ、自信をもってレイ・ラインが通商路

であると断言することはできなかった。というのは、レイを単なる道路と考える

のでは、説明のつかない事実がある。迂回すればよさそうなのに、わざわざ

急な山頂をまっすぐに乗りこえる。すぐ両側に乾いた土地があるのに湖や沼

地を突っ切る。近くに浅瀬があるのに深いところで川を横切っている。そんな

ケースがたくさんあるのだ。「レイ・システムの背後には、通商路であるという

以上のもっと深い意味が隠されているのではないか」彼はこのような考えを

深めていったようである。今は失われてしまったけれども、なんらかの神秘的

な概念が、大地を規則正しく並べるために働きかけたにちがいない。レイの

測量士や占星神官、ドルイド僧、吟遊詩人、魔女や巡礼たちは、結局は落ち

ぶれてしまったけれども、みな多かれ少なかれ古代の知恵と力で一本に結び

ついている。彼はこのように感じた。しかしながらワトキンスの説はおおかた

の学者知識人からは一笑に付された。口ぎたなくののしられ、物笑いの種と

なり、あげ足取りのくだらぬあらさがしの攻撃を受けた。当時の常識では、先

史時代のブリトン人は、脳なしで不潔な野蛮人にしか見られていなかったの

である。それにもめげず、ワトキンスは一生をレイ・ラインの裏づけ作業に捧

げ続けた。レイの謎を解決する強力な仮説を見出すことはできなかったが、と

にかくレイ・ラインが実在するという証拠となるようなものを次々と発見してい

った。地図に引かれたレイ・ラインの上を、実際に歩きながら一歩一歩調べて

いった結果、地図に記されていなかった石や塚あるいは小道がまだまだ数多

くあること、教区の境界線はレイの上に一列に並ぶことなどが明らかになっ

た。また、あるレイの交差点では、新たに古代の石造の十字架が発見された

が、それなどは完全に国土測量部が見落としたものであったのである。歴史

の専門家には拒絶されたにもかかわらず、ワトキンスの発見は、権威にとら

われずに自由な思考を追求しようとする人たちの間に徐々に浸透していっ

た。UF0研家、神秘主義者、占星術師とか霊媒のような類の人たちばかりで

なく、数学者、工学者、建築家、地理学者、言語学者、一部の考古学者といっ

た人たちまでを巻き込んでいったのである。ワトキンスがイギリスでレイ・ライ

ンを発見したとほぼ同じころ、ドイツでは福音派の牧師ウィルヘルム・トイトが

「聖なる線」を発見した。1929年の《ドイツの聖域》という書物で、それについ

てくわしく述べており、やはり古代遺跡どうしの位置には特殊な関係があっ

て、一直線上に並ぶのだという。彼のこの説はやがて「」(俗にいうナチのオカ

ルト局)の長官ハインリヒ・ヒムラーの後押しにより、公的にも認められるよう

になった。そして地理学者のハイニッシュは「先史宗教の地理的学的な原理」

という論文で、聖域は太陽・月・無惑星の位置に関するとみられる原理によっ

て設定された線上に置かれていることを発表した。またフランスでも言語学者

ザゥィエ・ギシャールが、1936年に、「エレウシス・アレシア」という558ペー

ジにもなる大著を出版、ヨーロッパの地名には有史以前の起源をもつ独特の

地名がやはり直線の上に並ぶことを示した。その代表的な地名がアレシア

(ギリシア語ではエレウシス)で、この名称はギリシア時代以前にもさかのぼ

るのである。またその語根アレまたはアリは、インド・ヨーロッパ語系のもの

で、旅路の合流点を意味する。ギシャールはさらに、アレシアの転訛形態とみ

られる名前の土地をひとつひとつ地図上に印してみた。すると、彼の母国で

あるフランスにそれが最も密度が高く、400個所も集中していることが明らか

になった。と同時に、エジプトのナイル川のデルタにあるエレウシスや、ポー

ランドのカリッツ、イタリア南端のアレッサー、スペインのラ・アリセダなど、四

方八方のずっと離れたところまで続いていたのである。

第23項

地球は12面体と20面体からできている!

今から10年ほど前、ソ連の「コムソモール・プラウダ」という若者向けの雑誌

に、地球が網の目状のパターンで取り囲まれたイラストのある奇妙な記事が

掲載された。だがこの記事はシュールリアリズムの作品について書かれたも

のではない。それは1960年代にソ連の三人の科学者によってなされた研究

を紹介したもので、もともとはソ連邦科学アカデミー発行の科学雑誌に「地球

は大きな結晶か?」と題して発表されたものらしい。彼らの研究のそもそもの

はじまりは、歴史上あるいは地球物理学上の重要地点を線で結んでいくと、

なんなかの特徴あるパターンが現れやしまいかと考えたことにある。その結

果はまさに予想どおり、いや、多面体立体が浮かび上がったのである。彼ら

の仮説によると、地球はもともと対称的に調和のとれた結晶体として生まれ、

ゆっくりと今日のような球体にできあがったのであって、その痕跡はまだ見る

ことができる。この結晶体は12面体で、12個の正五角形の平板で構成され

る。さらにこの平板の中央の点を結ぶと、この点を頂点として20個の正三角

形の平板を持つ正20面体ができる。そして彼らの考えた地球上の重要地点

のほとんどが、この多面体網模様の頂点上あるいは稜線上に、みごとに載る

のである。

第24項

コンペイトウも立派な超常現象

寺田寅彦の研究のひとつに、通称「コンペイトウの理論」というものがあること

をご存知の方は多いだろう。コンペイトウ(金米糖)とは最近見かけなくなった

お菓子であるけれども、きわめて日本的な菓子で、いぼ状の突起あるいは角

が生えている。この特異な形にわれわれはとんと無自覚だが、これは人為的

につくられたものではない。不思議さを感じる感受性が欲しいのものである。

コンペイトウをつくるには、まず炒ったの種など小さな粒を熱した鍋の中に入

れる。これに甘露蜜にうどん粉を加えた液をかけてかき混ぜると、そのうちに

糖分が粒のまわりに付着していき、続けているうちにやがてあの独特の形に

成長していくのだという。これはどうしたことだろうか、寅彦はまず疑問を投げ

かける。たとえばふくらんでいくシャボン玉のように、成長するすべてのもの

は円か球になるはずではないだろうか、どの方向に特に延びていかなけれ

ばならないという理由がないのだから。いや、きっと理由はあるのだろう、わ

れわれはまだその理由を知らないにすぎないのだ。「しかし自然は人間の知

らないいろいろな理由を知っており、持ち合わせているために、世界の万物

はことごとく円や球や均質平等であることから救われるのである」なにもスプ

ーン曲げで驚くことはない。コンペイトウだって立派な「超常現象?」である。

多面立体のシャボン玉ができたら誰でも驚くだろう。それと同じような事態が

起きていると考えるべきなのだ。ところがこんな不思議なことなのに、自然科

学の世界では一向に問題とされない。それは、現行の古典的精密科学の方

法ではちょっと歯がたたないものなので、やっかい物として敬遠され、科学の

領域の辺境に押しやられ捨て去られてしまったからである。ではどうしてコン

ペイトウにはあのような突起状の角が生ずるのだろうか、なぜ角の数がある

決まった数(約30)になるのだろうか?寅彦はこのような課題を、彼の研究

室の学生であった福島浩に与え、理化学研究所でいろいろと実験させてい

る。その結果、ある条件のもとには、偶然的にでき始めた凹凸が次第に成長

し、その角の長さと粒の大きさとには一定の関係がある事、その大きさにある

上下の限界のある事などがだいぶわかって来たが、角の数を決定する根本

原理についてはまだ充分な解釈を下すに至らなかった。しかしこの物の形の

基礎には立体的正多面体の基本定型が伏在していて、条件によってその中

の格好なものが成長の萌芽となるであろうという想像がついたようである(自

然界の縞模様)。驚くべきことに、立体的正多面体が潜んでいるのだという。

実際、コンペイトウの角ができていくのを眺めていると、それが自分自身に相

似に成長していく。平均からのちょっとした変動ができると、常識的に考える

ならばすぐに打ち消され平均化されてしまうはずなのに、そうではなくますま

すその不安定変動が助長されてしまうのである。そのため角の部分はどんど

ん成長していく。この不安定の変動に関して、寅彦はすでに1916年に「偶

発現象の見かけの周期性について」という論文を発表している。これは大体

つぎのような内容である。たとえば、ある一定の体積内の気体分子数、ある

いはある一定の時間内の地震発生回数などのように、ある定められた時間

空間の範囲内における量がまったくランダムで、しかも全体としてはある決ま

った平均値を持っている、という現象を考える。そして、この数量を充分に多く

何回も数えて並べていき、その配列が極大になるところに印をつけてみると、

極大を示すところの平均間隔はある定まった値になる。地震発生回数をレイ

にとってみるならば、ある土地に起こった地震の毎月の回数は、3〜4カ月お

きにその極大が現れる。また一年ごとの回数をとれば、3〜4年おきにその

極大が現れる。つまり、空間的あるいは時間的な偶然の変動の周期は3〜4

であることが見出された。寅彦は、この見かけ上の周期が地球物理学的な諸

現象にはよく現れるものであり、大変重要なものであると唱えているのであ

る。

第25項

網の目の線上にある地球の最重要地点

 

 

では、ソ連の三人の科学者たちの考えた「地球表面全体をすっぽりとおおう

網の目」がどこで交わり、どんなところを通っているか、さらにじっくりと見てみ

ることにしよう。まず、古代文明が発祥した、あるいは巨石文明がよく栄えた

とみられる地点のうち、エジプト、インダス川流域、ペルー、イースター島、イ

ギリスなどが交差点上に存在する。地質学的には、鉱床地帯や大断層が、

網の目の線とよく一致する。たとえば、ソ連の大油田地帯であるチューメニな

どは交点の上にあるし、それに北部〜中部大西洋の大海領が稜線上にあ

る。また人工衛星による超高空写真から、北緯30度あたりをメキシコから大

西洋、モロッコを超えてパキスタンになで達する大断層があるのではないかと

想定されているが、これも稜線上に位置する。地殻のプレートの縁や火山帯

も比較的一致するようである。気象学的には、台風やハリケーン、サイクロン

の発生地が交点の付近に集中し、稜線に沿って移動する。卓越風や海流も

また関係がありそうである。きわめて日照時間の多い地域―エジプト、チリ南

部、メキシコのカリフォルニア半島などがやはり交点上に位置する。それから

交点にあたるインダス川下流域、サハラ砂漠北西部、モザンビーク南部で

は、渡り鳥が冬を越す。地球上において異常地帯とよく噂される地域もまた

交点とよく一致する。たとえばアフリカ、ガーナ共和国のオクロ付近、フランス

原子力エネルギー委員会のペラン元委員長の報告によると、1972年にフラ

ンスの科学者たちはこの地に、なんと18億年ほどの前の「天然の原子炉」を

発見したという。オクロのウラン鉱床から採れたウランのなかに、同位体のU

−235が極端に少ないものがあった。そこでこの地域全体の地質調査をして

みたところ、ウランの同位体比組成がきわめて異常な値を示していたのであ

る。ふつうU−238/U−235の同位体比は、地球上どこのウランでも、ま

た月の岩石や隕石中のウランでも、ほとんど一定の値(138)を示す。しかし

このオクロのウランの同位体比測定値はそれよりも大きく、また40パーセン

ト近い、たいへんなバラツキをみせていたのである。調査にあたった科学者た

ちは、このオクロ地域ではむかし、U−235をベースとした濃縮ウランと、中

性子を減速させる水によって、天然の核連鎖反応が起こっていた、という結

論を出している。また、アメリカの生物学者アイヴァン・T・サンダーソンが指摘

した地球上の12の「悪性渦動地帯」ともよく一致しているようにみられる。悪

性渦動地帯とは、よく魔の海域などといわれるように、船や飛行機が行方不

明になったり、磁気異常が検出されたりする地域であり、UFOがよく出没する

と主張している人もいる。それはどこかというと、有名な大西洋のバミューダ

海域、地中海南部のモロッコとアルジェリアの国境付近、アフガニスタン、小

笠原諸島近辺海域、太平洋北部、アルゼンチン南東海岸沖、南アフリカ南東

海岸沖、オーストラリア西岸沖、ニュージランド北部沖、南東太平洋、それに

北極と南極の合計12個所である。そしてこれらの地点は、三角形の平板で

とり囲まれた20面体の地球の頂点とほぼ一致しているのである。以上述べ

てきたソ連の科学者たちによる地球結晶体説には、いろいろと疑問も起こる

だろう。あまりにも気違いじみている。ウェゲナーの大陸移動説によるならば

陸地は動き回っているのだから、網の目の交差点も動いてしまうのではない

か。これだけ細かい網の目が敷かれるなら、どのようにでもこじつけられるだ

ろう、等々。しかしながら、それにもかかわらず、この研究が不完全ながらも

非常に画期的なものであるため、われわれは(そしてソ連の三人の科学者た

ちも)まだその本質を見逃しているのかもしれないという可能性まで否定する

ことはできないだろう。この説を本当の意味で理解するには、今までの地球

に対する固定観念を捨てて、根本的にちがった視点をとる必要があるのでは

ないだろうか。そうすることにより、まったく新しい地球像が見えるのではない

だろうか。

 

第26項

神秘図形・正多面体に秘められた驚くべき事実

現代科学をもってしても、いまだ解明できない不思議な現象がこの世には山

ほどある。その多くは科学的に実証できないということで無視されてきたが、

現代科学が自然とのバランスを破壊する両刃の剣であることがはっきりとわ

かってきた今日、真理探求への新たな可能性が求められているのも確かで

ある。実はこれまでの科学が見落としていた重大な事実がある。それは「形

そのものがエネルギーを発生している」ということである。もちろんこのことを

予感させるようなさまざまな現象は、すでにたくさん報告されている。ピラミッ

ドに安置されていた遺体が腐敗していないのは、ピラミッドの形に秘密があ

る、と発表されて世界的にセンセーションを巻き起こしたピラミッドパワーはそ

の代表例である。その他にも、十三面体の水晶がエイズを完治した例がある

などの不思議なパワーだけでなく、コンピューターなどの精密機器にも欠か

せない水晶のエネルギーもその一つであろう。さらには神秘図形としてはる

か昔から人々の心を引付けてきた六芒星や曼陀羅の不思議なパワーも例外

ではない。こうした事実の多くは科学的には無視されてきているが、実はその

秘密を解く決め手が、ここで取り上「形の真実」を知ることにあるのだ。もっと

はっきりいえば、あらゆるエネルギーは形そのものと切っても切れない関係

にあるのである。私は、このような考えに立って長年にわたって研究を続けた

結果、エネルギーを放射する形には、一定の幾何学的な条件が備わってい

ることを発見した。もっと具体的にいえば、これまでにも神秘図形のように平

面的な図形に対しては、ある程度の関心が示されてきたが、平面より立体に

こそ重要な意味があること、さらに、さまざまな立体のなかでもこの世界に五

種類しか存在しない正四面体、正六面体、正八面体、正十二面体、正二十面

体という正多面体こそ最もすぐれたエネルギー効果をもつことなどを突き止

めたのである。

第27項

驚くべき超自然エネルギーの秘密が二つの「比率」によって解ける

私は、こうした正多面体の驚くべき超自然エネルギー発生の秘密はどこにあ

るのかを探求していった。そこでこの問題を解くキーワードが「比率」という概

念にあることを思い立ったのである。その結果、五つの多面体は二種類の共

通した「比率」をもっていることが明らかになった。一つは1:1.618という比

率で表される「黄金比」、もう一つは1:1.414という比率で表される「大和

比」である。この二つの比率のメカニズムを応用すると、多面体パワーのさま

ざまな事実が浮かびあがってきたのである。まず、五つの正多面体のほかに

もこれに準ずるものとしてひし形十二面体とひし形三十面体が存在すること

が明らかになった。私は五つの多面体にこの二つを加えて基本立体と呼ぶこ

とにした。それから、人間の体の小腸や大脳皮質などの構造には、これらの

比率が潜んでいて多面体パワーと深く関係していることがわかった。ウイル

スの秘密もその構造が多面体から成り立っていることと深く関係している。さ

らには人体に不可欠の金属元素の構造もこうした基本立体から成り立ってい

る。

◆丸―太陽のシンボル

密教における大日如来のシンボルであり、世界中で「太陽のシンボル」として

知られる図形が丸である。古代エジプトでは、太陽の象徴として用いられ、王

冠の頂点に、丸をかたどった金属板や宝石をあしらったりした。東洋では、曼

陀羅の基本形がこの丸であり、それは胎蔵界曼陀羅の丸を基本として展開さ

れる構造に表れている。西洋では、丸は悪魔をはらう図形とされたり、足元に

円を描くならば、悪魔はその円より内側へ入ってくることはできないとされた。

◆三角形―三位一体の神秘的力

キリスト教の「三位一体」、古代エジプトにおける「オシリス、イシス、ホルス」

、仏教の三法である「仏・法・僧」など、あらゆる三つの神秘的な組合せを表

すのが三角形である。インド密教の聖典であるタントラでは、上向きの三角形

は男性原理、下向きの三角形は女性原理を表し、これを組合せて、ヘキサグ

ラム(六芒星)として、男性的な力と女性的な力という、異なる二つの力を合

体させた図形として用いられている。この図形は、「炎の力」によって、悪業や

悪因縁を断ち切る、過去の悪い運を燃やしつくす、自分の魂を燃えあがらせ

て活性化する、三位一体の力により神の力と恩恵を得る、などという効果をも

つとされてきた。そこでは、神秘的な目的の場合ほど正確な「正三角形」が使

われている。

◆四角形―大地の力

インドにおける大地(プリティビィ)の象徴で、四方に広がる大地とその広大な

力を示す。仏教においても、同じように大地の力の象徴であり、「金剛輪」とし

て塔婆や五輪塔のいちばん下に形づけられている。また、四角形が組み合

わさって、より大きな四角形を作り出すことから、仏の広大な慈悲を示すため

に、四角形を中心に構成された「金剛界曼陀羅」がある。意味としては、大地

に根ざした力や、物事の基本、万物の土台の象徴として用いられることが多

い。守り札である護符のほとんどが、四角形の紙の上に描かれることからも

わかるように、この世界の物質的な根源は、四角形で象徴される〓地球であ

り、これなくしてすべてを語れないのである。

第28項

神秘図形の正体は正多面体

次に六芒星だが、この星型のマークは、上向きの正三角形と下向きの正三

角形がちょうど重なり合ったような格好をしている。つまり、正三角形の対角

線を図案化してできた形なのだが、実は、ここに重要な意味が隠されている。

すなわち、二つの正三角形が重なり合っている形は、単なる平面図形という

より、正三角形の面で構成された立体を平面図形化したある種のデザインと

見ることができるのである。早い話、六芒星とは、立体の展開図のようなもの

なのだ。そこで正三角形の面だけで構成された立体を探すと、正四面体、正

八面体、正二十面体がある。正八面体を上からのぞくと、まさしくふたつの正

三角形が重なり合っているのが見える。また正二十面体の場合も、正三角形

が重なり合っているのが見える。このことから考えて、六芒星の形の原形は

正八面体と正二十面体であり、これら二つの多面体を平面化してデザイン化

したものが六芒星、そう解釈すれば、六芒星パワーの秘密もはっきりしてく

る。結局のところ、その正体は正八面体と正二十面体という多面体パワーに

他ならなかったというわけである。すでに述べたように、六芒星はイスラエル

の国旗に使用されているマークだが、そもそもはダビデの星と呼ばれる古代

ユダヤ王国の紋章。現在、若者たちに人気のあるヒランヤのパワーグッズ

は、このダビデの星を基調としたデザインが中心だが、このマークを描いた紙

の上に乗せるだけで、植物の日持ちがよくなったり、水がおいしくなったりな

どの不思議な作用が起こる。その秘密が多面体パワーにあることは、あらた

めていうまでもないだろう。もう一つ、超自然パワーを発する平面図形として

知られるのが、曼陀羅だが、この図に描かれた多数の神仏は正方形の面で

区切られ、順序よく配列されている。正方形の面のみで構成されている立体

といえば、すなわち立方体だが、これを展開すると実に曼陀羅の世界になる

のである。真言密教の開祖空海は、「森羅万象は、地、水、火、風、空、識の

『六大所成』から成り立っている」と説いているが、これはすなわち、この六つ

が宇宙の本質という意味である。火、水、土、空気と、それらを入れる容器を

宇宙の根源物質としたプラトンの説と非常によく似た考え方だが、多少違うの

は、プラトンが五つの正多面体を使ってその根源物質を表そうとしたのに対し

て、空海は正六面体を展開した曼陀羅のなかにこれを求めようとした点くらい

のものだ。いずれにしても、曼陀羅が正六面体と同種の構造を持っているの

は確かなことで、その仏図から発せられる不思議な力も、もとをただせば多面

体パワーに他ならないといえるわけである。このように、多面体パワーは立

体のみならず、平面図形からも発している。繰り返していうが、そのキーワー

ドはあくまで「立体・図形が幾何学的に、正多面体、あるいは正多面体を基本

要素として成り立っているかどうか」である。

 

第29項

パワー発生のキーワードは二つの比率

今述べた多面体パワー発生のキーワードを「比率」という別の概念に置き換

えて考えてみると、さらにわかりやすく頭の整理ができるのではないか。この

正多面体の基本に成っている比率について若干の説明をしておこう。実は、

自然界に存在する五つの正多面体は、の共通した「比率」を有し、この二つ

のうちどちらかの比率を基本として構成されている。その第一は、1:1.618

という比率であり、もう一つは1:1.414という比率である。前者は「黄金比」

と呼ばれるもので、この比率ははるか古代から知られており、建築、美術、工

芸生活などさまざまな分野で活用されてきた。たとえば、ルネサンス期の芸

術家たちはこの「黄金比」による分割法を非常に重視したが、なかでも有名な

のは、レオナルド・ダ・ヴィンチの人体図で、これは人間が両手両足を開いた

形が五角形に収まるように描いている。このように美術、建築などのアートの

面で1:1・618の比率が多用されてきたというのは、図形を縦横に分割したと

き「黄金比」になるようにするのがいちばん美しいということに他ならない。一

方、後者については、「黄金比」に対して「大和比」というネーミングを私は与

えているが、これはザクロ石やラピスなどの天然石の結晶や多くの有機化合

物の分子間の構造など、自然界に多く見られるものである。また、かの有名

な聖徳太子の建立した法隆寺に代表されるわが国の神社、仏閣など古代建

築の多くも、この比率を基本として設計されている。そしてもっと身近なところ

でいえば、JIS規格で標準化されているA判、B判という紙のサイズも縦横の

比率が1:1.414の「大和比」に分割されているのである。ここで正多面体

の種類とこれを構成する基本的な比率との関係を整理して示しておく。

 

〇正四面体 ――「大和比」

〇正六面体 ――「大和比」

〇正八面体 ――「大和比」

〇正十二面体 ―「黄金比」

〇正二十面体 ―「黄金比」

正多面体の形がさまざまなエネルギーと共鳴しやすく、それ自体驚くべきパ

ワーをもつのは、「黄金比」「大和比」という二つの比率に秘密がある。

●「黄金比」「大和比」のメカニズム

上の説明の通り、正多面体は幾何学的に「黄金比」「大和比」のいずれかの

比率を有し、それが多面体パワーを発する源になっている。が、実はこの二

つの比率を基本構造に持ち、幾何学的に成り立っている立体は五つの正多

面体だけではなく、他にもう二つある。ひし形多面体と、ひし形三十面体がそ

れである。この二種類のひし形多面体が重要な意味をもつと直観的に閃いた

のは、正多面体の研究をはじめてから二、三年後のことであった。その当時、

私はチャネリングのできるという方々にときどき会っていた。そして、そのうち

のお一人が、「これからの世の中というものは、今まで人の心のなかに潜在

していたものが、表面に出てくる時代です」といわれた。そこで私は、今まで

潜在していたものが表面に出るということは何を意味するのだろうと考えた。

特に多面体にあてはめた場合、潜在しているものは二つの比率であるが、そ

のなかでも正四面体、正六面体、正八面体のなかに内在している「大和比」

(1:1.414)を表面に出したら、それはどのような形となって表れるのだろう

か。そこで浮かびあがってきたのが、ひし形十二面体、正二十面体に内在す

る「黄金比」(1:1.618) を表面に出したらどんな形になるのか。それが、ひ

し形三十面体であった。さらにこの二つの立体には、正多面体と同様、内接

球と外接球が存在し、一種類の等辺の図形だけでできているという共通項が

あることもわかった(このような条件を満たす立体は他には存在しない)。私

は、このひし形多面体の存在に気付くまでに二、三年もかかっている。だか

ら、はじめて多面体パワーを試される方は、ぜひとも、まず正多面体を紙で作

ったり、正確に正多面体にカットされた水晶を用いるなどして、正多面体対す

る基本的な認識を構築していただきたい。

 

第30項

水晶もDNAも「らせん構造」をもっている

水晶(石英)の多くは、六角柱状で、端は錐状にとがっている。したがつて柱

をなす面と錐状をなす面はそれぞれ六個になる。隣り合う面と面との角度を

測ってみると、柱面相互の角度は120度、錐面相互の角度は133度44分

で、この値は、世界のどの水晶でも、結晶の大きさにかかわらず一定となっ

ている。これを「面角一定の法則」という。この事実を1669年に発表したの

が、デンマークの物理学者、ニコラス・ステノで、彼が32歳のときであった。

彼は、環境(温度、圧力)が同じである限り、同じ種類の結晶は、どれをとって

も隣り合う面と面の間の角度が等しくなっていると主張したのである。この面

角の一定性は、水晶に限らず、すべての結晶に適用される、結晶学の基礎

的な理念となった。さらに、水晶は、酸素とけい素の化合物である。これを化

学式で表せばSiO2 、すなわち二酸化けい素で、これが正四面体上にらせ

ん構造になって配置されている。実は私たちの体には、DNAという遺伝子が

あるが、これもらせん状になっており、そのところどころに正四面体構造があ

る。いってみれば、人体の基礎ともいうべきDNAと構造上の共通点があるわ

けで、このことが、私が多面体を作る材質として特に水晶を選んだ大きな理

由もここにある。このことは、私たち人類が歴史上において水晶と深いつなが

りをもってきたことからも十分うなずける。

●大脳皮質に潜んでいた六角柱

我々の生命の源であるDNAのなかには、正五角形や正六角形、さらには正

四面体が潜んでおり、また、血液のヘモグロビンのなかのヘムは、酸化状態

になると鉄のまわりが正八面体構造になることもよく知られている。この他、

脳細胞の中枢である大脳皮質は、規則性のある六角柱の集合体から成ると

考えられている。これについて、大脳研究家の第一人者として知られている

東京大学医学部解剖学教室の教授であった養老孟司氏は、その著書「唯脳

論」で次のような指摘をしている。「皮質を蜂の巣状と見ることも可能である。

蜂の子を入れる個々の単位は(大脳皮質では)、コラム構造と呼ばれる。各コ

ラムは、全体として皮質を縦貫する小柱構造をなす。機能的には、これを情

報処理の素子とみなすことができる」これはあくまで私の推測であるが、ここ

で注目すべきは、冒頭「皮質を蜂の巣状と見ることも可能である」と述べてお

られる点だ。つまり、我々人間の大脳皮質の構造は、蜂の巣と同じ、ある種

の多面体構造をしていると指摘しているのである。

●「大和比」で構成されている蜂の巣

誰もが知っているように、蜂の巣の切り口には六角形の柱がわずかの隙もな

くびっしりと並んで埋めつくされている。その六角形の一つが蜂の住む小部

屋になっているが、よく調べるとそれらはみな「大和比」を基本にしたひし形十

二面体の形をしていることが予想される。なぜそうなっているのか。これには

自然の摂理ともいうべき実にもっともな理由がある。つまり、互いの接触面積

をいちばん小さくして、なおかつ小部屋の総容量をいちばん大きくしようとす

ると、ひし形十二面体の小部屋を組合せるのがもっとも効率的なのである。

幾何学的にいって、蜂の巣の作りは、多くの蜂が能率的に共同生活を営むう

えでもっとも合理的な形態になっているというわけだ。蜂の巣がひし形十二面

体を基本にして作られているという事実は、前述の天才天文学者ケプラーも

明らかにしているところである。蜂の巣を切断した断面に六角形がびっしり並

んでいるように見えるのは、まさにそのためなのである。ここで人間の脳に話

を戻すと、我々の大脳皮質は養老氏が指摘するように断面が蜂の巣状に六

角柱の集合体になっている。これは大脳皮質の構造が蜂の巣と同じく「大和

比」によってできたひし形十二面体で構成されている証拠といえるだろう。い

うまでもなく自然界の法則にしたがって蜂の巣はそこに住む蜂の生態にぴっ

たり適合するよう、また大脳皮質はその働きが最高になるようにそれぞれい

ちばんふさわしい密度の高い形に作られている。その形こそが「大和比」によ

って構成されているひし形十二面体というわけなのである。

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